杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

エターナル・ナウ

2014-12-06 22:00:13 | 国際・政治

 インターネットを利用した選挙運動が解禁になって初めて迎えた衆議院議員の総選挙。フェイスブック等でもわりと政治に関心のある人が多く、特定の候補者をはっきり支持する!と堂々宣言する書き込みに新鮮な感動を覚えます。昔に比べ、「政治家なんて誰がやっても同じ」「選挙なんかしたって何も変わらん」な~んて冷めたことを言う人は少なくなっているような気がしますがどうでしょうか。

 

 私が長く広報のお手伝いをしている上川陽子さんも静岡一区に立候補し、法務大臣の公務や他県の新人候補の応援に走りながらも頑張っておられます。選挙期間中に陽子さんのことをブログで書けるなんて、これまた新鮮な感じがしますが、皆さんの関心が集まるこの時期だからこそ伝えておきたいことを、ちゃんと書いておきたいと思います。

 

 2011年4月からスタートしたFM-Hi の【かみかわ陽子ラジオシェイク】では陽子さんから心に残る言葉をたくさん聞かせていただいています。中でも一番好きな言葉は2013年1月の放送でうかがった「エターナル・ナウ」。

 陽子さんは2000年に初当選し、その後所属したのが自民党の宏池会。ご承知の通り、池田勇人元首相に始まり、歴代宰相を輩出してきた政策集団です。その中のお一人、大平正芳元首相が座右の銘にされていたのが「エターナル・ナウ Eternal Now 」だったそうです。

 直訳すれば「永遠の今」。神学者ポール・ティーリッヒの言葉だそうで、

 

  すべては「いま」という瞬間につくられる

  過去の歴史も「いま」という時間の連続の中で積み重ねられていて、

  未来は「いま」という時間が連続することでつくり上げられていく

 

 と解釈されています。

 

 大平内閣は昭和53年2月から、大平さんが心臓発作で急死した昭和55年7月まで。(享年70歳)。当時、私は高校生で、「アーウー」と物真似される総理、というイメージしか残っていなかったのですが(苦笑)、大平さんご自身は敬虔なクリスチャンで、知性派の文人宰相として知られた方。首相になる前も、池田内閣の官房長官をはじめ、外務大臣、大蔵大臣、自民党幹事長という要職を務め上げた実力者でした。とりわけ外相時代の昭和47年には日中国交正常化を果たし、大平内閣では地方の時代、文化の時代を予期して田園都市国家構想を打ちたて、昭和54年には東京サミットを成功させました。

 

 先日、県立図書館で、大平元首相の在職時の演説や対談をまとめたその名もズバリ【永遠の今】という本を見つけました。それによると、大平さんは香川県豊浜町の農家の次男坊で苦学して東京商科大学に進み、大蔵省に入省。若い頃、農民が造った密造酒の摘発現場に立会い、「権力と民草、治者と被治者の哀しいかかわりあいについて、何かしら割り切れない、やり場のない気持ちに沈んだ」と吐露したそうです。

 戦時中、食糧統制で国民生活が極度に悪化する中、東京財務局関税部長だった大平さんは、きびしい耐乏生活とはげしい勤労に疲れ果てた庶民のささやかな息抜きに、一人一杯のコップ酒がのめる「国民酒場」というのを創設されました。どれくらいの効果があったのかは計り知れませんが、当時の大蔵省のお役人がそういう気持ちを持っていたというのは意外、というか、映画の世界の話みたいですよね。

 

 【永遠の今】の中でひときわ印象に残ったのが、昭和55年5月、亡くなる2ヶ月前に上智大学学長のヨゼフ・ピタウ氏と行なった対談でした。この中でお2人は日本を「伝統と変化を同時進行させる民族」と述べています。発言の要旨を上げてみると―

 

(ピタウ)18世紀のイギリス国会議員で政治思想家でもあったエドモンド・バーク氏は、「政治をつくるのには、これという慎重な思慮深さは必要としない。なぜかというと、権力の座を確立すれば、また服従を教え込めばそれで行政的なことは十分だ。また、自由だけでも確立しようと思うならばなおさら簡単だ。勝手気ままにさせておけばそれでいい。しかし、自由と政府を共に確立するのは、この世でいちばん難しいことだ。制約と自由、行政と自由、相対立するこの2つの要素を調和的に一貫した制度にあわせるのはなかなか難しい」と。

 私に言わせれば、日本は、ほんとうに自由と秩序を一緒にあわせた国です。全世界を見回しても、おそらく、この2つのことを、こんなふうに調和的に合わせた国はたぶんないかもしれません。ただ自由の要素だけを取るならば、たぶんアメリカは日本より自由であるかもしれない。しかし、秩序はそれほどでもない。秩序だけを取るならソ連とか共産圏、あるいは独裁的な国家では、たぶん日本よりまとまっているかもしれない。しかし、この2つを調和的にきれいに合わせた国は日本だけだろうと。

 私の母校であるハーバード大学の学長がきて、「日本はふしぎな国ですね」とおっしゃるんです。みんな、日本は社会福祉は遅れているといっているのに、「平均寿命はもう世界一ぐらいですね。幼児死亡率も最低、また犯罪の面でも一番少ない」と。

 ヨーロッパは、ある意味において革命によって進歩する。そして断絶があるわけです。日本の場合には、伝統を守りながら改革を行なう。あるいは保守主義と革命主義を一緒にしたというひとつの伝統があるということですね。“主義”にとらわれないで、国のために必要なものをどんどん受け入れると。しかし、共同体は生きたものであると考えるから、今断絶して、今までのことを全部捨てるということではなくて、それを活かしながら発展させる。伝統と変化を一緒にする。

 

(大平)われわれが師と仰いでおるヨーロッパの国々は、生い立ちからいって、環境からいって、協力というよりは激しい対立のなかで、調和というよりは闘争的な状態の中で生き抜いてきた歴史ですね。日本の場合、そういうことがなく、海を隔てて大陸から離れた単一の民族が、単一の言語を持って、外からの刺激といえば仏教や儒教、明治時代にはいろいろ西洋の思想も入っていきましたけれども、日本を土台からやり直すほどの力にはならないで、長い間われわれの伝承がどうにか保たれてきたからではないか。つまり歴史の経過がそうさせたのであって、日本人がア・プリオリに、政治的に優れておるといえるのかどうか、私は若干疑問を持ちます。

 日本には、革命の歴史はなくて、維新があった。エボリューションの歴史はあるけれどもレボリューションはなかったと。言い換えれば、完全な断絶というのはなくて、依然として昨日が今日に継続していますね。それがまあ明治維新もそうだったし、昭和20年の敗戦のときもそうだったし、遡って大化の改新とみんないいますけれども、あれは、少なくとも革命ではなかったということ。

 

 この一説を読み終えた後、今日(6日)は午後から修験道をテーマにした歴史講座に参加し、講師の田中利典さん(吉野・金峯山寺宗務部長)から面白い話を聞きました。

   1 → 70     500 → 1500    15 → 12769

 この数字の変化の意味が解るか?と訊かれ、きょとんとしていると、

「3000年前、地球上の人口は1億人だったのが、現在70億人(70倍)になった」

「3000年前、ユダヤ人は500万人いたが、現在1500万人(3倍)」

「3000年前、日本人は15万人だったが、現在は1億2,769万人(880倍)。ちなみに中国は390倍」

 ということ。前述の対談のとおり、日本は人口崩壊=民族断絶を起こしていない稀有な国、というわけです。

 

 神学者ポール・ティーリッヒがどのような文脈の中で「エターナル・ナウ」という言葉を使ったのか、ティーリッヒの本まではさすがに触手していないのでわからないのですが、昨日が今日に、今日が明日に、という時間の連続が日本という国を創ってきたという解釈を得て大平さんがこの言葉を座右の銘にされたのだとしたら、この数字を見てしっくり来ます。・・・というか、こういう理解を以って治世にあたられていたのかと感動すら覚えます。

 

 その大平元首相を尊敬されている陽子さん。ラジオでは、日常の中で、つねに永遠なるものに自らをさらし、「いま」の意味を自問自答している、と述べていました。

 いまの日本人が選ぶ日本の政治家。大義なき選挙と言われますが、国の主権者である国民が声を示せる貴重な場である選挙には、目先の大義を求めるだけでなく、日本が持続可能な国であり続けるための人材投資として真摯に向き合うべきではないか、と思っています。

 

 それにしても、エターナル・ナウ。響きも素敵な言葉です。禅の言葉にも似たような意味のものがある気がします。今の自分には思いつかないのだけれど。


近江商人の酒蔵

2014-12-02 22:40:21 | 地酒

 このところの“白隠禅師熱”を機に、白隠さんが生まれ育った東海道筋の歴史について今一度勉強し始めています。酒造業の関係本から調べ直し、「そういえば東海道筋では近江商人が隠密活動のために造り酒屋を作ったんだよな・・・」と思い出して、読み始めたのが【近江日野商人の研究】(日本経済評論社刊)。ここに明治~大正期の静岡県内の酒米事情が書かれていました。

 

 大正期に編纂された『静岡県産業調査書』によると、酒造原料については、県内産がメインだが、時には肥後米、近江米、三河米が使われ、中でも近江米が主力だった―とあります。明治初期の近江米は品質粗悪だったようですが滋賀県が音頭を取って大粒米の改良を進め、明治22年の東海道線開通も後押しになり、県外へ販路が広がりました。お隣りの京都に60万俵以上(県外移出の70%強)出荷されましたが、静岡県にも6~7万俵(同6~7%)は行っていたとのこと。明治32年の『滋賀県実業要覧』によると、近江米の県外移出先上位は①京都、②大阪、③御殿場 ④浜松―という順位だそうです。

 同要覧には近江米の特徴をこう記してあります。

 

「米質改良組合設置以来、稲種改良はもちろん、乾燥、調整等に留意し、保存に耐え、概ね皮が薄く精米しても減耗することなく、食味のよい米である。さらに白玉、渡船、雄町等のような良種が多く、酒造の原料に適している」

 

 ちなみに現在の酒米キング「山田錦」は兵庫県農試で昭和11年に誕生。それ以前の酒米キングといえは備前赤磐郡雄町産の「雄町」でした。「白玉」は福岡生まれ、「渡船」は滋賀生まれです。現在、静岡県の酒蔵では滋賀県産の山田錦を使うところが増えているみたいですが、その背景には近江との長く深いつながりがあったんですね。

 

 では当時の静岡県産米はどうかというと、『静岡県産業調査書』には具体的な産地が記されておらず、近江日野商人の山中兵右衛門家が御殿場で開業したマルヤマ酒造店(酒銘は「富士戎」「開山」「雲上正宗」「翁舞」「吉端」)の仕入れ台帳に、富士郡吉原町(富士市)、駿東郡沼津町(沼津市)の地名がありました。吉原には矢部庄七、沼津には岡本市郎平という有力な米穀商がいたのが大きかったようです。鉄道輸送経路に拠点を持つ米穀商から酒造玄米をコンスタントに確保した・・・さすが隠密のDNAを持つ日野商人ですね!

 

 話は逸れますが、私のこれまでの地酒取材で最も縁の深い「磯自慢」「喜久醉」の2蔵は、静岡県がPRする県産酒造好適米「誉富士」を使用していません。前回記事で紹介した新事業創出全国フォーラムの交流会で、全国から来られた企業人の皆さんが交流会の席でこの2銘柄を試飲するのを楽しみにされていたのですが、県知事が乾杯の音頭を取るから、という理由で、会場では誉富士使用の酒オンリーになり、この2銘柄が見事に外され、当然ながらその理由を多くの人から訊かれました。

 業界内の複雑な事情について第三者の私が勝手な解釈をするわけにはいきませんが、長年、取材者として感じてきたのは、酒造業者にとって最も重要な原料である米のことについて、この2蔵は本当に早くから、真摯に、きめ細かく情報収集をし、現場を歩き、生産者や流通関係者と信頼関係を築き上げていた、ということ。まさに、近江商人にひけをとらない信用力と情報収集力です。けっして「米のことをおろそかにし、誉富士の使用者リストから外されたのではない」と明言しておきたいと思います。

 

 【近江日野商人の研究】には御殿場マルヤマ酒造店を例に、明治~大正期の酒造方法についても詳しく書かれていました。私が目を惹いたのは、杜氏集団のこと。大正期の静岡県下では能登(石川)、愛知の杜氏が活躍していたとのこと。さらに「県内では志太・浜名両郡の出身者が目立っていた」とあります。

 志太杜氏は知っていますが浜名湖周辺にも杜氏がいたんですね。そういえば大正時代の県下酒蔵軒数を調べていたとき、志太郡と浜名郡が突出して多かったことを思い出しました。やっぱり杜氏集団がいたんだ・・・いやぁ不勉強不勉強(恥)!

 

 マルヤマ酒造店は大量に仕入れた玄米を御殿場の隣村の高根村大堰に設置された水車で精米しました。明治34年(1901)の記録では、921,25石の玄米が831,4石の白米になった。精米歩合は91%程度、つまり約1割磨くことができました。それまでの足踏精米ではどんなに時間をかけても八分搗きが限度だったそうです。これによって、麹米のみならず掛米にも白米を使用する〈諸白造り〉が完璧に可能となりました。

 諸白の技術は室町時代に奈良正暦寺で確立されていましたが、全量白米仕込みを生産現場で標準化させるというのは、精米技術の進化を待たなければならなかったわけです。酒造史の本ではほんの数行で書かれたことも、こうして実記を読み解くと、そんなに容易ではなかったんだ・・・と真に迫ってきます。

 

 白隠さんの生きた時代の東海道を調べようと思ったら、すっかり酒造史にハマってしまい、とんだヤブヘビです(笑)。まだ全部読みきっていないので、山中兵右衛門家がどういう商家だったのか把握していませんが、初代山中兵右衛門は宝永元年(1704)に行商を開始し、御殿場には享保3年(1718)に店を構えた。その後、山中家は沼津に明和7年(1770)、天保7年(1836)に韮山に出店したそうです。白隠さん(1685~1768)とは初代~二代目あたりがどこかですれ違っていたかもしれない。ていうか、歴史に名を残す大店ですから、ひょっとしたら白隠コレクターかもしれませんね。

 ・・・ああ知らないことが山ほどあって眠れなくなりそう。