杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

興津宿朝鮮船漂着一件から学ぶ

2019-08-25 20:10:23 | 朝鮮通信使

 前回ご案内したとおり、8月24日(土)夜、興津生涯学習交流館で『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の上映会&トークショーが開かれました。50名定員での募集でしたが、蓋を開けてみたら100人近い方々が駆けつけてくださり、映画を初めて観るという方も多かったので大変感激しました。ご参加の皆さま、開催に尽力された朝鮮通信使静岡ネットワークの皆さま、本当にありがとうございました。

 

 北村欽哉先生とのトークは時間が限られていましたが、地元興津の方と思われる質問者から「興津宿朝鮮船漂着事件のことを紹介してほしい」とリクエストがあり、北村先生が駆け足でお話されました。日韓関係がギクシャクしている今、この歴史秘話は多くの人に伝える価値があると思いましたので、当ブログに2013年5月に投稿した記事を再掲します。

 

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 『興津宿朝鮮船漂着一件』とは、江戸中期の明和7年(1770)5月5日、清水の興津宿の海岸に、13人の朝鮮人が乗っていた朝鮮船が漂着した事件のことです。

 船は済州島の商船で、1月28日に出航し、朝鮮半島南部の所安島というところへ向かったのですが、嵐に遭遇して数ヶ月も漂流していたそう。日本海で遭難した船が、太平洋側の駿河湾に漂着したというのはビックリですが、興津宿の医師と交わした筆談した記録がちゃんと残っています。要訳すると―

 

(医師)みなさんはどこの国の、どちらにお住まいの方々ですか?

(船員)朝鮮国全羅郡都領厳県(=済州島)拝振村の者です。

(医師)どこに行こうとして遭難したのですか?

 (船員)我が国の所安島に行こうとしたら、嵐に遭い、航路を見失ってしまいました。船の道具や帆や様々なものを失ってしまい、何ヶ月も海上を漂流し、5月にここに到着しました。

 (医師)国を離れるときは何人乗船していたのですか?

 (船員)34人乗っていましたが、21人が溺死してしまいました。海上がひどく荒れていました。

 (医師)数ヶ月、船中で何を食べて生き延びていたのですか?水はなかったと思われますが、どうされていたんですか?

 (船員)はじめは天から降る雨を集めて使い、一日3回ご飯を炊きましたが、その後は久しく雨が降らず、生米を食べてしのぎました。

 (医師)13人のお名前と年齢を教えてください。

 (船員)金取成、34歳。船頭を務めています・・・

 (医師)朝鮮国の人は何を食べているのですか?

 (船員)我が国では猪、鹿、鶏、牛、魚、豹などの肉を食べています。

 *『落穂雑談』『一言集』より

 

 彼らの救出から1ヶ月後の明和7年6月、13人に対して一人1頭ずつ馬があてがわれ、長崎を経て帰国の途に。難破船も、港から港へと継送しながら大坂まで運ばれ、長崎→対馬経由で送還されました。

 馬に乗せるというのは、当時では国賓待遇。難破船も扱いも大変丁寧です。幕府はわずか1ヶ月の間に、彼らを厚遇しながら帰国せよと各藩に通達したわけです。これは、朝鮮通信使の招聘によって、日朝両国の間に相互協定が出来上がり、諸藩にもその認識が共有されていたことを裏付けます。

 当時、このようにして漂流民を送還した例は、記録にあるだけで197例。朝鮮船の場合は上記のように、当時の外交窓口であった長崎奉行所を経て、対馬→釜山の倭館へと送還されたそうです。

 

 話は逸れますが、釜山の倭館というのは朝鮮王朝と幕府の仲介役を担う対馬藩士や対馬商人が常駐するいわば在外公館のようなもので、敷地は約10万坪。当時、長崎にあった出島は4千坪、長崎唐人屋敷は1万坪程度だったことを考えると、破格の規模ですね。

 対馬藩は現地から絹、生糸、高麗人参などを仕入れ、長崎経由で入ってくるものと同等品質のものを格安で販売し、京都で人気を集めました。これに目をつけた越後屋がダミー会社をつくって独占販売し、江戸で大儲けしたそうです。時代劇の「越後屋、おぬしもワルじゃのぅ」の台詞はこんなことから生まれたのかな(笑)。

 

 朝鮮通信使外交は、秀吉が引き起こした文禄慶長の役(1592~98)という理不尽な侵略戦争からわずか9年後の1607年にスタートしました。最初の使節団が来日したとき、彼らは日本の担当者に鉄砲が欲しいとオファーしたそうです。高性能の鉄砲がなかったため、朝鮮軍は日本との戦いで苦戦したんですね。いくらなんでも、ちょっと前まで対戦国だった相手に大胆な注文です・・・。

 でもこのとき、家康は、「もし仮にふたたび戦争をする羽目になってしまったら、戦わなければならないが、そのとき、兵器を持たない相手と戦う気はさらさらない。いわんや、大切な隣国が欲しいというのになぜ止められようか」と答えたのです。

 家康が、秀吉の侵略戦争の後始末で、交渉相手だった松雲大師に「自分はこの戦争に参加していない。朝鮮に恨みは一切ない」と弁明し、相手の機嫌を取ったことは承知していましたが、こんな具体的な言葉で反省の意思を表明していたとは・・・。「武器が欲しいならどうぞどうぞ」と聞けば、日本側が本当に再び戦争を起こしやしないか“探り”を入れていた第1回目の通信使にも、それなりの説得力があるというものです。

 通信使はこのとき、堺から大量の銃を持ち帰りました。銃器を欲していた主な理由は、朝鮮半島北部から女真族の侵攻が危ぶまれ、その防衛対策のためでした。家康側がそういう背景をリサーチした上で対応したのなら、大変に優れた外交インテリジェンスといえるんじゃないでしょうか。このエピソード、映画制作時に知っていたら脚本に書いていたのになあ・・・残念!

 

 ところで朝鮮通信使外交が順調に推移していた元禄時代、江尻の高札場に『竹島渡航禁止の御触書』なるものが掲げられました。もちろん江尻だけじゃなく、全国の港町にも。

 内容は「日本人は竹島に絶対に渡ってはいけない」というもの。ここで言う【竹島】とは、問題になっている島根沖の竹島ではなく、韓国領海内の鬱陵(ウルルン)島のこと。この島は倭寇の拠点で、海賊行為を働く日本人のみならず、朝鮮人、中国人など周辺国出身のヤバイ連中の根城だったんですね。朝鮮王朝はこの島に対し、空島(無人)政策をとっていたのですが、アワビの宝庫でもあったため、日本の対馬あたりの漁民がひそかに渡ってアワビの密漁をしていたそうです。

 そのことが朝鮮国内で発覚し、「日本人が勝手に漁をしているのに、なんで朝鮮人はダメなのか!」と騒ぎになります。対馬藩は「鬱陵島はうちらの領土だ」と開き直り、幕府内でも賛否両論。元禄バブル絶頂期のこと「いっそのこと戦って奪い取れ!」と強硬論も出てきます。「今まで苦労してようやく対朝関係が安定し経済が潤っているのに、戦争なんかもってのほか!」と対馬藩内でも論争となり、徳川将軍の「日本人は渡航不可!」の最終結論で一件落着。この穏便な解決が、その後の漂流事件のスムーズな解決にもつながったと言われています。

 

 もちろん今とは政治状況が異なり、一概に比較はできません。外交とは、武器を持たない戦争とも言われますが、自己を正当化し、主張を押し通すだけが外交ではないんだろう、ということを歴史は教えてくれます。

 「この興津沖の一件はぜひ韓国側にも知っていただきたい」と力強く締めくくられた北村先生。 世界を見渡しても、いがみ合いや紛争がまったくないという隣国同士は皆無でしょう。それでも国境を接するもの同士、一生付き合っていかなければならないのですから、衝突があってもどこかで妥協し、譲り合っていくしかない。韓国朝鮮半島は陸続きではないにしろ、日本にとっては取り換えようのない隣人なのだから、感情論に走らず、叡智を活かし、現実的な判断をした先人に学ぶべきだとつくづく実感します。