評価点:90点/1995年/アメリカ/170分
監督:マイケル・マン
義理と人情に翻弄される男たち。
ロスで裏の仕事を家業としていたニール(ロバート・デ・ニーロ)は、麻薬でもうける実業家の裏の証券を強奪する。
しかし、チームの新参者だったウェイングローは予期せずに警官を殺してしまう。
その捜査を任されることになったヴィンセント(アル・パチーノ)は、手口があまりにも鮮やかだったことから、通常の強盗事件ではないことを感じる。
そんなある日、ニールは大きなヤマを持ちかけられる。
銀行に毎月届けられる行員の給料を強盗するというものだった。
ヴィンセントは、次第にニールを追い詰めていくが……。
二大俳優の競演、さらにはその二人が善悪それぞれに別れて争う、という構図はアメリカ映画でももっとも典型なスタイルだろう。
その金字塔になったのが、「ヒート」であると言っても過言ではないだろう。
「フェイス/オフ」や「インファナル・アフェア」といった作品にも影響を与えている。
三時間という長い作品だが、それを集中させるだけの結構とリアリティに満ちている。
映画が、単なるフィクションで、お気楽な娯楽に過ぎない、といった批判を真っ向から否定するような、周到な準備によって撮影された。
一つ一つのパーツが、軽薄さではなく、重厚さで塗り固められている。
下手な最近の映画を見るよりも、絶対に見ておきたい映画である。
私は実に20年振りくらいにアマゾンプライムで見た。
ずっと見ようと思っていたが、上映時間が長いので敬遠していたのだ。
だが、やはり面白い!
▼以下はネタバレあり▼
マフィアと警察が抗争を繰り広げるというのはアメリカ映画ではよくある話だ。
それは、マフィアが日常的に暗躍している、犯罪率が高い、という面もあるかもしれないが、それよりもその物語の中に、大衆さえもそこに組み込むプロットかあるからだろう。
それは決して、他人事とは思えない説得力と、投影された人物像がある。
初めて見たときは無邪気にかっこいいと感じただけだったが、今回見直して、「これは私の物語だ」と思わせる仕掛けがあることに気づかされた。
強盗と盗みを生業にするニールも、凶悪犯罪を何度も検挙してきたヴィンセントは、ともに仕事人である。
破壊的な私生活を送り、ただ自分の仕事を懸命にこなす。
寝ても覚めても仕事をやり遂げるためにすべてを捧げて、チームを大切にしている。
それは人情というよりも義理の世界であり、マフィアであろうと刑事であろうと、そのスタンスは一貫している。
そして、まさに当時のアメリカが、まさに「私生活を犠牲にしても、仕事人たれ」という社会世相をもっていたからに他ならない。
日本や中国といったアジアが台頭してきた1980年代後半から、世界は戦争そのものではなく、経済がその争いの中心になっていく。
アメリカだから大丈夫といった安穏とした世界ではなくなっていく。
その中で、破滅的な生き方であっても、ビジネスの世界で躊躇なく行動していくものこそが、生きていくことができる世界へと変貌していた。
ニールとヴィンセントは、だからこそ、仕事優先で生きる象徴的な二人なのだ。
二人の間にいる、ヴァン・ザントというビジネスマンも、それを象徴する。
表向きは優秀なビジネスマンだが、裏の顔は麻薬を売りさばく。
この人物こそ、まさに成功しているビジネスマンを象徴し、すべての成功者はすべからく裏の顔を持っているものだ、という大衆の世界観を反映している。
実際にその間で右往左往している下っ端は、やりたくてその仕事をしているわけではない、弱い善人ばかりだ。
家族を大事にしようとするニールのチームを、ひたすら丁寧に描いているのは、そこに善悪を超えた共感を生み出すためである。
この物語を貫いているのは、当然のように勧善懲悪だ。
結局は、ニールが殺されて、ヴィンセントが正義を完遂する。
なぜなら、それが大衆を求めているものだからだ。
非日常的なキャラクターや事件を扱いながら、それでも我が家に帰れるだけの安心を得られる。
けれども、生きるためにはすべてを犠牲にして仕事に捧げなければならない世界が、果たして「勧善懲悪」なのか。
観客に突きつける倫理は、金にはならない何かを大事にしながら生きていけるか、ということだ。
仕事人として許せなかったニールはウェイングローを殺すために国外逃亡できなかった。
家族が引き裂かれたことで自殺した娘のそばを離れたヴィンセントも、家族の愛よりも仕事の完遂を選んだ。
両者には強い共感があり、共有する何かがある。
ニールも、ヴィンセントも、生き方としては負けなのだ。
だれも勝者のいない世界で、取り残されたのは大衆だ。
金を得るためには、人間性を差し出せ、という世界は、我々現代人の共通のものであり、【犯罪】と強い親和性があるのだろう。
監督:マイケル・マン
義理と人情に翻弄される男たち。
ロスで裏の仕事を家業としていたニール(ロバート・デ・ニーロ)は、麻薬でもうける実業家の裏の証券を強奪する。
しかし、チームの新参者だったウェイングローは予期せずに警官を殺してしまう。
その捜査を任されることになったヴィンセント(アル・パチーノ)は、手口があまりにも鮮やかだったことから、通常の強盗事件ではないことを感じる。
そんなある日、ニールは大きなヤマを持ちかけられる。
銀行に毎月届けられる行員の給料を強盗するというものだった。
ヴィンセントは、次第にニールを追い詰めていくが……。
二大俳優の競演、さらにはその二人が善悪それぞれに別れて争う、という構図はアメリカ映画でももっとも典型なスタイルだろう。
その金字塔になったのが、「ヒート」であると言っても過言ではないだろう。
「フェイス/オフ」や「インファナル・アフェア」といった作品にも影響を与えている。
三時間という長い作品だが、それを集中させるだけの結構とリアリティに満ちている。
映画が、単なるフィクションで、お気楽な娯楽に過ぎない、といった批判を真っ向から否定するような、周到な準備によって撮影された。
一つ一つのパーツが、軽薄さではなく、重厚さで塗り固められている。
下手な最近の映画を見るよりも、絶対に見ておきたい映画である。
私は実に20年振りくらいにアマゾンプライムで見た。
ずっと見ようと思っていたが、上映時間が長いので敬遠していたのだ。
だが、やはり面白い!
▼以下はネタバレあり▼
マフィアと警察が抗争を繰り広げるというのはアメリカ映画ではよくある話だ。
それは、マフィアが日常的に暗躍している、犯罪率が高い、という面もあるかもしれないが、それよりもその物語の中に、大衆さえもそこに組み込むプロットかあるからだろう。
それは決して、他人事とは思えない説得力と、投影された人物像がある。
初めて見たときは無邪気にかっこいいと感じただけだったが、今回見直して、「これは私の物語だ」と思わせる仕掛けがあることに気づかされた。
強盗と盗みを生業にするニールも、凶悪犯罪を何度も検挙してきたヴィンセントは、ともに仕事人である。
破壊的な私生活を送り、ただ自分の仕事を懸命にこなす。
寝ても覚めても仕事をやり遂げるためにすべてを捧げて、チームを大切にしている。
それは人情というよりも義理の世界であり、マフィアであろうと刑事であろうと、そのスタンスは一貫している。
そして、まさに当時のアメリカが、まさに「私生活を犠牲にしても、仕事人たれ」という社会世相をもっていたからに他ならない。
日本や中国といったアジアが台頭してきた1980年代後半から、世界は戦争そのものではなく、経済がその争いの中心になっていく。
アメリカだから大丈夫といった安穏とした世界ではなくなっていく。
その中で、破滅的な生き方であっても、ビジネスの世界で躊躇なく行動していくものこそが、生きていくことができる世界へと変貌していた。
ニールとヴィンセントは、だからこそ、仕事優先で生きる象徴的な二人なのだ。
二人の間にいる、ヴァン・ザントというビジネスマンも、それを象徴する。
表向きは優秀なビジネスマンだが、裏の顔は麻薬を売りさばく。
この人物こそ、まさに成功しているビジネスマンを象徴し、すべての成功者はすべからく裏の顔を持っているものだ、という大衆の世界観を反映している。
実際にその間で右往左往している下っ端は、やりたくてその仕事をしているわけではない、弱い善人ばかりだ。
家族を大事にしようとするニールのチームを、ひたすら丁寧に描いているのは、そこに善悪を超えた共感を生み出すためである。
この物語を貫いているのは、当然のように勧善懲悪だ。
結局は、ニールが殺されて、ヴィンセントが正義を完遂する。
なぜなら、それが大衆を求めているものだからだ。
非日常的なキャラクターや事件を扱いながら、それでも我が家に帰れるだけの安心を得られる。
けれども、生きるためにはすべてを犠牲にして仕事に捧げなければならない世界が、果たして「勧善懲悪」なのか。
観客に突きつける倫理は、金にはならない何かを大事にしながら生きていけるか、ということだ。
仕事人として許せなかったニールはウェイングローを殺すために国外逃亡できなかった。
家族が引き裂かれたことで自殺した娘のそばを離れたヴィンセントも、家族の愛よりも仕事の完遂を選んだ。
両者には強い共感があり、共有する何かがある。
ニールも、ヴィンセントも、生き方としては負けなのだ。
だれも勝者のいない世界で、取り残されたのは大衆だ。
金を得るためには、人間性を差し出せ、という世界は、我々現代人の共通のものであり、【犯罪】と強い親和性があるのだろう。
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