杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

�椈八接心体験

2012-12-06 14:12:59 | 仏教

 12月2日は京都の興聖寺で『�椈八接心』修行に、一日だけですが参禅させていただきました。先日書いたとおり、接心とは一定期間集中して坐禅修行することで、�椈八接心とは、釈迦が悟りを開いたとされる12月8日の前1週間(12月1日~7日)まで昼夜通しで行います。興聖寺では朝4時から夜23時まで、坐禅と読経をひたすら続けます。

 

 

 

 私は以前、5月のGW中に行われた接心に参禅したことがあります(こちらを参照)。時計とパソコンと携帯のない、〈個〉を押し殺した5日間は“非日常”でしたが、今の暮らしの中ではやはり得がたい尊い時間でした。

 

 

 今回も、一日だけですが禅の修行の厳しさを改めて実感する時間となりました。朝8時に寺に着くと、ちょうど掃除の時間。修行僧に混じって一般の参加者も5~6人、ヨーロッパ出身の若い女性もいました。

 

 私もとりあえず、寒さ対策に購入したヒートテック3枚+レギンスの上に、新調した作務衣を着て、庫裏の床掃除からスタートしました。

 

 雑巾がけは、この秋から始めたアルバイト(お寺の家政婦)で鍛えられた?せいか、フットワークよく、扉の桟の隅々まで見逃さず。かなり汚れがこびりついていたガラス窓も拭いてやりました。バイト先のお寺の奥様が「お寺さん同士で、どうしたら一般の人に気軽に寺に来てもらうようにするか話をしたとき、寺でコンサートやカルチャー講座を企画する等の話が多かった中、うちは何の取り柄もないから、”とにかく徹底して掃除をしてつねにきれいにしておく、それがお寺に来てくださる方への誠意”と答えたの」とおっしゃったのを思い出したのです。

 とにかくバイト先は掃除掃除の毎日。最初は何の意味があるのかと苦痛に思えたときもありましたが、奥様のその言葉はとても心に沁みたものです。

 

 このときも、ただの拭き掃除だけど、他の修行者に比べて年季が入っているんじゃないかと勝手な自信と勇気がもてました。

 

 

 

 

 

 ところがその自信も一瞬のうちに泡沫状態に。久しぶりに臨んだ長時間の坐禅は、まず両膝の痛みから始まりました。暖房のないすきま風が通る本堂内は、ほとんど屋外と同じ。ヒートテック3枚(キャミソール&長袖アンダーウエア&ネックTシャツ)も役に立たず、全身凍るような寒さ。よく見ると、他の参加者は作務衣の下にダウンジャケットやウールのセーターを着込んでいます。冬山装備で来ないとダメだったんだ・・・と後悔しきり。このまま壊死するんじゃないかと思えるほど冷え切った素足に、「ひょっとして凍死前ってこんな感じか・・・」と大げさな恐怖にふるえました。

 

 

 

 

 そんな心の迷いを見透かされたように、ご住職から、「少しぐらい寒い、痛い、を我慢できないでどうするんですか! 1年のうちのたった7日間です、真剣に座りなさい! 真剣に座る者は裸でも汗をかくんです!」と活を入れられました。

 

 ・・・そう、雑念にとらわれているときほど、寒さや痛みがより強くなるんですね。お腹の丹田あたりにグッとチカラを込めて、頭を真っ白にして、骨と肉と神経だけの、ただの物体になろう・・・。そう念じていると、ちょっぴり寒さを忘れる気がしました。

 

 

 

 

 坐禅は大まかに2時間おきにインターバルがあって、読経や食事の時間が入りますが、その間も修行ですから、無駄口はたたけません。事前にオリエンテーションがあるわけではなく、いつ、何を、どこでやるかは誰も教えてくれませんし、口頭で聞くことも許されません。トイレが我慢できず、行ってはいけない時間と知らずに行ってしまって叱られ。・・・50歳を過ぎてこういう体験って日常ではなかなかないなあ・・・。

 

 午後・夜と、一般参禅者の顔ぶれが変わり、ご近所の方はそれぞれ都合のよい時間に座って帰るという感じ。食事の時間になると人数が増えるようです(苦笑)。さすがにぶっ通しで参加する人は少なく、一般の人がこれを1週間続けるには、マラソンランナーかアルピニストのようにしっかり体をつくり、心して臨まなければ無理だろうと思えてきます。しかし、時間の長い短いはあるにしろ、参禅する人は、昨年の3・11以降、月ごとに増えているそうで、実際、私が2008年5月に参加した接心の時よりも、はるかに多かった。

 

 

 

 

 イマドキの娑婆の世界は、快適で便利で楽な暮らし方や、モノごと賢くこなすスマートな生き方が良しとされます。先日の静岡県ニュービジネス協議会のフォーラムもまさにそれがテーマでした。 同じ平成の世に共存する、このような修行の世界を人が求め、望んで苦行を体験しようとする・・・そんな現象が不思議といえば不思議です。

 

 

 

 坐禅の話をすると、多くの友人から「いいなあ」「自分も一度行ってみたい」と言われます。この記事を読んで、なおも「いいなあ」と言ってくれるかどうか分かりませんが(苦笑)、人は、いくつになっても、苦痛を必要とする生き物なのかもしれませんね。

 

 

 

 

 唯一、掃除のときに感じた、「体で覚える」ことの意義。雑巾がけをしているときは無心になれて、体が自然に軽く動いたのが不思議でした。これは日常のバイトの積み重ねが奏功したに違いありません。

 修行を続けるというのは、肉体と感性を研ぎ澄ますことだと、今回の坐禅体験でなんとなく実感できた気がしました。もちろん、まだまだ序の序の序の口ですが。

 

 

 

 23時。一日の修行を終えて京都駅までタクシーで戻り、24時に京都駅発の夜行バスで静岡へ戻りました。タクシーの運転手さんからも「坐禅ですか~いいですねえ、自分も一度やってみたいんですよ。今のお寺で出来るんですか?」と訊かれました。気持ちがあっても、最後は結局、やるかやらないか、です。今の私には、やってみて初めて解ることがある、としか言えませんが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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