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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

怪物

2023-06-06 19:06:51 | 映画(か)
評価点:84点/2023年/日本/125分

監督:是枝裕和

すれ違う思い。

シングルマザーの麦野早織(安藤サクラ)は、息子の様子がおかしいことに気づき、問いただす。
湊(黒川想矢)は、小声で、「保利先生にやられた」と答えた。
異常な状況であることを悟った母親は、すぐに学校に問い合わせるが、学校の対応はいまいち要領を得ない。
担任の保利先生が「湊くんがクラスメイトをいじめている」とつぶやくのを聞く。
気になった早織は、そのクラスメイトの家を訪れる。
そこにはなくなっていた湊の片方の靴があり、ますます状況が混迷していく。

カンヌ国際映画祭で、脚本賞を獲得した話題作。
是枝監督の作品を、私は「そして、父になる」「万引き家族」などを見ている。
あまり見に行くつもりもなかったのだが、メディアに踊らされて見に行くことにした。
ド平日だったが、劇場の6割ほどは埋まっていた。

特に普段映画を見ない人は、ちょっと驚くような構成になっているので、おそらく見終わったらネタバレサイトをあさることになるだろう。
けれども、前評判やネタバレを拒絶して見たい映画ではある。
いわゆる群像劇である、ということは知っておいて良いだろう。
脚本賞を受賞した、というだけのことはある。

こういう映画がもっと日本で増えれば良いのに、というくらいの、素晴らしい作品だ。
主人公の二人はもちろん、他の子役もうまい。

▼以下はネタバレあり▼


《物語の結末》

群像劇としてはよくある構成で、大きくは三つの視点で同じ出来事が語り直される。
そのことがわかるのが中盤なので、最初の母親パートは違和感が強い。
しかし、教師パート、子どもパートを経ていくと、あらゆることがつながっていき、物語の全貌が見えてくるような仕組みになっている。
脚本が評価されたことがよくわかる作品だ。

あまりストーリーを追っていてもただいたずらに文章が長くなるのでやめておこう。
星川依里(柊木陽太)は、クラスメイトからいじめられていた。
それを時折助けていたのが、湊だった。
しかし、全面的に味方になるほど彼にも信念があるわけではなく、教師の前では喧嘩をしてみせたりしながら、クラスメイトの前では距離を保っていた。
靴を隠された依里に対して、片方だけ「貸した」というのは事実だった。
しかし、いじめられていることを教師にも親にも話せるはずもなく、二人は頑なに我慢することで折り合いをつけていた。

依里は、父親からひどい虐待を受けていた。
「普通の人間ではない」と悟った父親は、息子を「豚の脳みそが入っている」と罵り、矯正しようとしていた。
父親は友人である湊にその一因があると悟り、断交させようとする。
しかし、それもうまくいかず、夏ごろ、彼はいよいよ祖母の元に転校させる(=父親が依里を手放す)ことになる。

湊は、依里に対して特別な感情を抱いていることに気づく。
自分は友情以上の感情を、彼に感じているのだ、ということを悟る。
依里も同じ感情を抱いていたのかどうかはわからない。
ゲイだったのか、バイだったのか、そんなことは私にはどうでもよいように思える。
問題は、それが周囲から理解されるはずがない感情である、ということを二人が気づいていたということだ。

思春期にはよく同性の同級生に特別な感情を抱く、ということがある。
彼らはまだ小学五年生で、発達段階でそのような一時の感情を抱く可能性もある。
しかし、彼らはそれが許されざる感情であることを自認していた。
ゆえに、二人には生きる場所と思えるところは、どこにもなかったのだ。

終盤、町に台風が訪れる。
こっそり抜け出した二人は、秘密基地にしていた車両に逃げ込む。
ここだけが彼らの居場所であり、安心できる場所だった。
そして、二人にはもう一つ、「生まれ変わったら……」という考えをもっていた。

保利先生と母親が嵐の中訪れたときには、人の形跡がどこにもなかった。
大人たちは、彼らと再会できなかったのだ。

ラストのシークエンス。
二人は晴れ渡った空の元で、秘密基地から抜け出して、かつて行けなかったフェンスを越えて旅立っていく。
これは、トンネルの向こう側にいったことを示している。
要するに、日常から非日常、そしてという往還の物語構造だ。
ただし、それは此岸から彼岸、そして此岸へという往還だ。
現実の町に、彼らは生きていく場所を見いだせなかった。
二人は誰もいない二人だけの世界に旅立つ。

それは死なのかもしれない。
あるいは転生なのかもしれない。
けれども、誰からも理解されなかった二人は、他の人と同じ世界で生きていくことを拒んだ。
拒んだのは、二人なのか、あるいは世界のほうなのか、それはわからない。
けれども、それが二人が望んだ「ハッピーエンド」ではないことは、確かだろう。
大人たちと、再会することはできなかったのだから。

象徴的な、抽象的な描写で終わっている。
けれども、そうでなければ終わらせられない、世界がこのいまの日本という現実だろう。
(私は、最後のシークエンスから、「街と不確かな壁」のイエローサブマリンの少年を思い出さずにはいられない。)

《怪物とは何か》

タイトル「怪物」はよく練られている。
何を怪物とするかは、見る人によって感じ方、捉え方が異なるだろう。
けれども、タイトルは「怪物」以外にはありえなかったという点において、秀逸だ。

母親パートだけを見れば、学校という場が怪物のように感じられる。
まともな対応をしてくれない、真相がどこにあるのかわからない。
ライターを持っていた息子が、もしかしたら放火の犯人かもしれない。
怪物は、あるいは息子なのか。

保利先生の立場に立てば、あらゆる世界がゆがんで見える。
教員として初めて担任をもち、少し変わっているところがあるものの、個性的で生徒思いの先生だった。
しかし、子ども同士のトラブルをうまく抑える技術はない。
些細だと思っていたことが、大きなトラブルに発展し、しかも学校は自分を守ってくれない。
恋人はいきなり自分の元を去り、よく知りもしないのに責め立てる周りが怪物のように見えたことだろう。
二転三転する子どもたちの様子もわからず、孤立していく。
子ども達の無邪気さと、気まぐれさがあるいは怪物のように見えるかもしれない。

湊にとっては、「普通に結婚して生きていく」ことを望む母親が怪物のように見えたかもしれない。
自分は普通ではない。
自分の特別な感情を、「男らしくないぞ」と不意に口にする保利先生や大人たちに話すことはできない。
彼にとっては、「普通を望む」ことそのものが怪物に他ならない。

依里は自分が怪物であることを自認している。
しかも、周囲が自分を奇異として扱っていることも理解している。
彼は強い倫理観をもち、聡明で達観している。
いわゆるギフテッドではないかと私は読んでいた。
だから、雑居ビルを放火したとしても不思議ではないし、証拠を残さなかったのもあり得る話だ。
(劇中では示唆されているにとどまっているので、確実に彼の犯行だとは言い切れない部分は残っているが。)

登場人物のみなは、自分が普通のことをやっていると思っているし、間違えているとは考えていない。
あるいは、善良な人間であり、与えられた役割をこなしているにすぎない。
依里をいじめている同級生も、個人として強烈な悪意がある子どもとしてではなく、「小学生はかくあるべし」程度の倫理観で行動している。
みな、社会的に、外的な何者かによって与えられた役割を演じているに過ぎない。
学校の先生も、二年生の時に担任でよくしてもらったと言われたあの教員も、こうあるべき行動、というものを全うしているにすぎない。

その意味では誰も悪者はいない。
しかし、その一方で、誰もが誰かの【怪物】になりうることを描いている。
「普通で良いのよ」といった母親は正しい。
しかし、それが衝動的に逃げ出したいという湊の行動を引き出す、怪物のような発言になってしまった。

私たちはみなじぶんが怪物であるという認識を持たずに暮らしている。
普通で良い、というのは誰かが意図した、イデオロギーに満ちた【普通】であり、それが時に誰かを傷つけることを自認していない。

自分がマイノリティであることを周囲に明かすことができなかった湊は、自分の中にあるものが【怪物】であると思っていたのかもしれない。
【怪物】は、果たして社会的な権威なのか、マイノリティを排除するマジョリティなのか、社会的役割なのか、個人の性情なのか。

二人は秘密基地の中で、「怪物だれだ?」とゲームをして遊ぶ。
相手の様子は見えているが、自分が何者かであるかは、相手が教えてくれたことを頼りにしか把握できない。
自分が怪物かもしれない。
相手のことはよく見えている、と勘違いしている。
まさにあの遊びこそが、この映画を象徴するものと言える。

《決定的な齟齬》

この映画はおそらく、何年も人の心に残るだろう。
そう思えるのは、彼らが置かれた場所が東京ではなく、どこにでもあるような田舎町であるということ。
そして、SNSがほとんど彼らの中で重要な位置を占めていない、という描き方がされているからだ。

彼らは結局、決定的にお互いとよく話し合うということから逃げてしまった。
いや、話し合うことなんてもともと不可能なところにいた。
そのことばは断片的で、抽象的で、暗示的だった。
母親からまっすぐ愛しているといわれればいわれるほど、自分の異常さを意識させられた。
そんな相手に、自分の心内をすっかり話してしまうことなど不可能だ。

それはSNSやスマートフォンがあっても、なくても同じなのだ。
自分が無邪気でいること、思い込んでいることが、相手を追い込むことがある。
そんなちょっとした想像力をもつことも、人間には難しい。
それは情報機器端末があっても、なくても、おなじことだ。
それは人間の普遍性であるからだ。

先入観、善意というものを飼い慣らすことができるだろうか。
飼い慣らすことなんて不可能だ、ということをどれだけ自認できるだろうか。

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