今年のNHK大河ドラマ『おんな城主直虎』は、過去のドラマや映画ではあまり取り上げられなかった桶狭間以降の今川家を取り上げ、ヒール役ながら寿桂尼や今川氏真が存在感をもって描かれています。8月10日には静岡音楽館AOIで、氏真を演じる尾上松也さんが司馬遼の「龍馬がゆく」を朗読された舞台を観に行きました(松也さんの本名は龍一さんで、ご両親が龍馬の舞台に出演されていたご縁で命名されたとか)。ドラマでは今川館が焼かれてしまって氏真も散々な目に遭っていますが、「撮影はまだ残っているので楽しみにしてください」とおっしゃっていました。
今川家初代範国が駿河の守護職に就いたのは建武4年(1337)。もともと清和源氏の流れを汲む足利義兼の孫・吉良長氏の二男国氏が三河国幡豆郡今川庄(現・愛知県西尾市今川町)に住みついて今川姓を名乗ったのが始まりで、国氏の孫・範国が南北朝の混乱に乗じて三河から駿河へと勢力を伸ばし、遠江守護と駿河守護を兼任するようになりました。
西尾市は現在、抹茶生産量日本一。〈宇治抹茶〉が冠につく菓子商品の大半は、実は西尾の抹茶を使っているそうです。この地には13世紀に実相寺(吉良家の菩提寺)に茶種が持ち込まれ、江戸時代に紅樹院住職の足立順道が本格的に抹茶栽培を始め、矢作川沿岸の台地に茶園を開拓し、茶の文化も醸成されたようです。茶どころ&今川つながりで静岡市と交流があってもいいような気がしますが、あまり聞いたことないな・・・。
井伊家の初代共保は平安時代の西暦1010年、井伊谷にある龍潭寺門前の井戸から誕生したといわれる伝説的な人物で、大河ドラマでも初代を弁天小僧と親しく呼び掛ける井戸のシーンがたびたび登場しましたね。
井伊家は遠江の国人領主として栄え、南北朝時代には南朝方の拠点として後醍醐天皇の皇子・宗良親王を庇護するなど一大勢力を誇りましたが、徐々に今川氏の圧力を受け、支配下に。22代当主直盛が桶狭間で戦死し、23代直親も今川氏に討たれた後は、ドラマのとおり出家していた直盛の一人娘が次郎法師直虎を名乗って井伊家を切り盛りします。今川氏との徳政令を巡る攻防や家老小野政次の(ドラマでは直虎愛に殉じた)謀反で再三お家断絶の危機に遭うも、直親の遺児・虎松を三河鳳来寺にかくまい、元服後は徳川家に仕えさせ、虎松は直政となって井伊家を再興しました。
井伊谷は“井の国の大王”が聖水祭祀をつとめた「井の国」の中心に位置し、井伊谷川、神宮寺川の清流が浜名湖に注がれ、周辺には縄文・弥生の古墳遺跡や水にまつわる伝承も数多く残されています。7月末に龍潭寺を訪ねたとき、森の木立の中にひっそりたたずんでいるとばかり思っていた弁天小僧・共保の伝説の井戸が、寺にほど近い田んぼの真ん中に堂々と整備されていたのに驚きました。
ところでこの夏、一番頭を悩ませたのは、地下水利用団体の機関誌に3年前から年に1本ずつ依頼されている「水」についての原稿執筆でした。1本目は静岡県の酒造りについて、2本目は静岡県のわさび栽培について書かせてもらいましたが、得意分野を書き尽くしてしまって3回目はどうしようかと水に関する書籍を乱読したものの、今一つ“降りてこない”。大河ドラマで、一族の始祖が井戸から生まれたという伝説を知ってピンと来たものの、井伊家の話を延々と書いても仕方ないし、何か違う角度から考察できないかとネットサーフィンしていたら、ミツカン水の文化センターが発行している文化情報誌『水と文化』に出合いました。
取り寄せたバックナンバー水の文化11号「洗うを洗う」の、宗教学者山折哲雄氏のインタビュー記事〈涙はなぜ美しいのか~風土、宗教、文明から見る水の浄化力と浄めの文化〉が目に留まりました。
氏がイスラエルのキリスト巡礼地を訪ねたところ、イエスが洗礼を受けたヨルダン川は水がちょろちょろと流れる小川で、伝道活動も水が極端に乏しい砂漠地域。エルサレムはまるで砂漠の廃墟の上に建つ楼閣に見えたそうです。
「水が欠乏している風土、つまり砂漠に生きる人々にとって、唯一価値のある源泉は地上にはない。地上には何もない砂漠だからこそ、天上の彼方に唯一の絶対価値を求めるようになる。一神教の風土的背景はまさにここにあると思う。これは理屈ではない。行ってみたら実感として分かる」
「水の有無というのは、そこに住んでいる人間の信仰から死生観、自然観から美意識まで、何から何まで方向づけている決定的なもの。水は人類の文化や文明のもっとも根底に横たわっているものではないか」
仏陀もインドとネパールの半砂漠地帯で伝道し、マホメットも砂漠地帯で預言者になりました。「今から2千年~2千5百年前は地球が急速に砂漠化した時代。人類を救済する優れた宗教はそのような厳しい風土の中から生まれた」と山折氏。それに引き換え、山川草木に恵まれ、砂漠化することもなかった日本では、天上の彼方を仰ぎみなくとも地上の至る処に命が宿り、神や仏の声を感じることができたでしょう。仏陀やイエスが生まれる前のはるか縄文時代から、一木一草に神が宿るという原始神道が存在した。それら万物の命の源が「水」なんだな、と改めて深く感じ入りました。
井伊家の伝説を口切に〈人類の文化や文明の根底に横たわる水〉という途方もないテーマに突っ込んでしまいましたが、できるだけ自分自身が見聞した具体例で考察したいと思い、実際に訪ね歩いた京都の名水スポットや、駿河茶禅の会で拝見した名水点前をピックアップ。草稿を仕上げたところで、8月27日に引佐奥山方広寺の夏期講座に参加し、安永祖堂大師による白隠禅師坐禅和讃の解説で、またまたピンと来ました。
禅宗の法事では必ず唱和する有名な『白隠禅師坐禅和讃』は、こういう一節から始まります。
衆生本来仏なり 水と氷の如くして 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生本来仏なり(生きとし生けるものすべて、本来、己の中に仏を備えている)とは、一木一草に神が宿るという原始神道にも通じる意味だと思います。
水は形のないもの=仏(悟り)、氷は水が器(決まった環境や条件)に入って固形化したもの=人間(煩悩)を指します。つまり人間はもともと素晴らしいのに、自分自身で囲いを作って固めてしまい、がんじがらめになる。それでも水と氷は本来同じものだから、氷(煩悩)が大きければ大きいほど融けたときには大量の水(大いなる悟り)となるんだよ、という白隠さんの深い呼びかけなんですね。
「ほとけ」という言葉は、とける(ほどける)が語源ともいわれるそうです。氷が融けて水(ほとけ)になるんだ・・・何やら心にスーッと入ってきました。
続く芳澤勝弘先生の白隠禅画解説で、先生が方広寺のしおりを忘れずに読んでくださいとおっしゃるので、休憩時間にしおりをもらったら、「井伊谷に新橋二つを架けた白隠禅師」という巨島泰雄氏(方広寺派宗務総長)の記事を見つけました。
それによると、白隠禅師は寛保2年(1742)、井伊家初代共保の650年遠忌法要のため、井伊谷を訪ねています。龍潭寺そばの川は再三の大雨で橋が流され、白隠の輿は修行僧たちが肩まで水につかりながら必死に担いだ。法要の後、白隠は寺が用意した施入銭(謝金)40両全額を募金に回し、「みなが力を合わせ、日をかけて浄財を募れば必ず橋はできる」と発願。2年のうちに新橋が2本完成し、人々は昭和の太平洋戦争の頃まで「白隠橋」と呼んでいたそうです。
芳澤先生訳注の『白隠禅師年譜』で確認したら、こう書かれていました。
「寛保二年の秋、遠州井伊谷、万松山龍潭寺の招きに応じて出かけた。矢畠川というのが東南に流れていた。七八人の人夫が左右に分かれて籠を護りながら、この川を渡る。迎えに来た僧俗も、みな裾をからげてこれに随う。水は股半ばに達している。みな緊張して、恐る恐る渡ったのだが、『この川にはどうして板橋もないのであろうか』と思ったのである。三四日後、東隣の実相寺に行くことがあって、またこの川を越えた。駕籠かきの話では、この川はひと月に二度も三度も溢れることがあり、溺れる者がしばしあり、時には死者も出るという。そこで、重ねて思ったのである。『道路を直したり橋をかけることは、善縁徳行の最たるもの。皆で力をあわせれば、難しいことではない。少しずつであっても、歳月を累ねるならば、必ず大きな力になり落成しよう。新橋を発起するのも利済の方便となるであろう』と。そこで化縁簿を作り、今回いただいたお布施四貫文をつけ、偈を作って、大通、自耕、元海、円通の四庵主に渡した。ささやかながら、これが端緒となれば幸いである」
恵みの水が時には人の命を奪うこともある・・・そんな井の国の川に、命の橋を架けた白隠さん。浄土では共保や直虎にさぞかし感謝されたことでしょう。今回の「水」の原稿執筆では、白隠さんは想定外でしたが、知ってしまった以上、書かずにはいられません。融けた氷の水の量が思いのほか多かった・・・そんな感じでしょうか。