評価点:83点/2023年/アメリカ/206分
監督:マーティン・スコセッシ
誰が「フラワームーン」を殺したのか。
第一次世界大戦が終わって、アメリカの南部では空前のオイルブームが起こっていた。
巻き込まれたのはインディアンと呼ばれた原住民族だった。
彼らは住んでいた土地を奪われて、オクラホマ州にたどり着いた。
その土地で原油が取れることが分かったことで、彼らの生活は一変する。
白人たちはその権利を巡って争う。
戦争帰りのアーネスト(レオナルド・ディカプリオ)は、この土地を仕切る叔父のウィリアム・ヘイル(通称キング、ロバート・デ・ニーロ)に呼ばれてこの地に来た。
彼は叔父に言われるがまま、運転手で原住民族のオセージ族の原油の権利をもつ人々に仕えることになった。
その中のモリー(リリー・グラッドストーン)と、次第に深い仲になっていく。
上映時間が3時間を超えるという作品で、マーティン・スコセッシ監督とレオ様とのタッグ作品でもある。
あまりに上映時間が長いので、合う時間がない可能性も高く、商業的には向かない作品だ。
久々の映画館で、お通じの状況もよろしくない(体調不良である)こともあって、不安を抱えながら映画館に向かった。
見られなくても仕方がない、と思っていたが、まったくもって幸運だったと言える。
(他に犠牲にしたものもあるのだが)
こういう映画は正直、あまり手軽に見ることができない。
映像的なスペクタクルがあるわけではないが、こうして区切られた空間と時間で味わうべき作品と言える。
どういう話なのか、ネタバレせずに見るべきだが、上映時間が長いことは、いかんとも否定しがたい。
▼以下はネタバレあり▼
話は非常にシンプルで、特に解説の必要がないほどまっすぐだ。
また、かなり詳細に人々の動きを描いていくので、登場人物の差異を理解できれば、話も分かりやすい。
だが、そのわかりやすい話を、どのように解釈するのかという点においては、意見が分かれるところだろう。
勧善懲悪のようにもみえるし、弱者と強者との戦いのようにも見える。
気持ちのいい話ではないが、一定の結論は得られるように作られている。
だが、私はこの物語を、単なる善悪や強弱の理論でわかりやすく色分けするようには理解しなかった。
そのようには撮られていない気がしている。
だからおもしろかったし、緊張感が持続したのではないだろうか、とも思っている。
第一次世界大戦によって、石油が非常に重要な意味を持つということを世界は理解した。
そのことで、アメリカにある油田を探しまくるという事態に陥る。
オクラホマで見つかった油田は、そこに住む人々の生活を変えてしまう。
自然と共生するというような牧歌的な世界観ではなく、オイルがマネーを生むという資本主義に染められた白人文化と様式が一気に流入する。
そこでは土地と採掘の権利を持つオセージ族がヒエラルキーの頂点に立っている。
しかし、そのルールを描いたのは白人である。
知恵を授け、儲ける方法を教え、贅沢とはなにかを啓蒙していった。
だから、国やルールを理解しているのは白人であるという非常にいびつな街ができあがる。
法や権力を持たない白人は、インディアンたちの小間使いにされて、あわよくばその親族に入り込もうとする。
権利をもつオセージ族は、次々に殺されて、社会的な人権を持たない彼らはそのまま放置されていった。
主要な登場人物は、キングと呼ばれる白人の老人、ヘイル=デ・ニーロ。
そのいとこにあたるアーネストは、彼の小間使いであり、権利をもつオセージ族に取り入るために用意されたコマ=ディカプリオだ。
その男と結婚するオセージ族の、採掘権をもつモリー。
この三人はそのまま、金の亡者であるブルジョワジーの白人、何もないが情熱と行動力だけで動くプロレタリアの白人、権利だけをたまたま手に入れることができたインディアンの女性、という三者が象徴されている。
この三者は、この時代のこの場所の、権力図をそのまま具現化したような者たちと言えるだろう。
キングは、自分の利益と権力のためなら他人の死をなんとも思わない極悪非道な名手である。
だれもが裏の顔を知っているが、新聞は彼を、地元を発展させた英雄だと讃える。
嫌われている部分よりも、仕方なく付き合った方がよいと考えている人間が多いのは、終盤で追い込まれた彼が刑務所の中からでも強い影響力があったことでよくわかる。
あるいは、彼はインディアン側からも信頼されていたことも確かだろう。
やることはえげつないが、少なくとも原油の採掘権をもつ者たちを豊かにしたことは間違いない。
州法やアメリカ合衆国の法律をよく知り、権利を与えたことで、彼らは豊かな暮らしを謳歌していたのだから。
そのように考えると、実はこの映画は単純な勧善懲悪や、強弱二項対立の話ではないことが見えてくる。
モリーの妹アナは、非業の死を遂げる。
しかし、彼女の態度は成金を絵に描いたような不遜なものであり、一般的な被害者としてのオセージ族というような印象はない。
それ以外のオセージ族も同じだ。
オイルマネーに浸っている彼らは、白人を敵視しながら白人を奴隷のように扱って贅沢な生活を送っている。
事実だけを淡々と、という表現は、この映画では正しくないのかもしれない。
白人=悪・強者、インディアン=善・弱者、という構図では描いていない。
実際、インディアンたちは地面からあふれるオイルマネーを手放そうとはしなかった。
冒頭で、「この子たちは別の土地で死ぬことになる」というようなことを長が話している。
まさにその通りで、彼らが大事にしてきた原風景たる「フラワームーン」を殺した、「キラーズ」は一体誰だったのか。
もちろん、白人たちが正しいとか、罪がなかったとはまったく思わない。
だが、悪を倒すモリーという構図でこの映画を素描するのは、おそらく間違っている。
だからこそ、この映画は複雑であり、非常に重たいのだ。
オクラホマのこの喧噪は、皆が望んだ世界であるという言い方もできてしまう。
すべて叔父の言いなりになっていたアーネストは、まさに主体性のないアメリカ国民を象徴する。
金と目先の利益、そして女に目がくらんで、どんどん悪事を働いてしまうという彼の人間性は、見事にアメリカの民衆のあり方を体現する。
白人の権力者、成金の原住民、良心も判断力も先見性もない上に、愛だけ簡単に口にする労働者。
そこに油田という莫大な利益をもたらす金の樹。
アメリカという国を象徴するような、この事件を映画として掘り起こして【正しく】映画化した、ということが既にこの映画が賞賛されるべき点である。
監督:マーティン・スコセッシ
誰が「フラワームーン」を殺したのか。
第一次世界大戦が終わって、アメリカの南部では空前のオイルブームが起こっていた。
巻き込まれたのはインディアンと呼ばれた原住民族だった。
彼らは住んでいた土地を奪われて、オクラホマ州にたどり着いた。
その土地で原油が取れることが分かったことで、彼らの生活は一変する。
白人たちはその権利を巡って争う。
戦争帰りのアーネスト(レオナルド・ディカプリオ)は、この土地を仕切る叔父のウィリアム・ヘイル(通称キング、ロバート・デ・ニーロ)に呼ばれてこの地に来た。
彼は叔父に言われるがまま、運転手で原住民族のオセージ族の原油の権利をもつ人々に仕えることになった。
その中のモリー(リリー・グラッドストーン)と、次第に深い仲になっていく。
上映時間が3時間を超えるという作品で、マーティン・スコセッシ監督とレオ様とのタッグ作品でもある。
あまりに上映時間が長いので、合う時間がない可能性も高く、商業的には向かない作品だ。
久々の映画館で、お通じの状況もよろしくない(体調不良である)こともあって、不安を抱えながら映画館に向かった。
見られなくても仕方がない、と思っていたが、まったくもって幸運だったと言える。
(他に犠牲にしたものもあるのだが)
こういう映画は正直、あまり手軽に見ることができない。
映像的なスペクタクルがあるわけではないが、こうして区切られた空間と時間で味わうべき作品と言える。
どういう話なのか、ネタバレせずに見るべきだが、上映時間が長いことは、いかんとも否定しがたい。
▼以下はネタバレあり▼
話は非常にシンプルで、特に解説の必要がないほどまっすぐだ。
また、かなり詳細に人々の動きを描いていくので、登場人物の差異を理解できれば、話も分かりやすい。
だが、そのわかりやすい話を、どのように解釈するのかという点においては、意見が分かれるところだろう。
勧善懲悪のようにもみえるし、弱者と強者との戦いのようにも見える。
気持ちのいい話ではないが、一定の結論は得られるように作られている。
だが、私はこの物語を、単なる善悪や強弱の理論でわかりやすく色分けするようには理解しなかった。
そのようには撮られていない気がしている。
だからおもしろかったし、緊張感が持続したのではないだろうか、とも思っている。
第一次世界大戦によって、石油が非常に重要な意味を持つということを世界は理解した。
そのことで、アメリカにある油田を探しまくるという事態に陥る。
オクラホマで見つかった油田は、そこに住む人々の生活を変えてしまう。
自然と共生するというような牧歌的な世界観ではなく、オイルがマネーを生むという資本主義に染められた白人文化と様式が一気に流入する。
そこでは土地と採掘の権利を持つオセージ族がヒエラルキーの頂点に立っている。
しかし、そのルールを描いたのは白人である。
知恵を授け、儲ける方法を教え、贅沢とはなにかを啓蒙していった。
だから、国やルールを理解しているのは白人であるという非常にいびつな街ができあがる。
法や権力を持たない白人は、インディアンたちの小間使いにされて、あわよくばその親族に入り込もうとする。
権利をもつオセージ族は、次々に殺されて、社会的な人権を持たない彼らはそのまま放置されていった。
主要な登場人物は、キングと呼ばれる白人の老人、ヘイル=デ・ニーロ。
そのいとこにあたるアーネストは、彼の小間使いであり、権利をもつオセージ族に取り入るために用意されたコマ=ディカプリオだ。
その男と結婚するオセージ族の、採掘権をもつモリー。
この三人はそのまま、金の亡者であるブルジョワジーの白人、何もないが情熱と行動力だけで動くプロレタリアの白人、権利だけをたまたま手に入れることができたインディアンの女性、という三者が象徴されている。
この三者は、この時代のこの場所の、権力図をそのまま具現化したような者たちと言えるだろう。
キングは、自分の利益と権力のためなら他人の死をなんとも思わない極悪非道な名手である。
だれもが裏の顔を知っているが、新聞は彼を、地元を発展させた英雄だと讃える。
嫌われている部分よりも、仕方なく付き合った方がよいと考えている人間が多いのは、終盤で追い込まれた彼が刑務所の中からでも強い影響力があったことでよくわかる。
あるいは、彼はインディアン側からも信頼されていたことも確かだろう。
やることはえげつないが、少なくとも原油の採掘権をもつ者たちを豊かにしたことは間違いない。
州法やアメリカ合衆国の法律をよく知り、権利を与えたことで、彼らは豊かな暮らしを謳歌していたのだから。
そのように考えると、実はこの映画は単純な勧善懲悪や、強弱二項対立の話ではないことが見えてくる。
モリーの妹アナは、非業の死を遂げる。
しかし、彼女の態度は成金を絵に描いたような不遜なものであり、一般的な被害者としてのオセージ族というような印象はない。
それ以外のオセージ族も同じだ。
オイルマネーに浸っている彼らは、白人を敵視しながら白人を奴隷のように扱って贅沢な生活を送っている。
事実だけを淡々と、という表現は、この映画では正しくないのかもしれない。
白人=悪・強者、インディアン=善・弱者、という構図では描いていない。
実際、インディアンたちは地面からあふれるオイルマネーを手放そうとはしなかった。
冒頭で、「この子たちは別の土地で死ぬことになる」というようなことを長が話している。
まさにその通りで、彼らが大事にしてきた原風景たる「フラワームーン」を殺した、「キラーズ」は一体誰だったのか。
もちろん、白人たちが正しいとか、罪がなかったとはまったく思わない。
だが、悪を倒すモリーという構図でこの映画を素描するのは、おそらく間違っている。
だからこそ、この映画は複雑であり、非常に重たいのだ。
オクラホマのこの喧噪は、皆が望んだ世界であるという言い方もできてしまう。
すべて叔父の言いなりになっていたアーネストは、まさに主体性のないアメリカ国民を象徴する。
金と目先の利益、そして女に目がくらんで、どんどん悪事を働いてしまうという彼の人間性は、見事にアメリカの民衆のあり方を体現する。
白人の権力者、成金の原住民、良心も判断力も先見性もない上に、愛だけ簡単に口にする労働者。
そこに油田という莫大な利益をもたらす金の樹。
アメリカという国を象徴するような、この事件を映画として掘り起こして【正しく】映画化した、ということが既にこの映画が賞賛されるべき点である。
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