杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

駿府城薪能鑑賞&混乱記

2015-08-29 08:40:12 | アート・文化

 サッカーW杯ロシア大会のアジア2次予選が近づいています。ハリルJAPANになって公式戦でスカッとした勝ちがないのでヤキモキしちゃう・・・な~んて書き出すと、いかにもサッカー通みたいだけど、ツウでも何でもなく、最近は選手の名前が全然覚えられなかったり、試合中継を最初から最後まできちんと観る忍耐力すらないレベル(苦笑)。とにかく勝ってくれないと盛り上がらないのは確かですね。

 思えば日韓W杯が開かれたのは13年前。今の代表選手たちは小~中学生ぐらいかな。きっとモノ凄い感動と刺激を受けて「自分も日本代表になるんだ!」と目を輝かせたことでしょう。ちょうど日韓大会開催中、私は(財)静岡県文化財団発行の季刊誌【静岡の文化70号/特集・静岡県の能と狂言】で、駿府城薪能鑑賞レポートを書かせてもらいました。エコパで生観戦した直後だったせいか、能楽師とサッカープレイヤーを無理やりこじつけた文章になってて我ながら笑えた。文化財団の格調高い雑誌によく採用されたなあと、今読むと冷や汗モノです(苦笑)。

 

 この記事のことを思い出したのは、先日、郷土史家の黒澤脩先生からお問合せをいただいたからです。冒頭のリードコピーは「駿府城薪能は、能楽好きだった家康公が駿府城内で15回も催能したという故事にちなみ・・・」と開催の由来から書き出したのですが、この「駿府城内で15回の催能」という記述はどの文献を参考にしたのか?というおたずね。駿府史の生き字引のような先生も未確認の情報を、なんで私が!?・・・と混乱し、アホな私でも、何の裏付けもなくそんな具体的なことを書くはずがないし、主催者から提供されたプログラムか資料があるはずだと、あわてて取材用の資料箱をひっくり返してみたものの、残念ながら当時の資料は残っておらず。

 いそいで主催者の静岡市文化振興協会と静岡市文化振興課を訪ねて、当時の資料が残っているか確認してもらったところ、駿府城薪能は静岡市と清水市の合併を機に、三保で毎年開催されていた羽衣薪能を駿府城公園でもやろうと平成9年(1997)から始まり、平成15年(2003)に終了。10年以上経過した行政資料は廃棄されるそうで、駿府城薪能関連の資料はゼロ。当時の担当者は定年退職してしまい、分かる人もゼロ。手がかりはあっけなく途切れてしまいました。

 このままではライターとしてあまりにも面目ないと、静岡市立図書館を2ヵ所回り、お盆開けには松崎晴雄さん主催の日本酒の会へ行くついでに江戸東京博物館で開催中の【徳川と城~天守と御殿】を観て、館内図書館で資料をあさり、ついでに国立国会図書館に回って「駿府城」「家康」「能楽」など想定できるあらゆるキーワードで検索してみたものの、「15回催能した」という具体的な記述にはたどり着けませんでした。

 目下、鋭意、調査中。とりあえず件の記事を再掲しますので、駿府城薪能関連の資料をお持ちの方がいらしたら、ご連絡お待ちしております

 

 

駿府城薪能鑑賞記 ~イマジネーションを循環させるプレイヤーたち (文・イラスト 鈴木真弓)

<掲載/静岡の文化70号(2002年8月15日発行) 発行/財団法人静岡県文化財団>

 

 駿府城薪能は、能楽好きだった家康公が駿府城内で15回も催能したという故事にちなみ、平成9年から静岡市の文化イベントとして開催されている。イベント野外薪能は、初心者にとって能の高い敷居を少し下げてくれる。しかし雰囲気だけで満腹になる可能性もある。鑑賞者としてのモチベーションに自信がないまま会場に向かった私だが、にわかサポーターがホンモノのサポーターになれるような希望が、そこにあった。

 

 私が初めて能を観たのは20年ほど前(=1982年頃)で、興福寺の薪能だった。興福寺は薪能発祥の地で、修二会に使われた薪を焚いて行なった薪猿楽がルーツらしい。今も記憶に残るのは、黒衣に白の袈裟頭巾の僧兵が薪に点火する姿と、妖しく輝く篝火の背後に黒く浮き立つ南円堂の姿である。能を鑑賞したというよりも、宗教儀式のような風景を味わっただけだった。

 次に観たのは10年ぐらい前(=1992年頃)で、三保の羽衣の松の薪能だった。こちらも絵になる舞台設定だったが、能そのものの価値は解らず、雰囲気鑑賞で終わった。サッカーのルールや選手の名前は判らないけど代表ユニフォームを着てW杯気分に浸る、にわかサポーターのようなレベルだ。それからまた10年経て、3度目の薪能である。

 今年の駿府城薪能の演目は、能『百万』『小鍛冶』と狂言『文荷(ふみにない)』だった。『百万』は夫と死別し子と生き別れた狂女が、嵯峨野清涼寺の大念仏で一心に舞う。仏の功徳か、念仏堂に集まった群集の中で子と再会を果たす。『小鍛冶』は帝の御剣を作るよう命じられた刀匠が、腕のいい助手がいなくて困っていたところ、神の使いの助けで見事な御剣を打つというお話。ストーリーだけでも把握していれば少しは理解できるかと思い、解説書に目を通してきたが、今回も駿府城巽櫓を借景にした、実に絵になる舞台。雰囲気だけで満腹になる可能性は十分にある…。

 そもそも能ほどイマジネーションを働かせて観る舞台はない。仮面で覆われた役者の表情、むきだしの舞台上に最低限の小道具、どれも同じように見える装束と単調なお囃子。想像を楽しむゆとりがなければ、これほどつまらない舞台はないだろう。貴重なチケットを三たび無駄にすまいと思った私は、上演前に開催された鑑賞者のためのワークショップに参加した。そこで装束や小道具のひとつひとつに意味があり、役柄を説明する記号であるということを学び、出演者自身から興味深い話をいろいろ聞くこともできた。

 

 サッカーの試合だってオフサイドのルールひとつ解れば、その分確実に見方は変わる。プレイヤーの人間的な魅力に触れれば、興味はさらに深まる。ワークショップでとりわけ印象に残ったのは「後見役」の話だ。舞台の後方に着座している紋付き袴姿の人たちのことである。

 能には衣装係や道具係といった裏方はいなくて、装束は演者自身がコーディネートし、他の能楽師が着付けをする。演者の体型に合わせて紐と糸で縫いつけたり、カツラも演者の頭に合わせて毎回結い整えるという。「頭を押さえつけられ、耳もカツラで覆われて自分の声も聞けないんですよ」とシテ(主役)の観世芳宏さんは苦笑する。「後見」を務める能楽師は、舞台上で視野や動作が限られたシテの目や手となる。揚幕の上げ下げ、道具の運び出し、シテの着付け直し、はたまた不測の事態になれば代役を務めるなどマルチな能力を求められるのだ。観世さんは「能楽師は後見が務まるようになって、初めて一人前と認められるのです」と強調する。

 役者と裏方の能力を兼ね備えた、つまりディフェンスも出来るフォワードのようなプレイヤーたちが、流儀という名の制約を遵守しながらひとつの舞台を創り上げる。互いの力量を知り尽くしている者同士、信頼や競争力も働くだろう。仮面や装束の裏に秘められた人間性に少し近づけたことで、私のイマジネーションが循環し始めた。

 

 さて本番である。月夜にライトアップされた駿府城巽櫓。19時をまわって薪に火が入った後に演じられた『小鍛冶』は、神の化身に扮したシテの神々しいいでたちと、剣を打つ鍛冶壇や相槌を打つ動作の華やかさが、薪能の舞台によく映えた。自分が戦国時代の人間だったら、こういう舞台にグッと来て、ストレス解消できるだろうなあと思った。

 日没前に演じられた『百万』は薪の点火前だったこともあって、薪能らしさを味わうものではなかったが、その分、演目に集中し、感情移入できた。生き別れた子を群集の中から必死に探そうとする女・百万(シテ)。深緑の上衣と手に持つ笹の枝は、女の深い悲しみを表現している。背後に広がる駿府公園の内堀の木立が深緑の上衣と同化し、能面だけが浮き上がって見える。やつれた中年女性を表す『深井』という女面。日暮れ時の時間帯にこの演目を設定した出演者は見事だ。途中で烏帽子が風に飛ばされるハプニングが生じたが、後見がすばやく拾い、シテはそのまま舞い続けた。子への恋しさが激しく募る場面ではお囃子のテンポが速くなり、子との再会では深緑の上衣を脱ぎ、悲しみを脱却したことを表した。大勢の群集の中で百万が念仏を舞うという設定なので、我々鑑賞者は自らをその群集に置き換えることもできる。想像力を発揮しやすい演目だと思った。

 主人に使いを頼まれ、その中身が恋文と知って盗み読む太郎冠者の騒動を演じた狂言『文担』、薪能にふさわしい幽玄な『小鍛冶』と演目は進み、3時間はあっという間に終わった。能を観てあっという間だと感じたのは初めてだった。舞台上から得る情報量が過去2回とは比較にならないほど多く、情報を整理し、想像力を肉付けするのに必死だったからだ。もう少しゆとりを持って観られたら・・・と次から次に欲が湧く。エコパでW杯を生観戦した後もそんな気分だった。これは、プレイヤーの人間性を感じる舞台の醍醐味を知ったときの、共通した感覚かもしれない。(了)