評価点:78点/2023年/日本/125分
監督:山崎貴
私たちが背負う、【戦後】。
1945年戦争末期、特攻兵だった敷島(神木隆之介)は、機体不良のため離島に逃れた。
しかし、その機体には不具合が見つからなかった。
うつむく敷島だったが、その夜巨大な生物が彼らの駐屯所を襲った。
戦えるのは敷島だけだったが、足のすくんだ彼は逃げ出してしまい、部隊は壊滅した。
終戦後、故郷の東京に帰ったが、すべてが焼け野原になっていた。
街で出会った女典子(浜辺美波)は預けられた子どもを抱えて、敷島の元に転がり込んできた。
巨大生物から逃げた自分を許せない彼は、典子と打ち解けることもできないまま、東京湾の機雷を除去する仕事に就いた。
「シン・ゴジラ」が空前のヒットになり、自前のゴジラ作品を作ることができずにいた東宝が、新たに打ち立てたゴジラ作品。
正直私は、まだやるんかい、どうせおもしろくなるはずないやんけと考えていたが、やたらと上映回数が確保されていることもあり、見ることにした。
本当は上の子を誘いたかったがちょっと時間が合わなかった。
子どもが学校で話題になっていたら、もしかしたらもう一度見に行くことになるもしれない。
「ゴジラ」と言われても、「シン・ゴジラ」と比較する意味はないだろう。
蓮実重彦曰く、かの「シン・ゴジラ」はまったく退屈で何もおもしろくなかった、と断じていた。
あまりに政治色が強くなって、あれが「ゴジラ」なのかと言われたら確かに疑問ではある。
だから、庵野秀明と比較しても仕方がない。
興味があればみればいいし、古くさい、なんで今更戦後なんだ、と思う人は避ければ良い。
小さい子どもが泣くだけで、一緒に泣けてしまう私は、少し感傷的な態度で鑑賞したことは申し添えておこう。
▼以下はネタバレあり▼
少し前まで作られていたゴジラシリーズは、小学生たちが戦隊ものを見るような感覚で作られていたように思う。
巨大生物と人間が心を通わせる、というような展開や設定は、荒唐無稽というだけではなく、「そんなわけない」という妙な安心感があった。
閉じられた作品という意味で、作品の存在価値はあったのかもしないが、大人が鑑賞して耐えうるのか、という点においては議論を俟たないだろう。
「シン・ゴジラ」でそれを打ち砕いた、という点では、やはり有意義だった。
そして、今回は昭和をいやというほど描いてきた(かどうかほとんど見たことがないので私は知らない)山崎貴が脚本と監督を担当し、完成させた。
興味深いのはやはり、設定が「戦後」であるという点だ。
ほとんど戦争を知らない世代になった日本で、戦後という設定がほんとうにリアルなのかどうか。
そういう点は非常に気になっていた。
いや、むしろこの映画ではゴジラはモティーフであって、テーマは戦後なのである。
その点で、その発想の転換ができた時点で、この映画は成功していたとも言える。
戦後すべてを奪われた日本は、文字通り地べたを這いずる回るように生きていた。
そしてその多くの人の心に去来していたのは、「私は死にきれなかった」「生き残ってしまって申し訳ない」という思いだった。
それを象徴するのが、巨大生物に襲われたのに反撃できずに仲間を見殺しにした敷島である。
この国の、あの時期における世相を、代表する者として主人公の敷島が置かれている。
これまでのゴジラにはなかった視点で、徹頭徹尾彼の視点から描かれるので、引いた画面や巨視的なカメラ位置はほとんどない。
訳の分からないまま終戦を迎え、ただただ失意と徒労感、喪失にあえいでいた人々が、さらに理不尽極まりない生物に襲われる、というのが今回の舞台設定である。
何を今更、戦後なんだ、という印象は確かに拭えない。
しかし、物語が進行していくにつれて、この「戦後エートス」とも言える世相は、確固たる強固なものとして2023年の今も支配していることに気づかされる。
私たちは、いまだ「戦後」を生きている。
常に太平洋戦争の戦勝国に、劣等感を抱き、自分たちのやってきたことに対していつまでも肯定できない。
確かにお金は儲けるようになって、経済大国という自負はあるのかもしれない。
けれども豊かになったとされてもいつまでも「幸せ」にはなれていない。
著名な評論家は、文化的世相をみて、「もはや戦前の様相を呈している」と警句を発しても、私たちは戦前の高揚感はまったくない。
かといって、戦争に向かうべきだというナショナリズムも育っていない。
あるのは、政府への強い不信感と、先の見えない暗澹たる思いだ。
それはまさに、戦後の、戦争直後のエートスから少しも変わっていないのかもしれない。
この作品を見ていて、そう感じさせた。
それくらいこの映画は、「タイムリーな映画」であるように感じた。
ノスタルジーというよりも、むしろ切実に迫ってくるような、生を受けたにもかかわらず、その生に誇りどころか「ただ転がり込んできた」というような意識しかもてない私たちに、強く訴えかけるような作品になっている。
一億人の人たちが、今もまだ「死にきれなかった」「なぜ俺は生き残ってしまったのか」という意識に囚われている。
私たちの強く心に兆しているのは、「生まれてきた(生きている)ことへの罪悪感」なのだ。
この映画に、この映画の登場人物に、世界観に移入できるということはそういうことだろう。
もちろん、テーマやシナリオだけではない。
怪獣映画としての演出も素晴らしかった。
特に熱線を出す際のゴジラの演出は、映画として非常にうまく撮られている。
尾から次第に隆起してくる背びれは、これからとてつもないことが起こるのだということを観客に印象づけ、それが3度繰り返されることで見せ場を作る。
破壊されていく東京そのものよりも、そこに至るその演出が、映画としての見せ場を作っている。
とはいえ、構成はもう少し工夫があってもよかった。
冒頭でゴジラを出さずに、最初は視点人物を典子にしておいて、夢にうなされる敷島が典子へ語る回想として掘り起こす形にしたほうが説得力が生まれただろう。
ゴジラ映画を見に来ているとはいえ、いきなり巨大生物が襲ってくる、というのはさすがに不自然だった。
回想の形にしておけば、ある程度説得力が出ただろう。
さらに、典子の視点→敷島の視点、と視点を入れ替えていく構成にすると、最後の典子が生きていたという事実にももっとすんなり同化できたと思う。
「あんなに飛ばされて生きてるわきゃあるかい!」という突っ込みのほうが大きい。
これを、一度典子からの視点にしておけば、より敷島から物語を体験するという後半につよく移入することになり、死んでいるものだと彼が思い込んでいた、という流れになっただろう。
そもそも、上映時間が長く感じる(もっと短くできると感じる)ので、時系列をそのまま描くよりは回想で省略できたのではないかと思うのだ。
とはいえ、映画としては成功しているだろう。
コロナの前後で、悲しいニュースを耳にすることが多い昨今において、特に「生きろ」というダイレクトなメッセージは強く響くに違いない。
監督:山崎貴
私たちが背負う、【戦後】。
1945年戦争末期、特攻兵だった敷島(神木隆之介)は、機体不良のため離島に逃れた。
しかし、その機体には不具合が見つからなかった。
うつむく敷島だったが、その夜巨大な生物が彼らの駐屯所を襲った。
戦えるのは敷島だけだったが、足のすくんだ彼は逃げ出してしまい、部隊は壊滅した。
終戦後、故郷の東京に帰ったが、すべてが焼け野原になっていた。
街で出会った女典子(浜辺美波)は預けられた子どもを抱えて、敷島の元に転がり込んできた。
巨大生物から逃げた自分を許せない彼は、典子と打ち解けることもできないまま、東京湾の機雷を除去する仕事に就いた。
「シン・ゴジラ」が空前のヒットになり、自前のゴジラ作品を作ることができずにいた東宝が、新たに打ち立てたゴジラ作品。
正直私は、まだやるんかい、どうせおもしろくなるはずないやんけと考えていたが、やたらと上映回数が確保されていることもあり、見ることにした。
本当は上の子を誘いたかったがちょっと時間が合わなかった。
子どもが学校で話題になっていたら、もしかしたらもう一度見に行くことになるもしれない。
「ゴジラ」と言われても、「シン・ゴジラ」と比較する意味はないだろう。
蓮実重彦曰く、かの「シン・ゴジラ」はまったく退屈で何もおもしろくなかった、と断じていた。
あまりに政治色が強くなって、あれが「ゴジラ」なのかと言われたら確かに疑問ではある。
だから、庵野秀明と比較しても仕方がない。
興味があればみればいいし、古くさい、なんで今更戦後なんだ、と思う人は避ければ良い。
小さい子どもが泣くだけで、一緒に泣けてしまう私は、少し感傷的な態度で鑑賞したことは申し添えておこう。
▼以下はネタバレあり▼
少し前まで作られていたゴジラシリーズは、小学生たちが戦隊ものを見るような感覚で作られていたように思う。
巨大生物と人間が心を通わせる、というような展開や設定は、荒唐無稽というだけではなく、「そんなわけない」という妙な安心感があった。
閉じられた作品という意味で、作品の存在価値はあったのかもしないが、大人が鑑賞して耐えうるのか、という点においては議論を俟たないだろう。
「シン・ゴジラ」でそれを打ち砕いた、という点では、やはり有意義だった。
そして、今回は昭和をいやというほど描いてきた(かどうかほとんど見たことがないので私は知らない)山崎貴が脚本と監督を担当し、完成させた。
興味深いのはやはり、設定が「戦後」であるという点だ。
ほとんど戦争を知らない世代になった日本で、戦後という設定がほんとうにリアルなのかどうか。
そういう点は非常に気になっていた。
いや、むしろこの映画ではゴジラはモティーフであって、テーマは戦後なのである。
その点で、その発想の転換ができた時点で、この映画は成功していたとも言える。
戦後すべてを奪われた日本は、文字通り地べたを這いずる回るように生きていた。
そしてその多くの人の心に去来していたのは、「私は死にきれなかった」「生き残ってしまって申し訳ない」という思いだった。
それを象徴するのが、巨大生物に襲われたのに反撃できずに仲間を見殺しにした敷島である。
この国の、あの時期における世相を、代表する者として主人公の敷島が置かれている。
これまでのゴジラにはなかった視点で、徹頭徹尾彼の視点から描かれるので、引いた画面や巨視的なカメラ位置はほとんどない。
訳の分からないまま終戦を迎え、ただただ失意と徒労感、喪失にあえいでいた人々が、さらに理不尽極まりない生物に襲われる、というのが今回の舞台設定である。
何を今更、戦後なんだ、という印象は確かに拭えない。
しかし、物語が進行していくにつれて、この「戦後エートス」とも言える世相は、確固たる強固なものとして2023年の今も支配していることに気づかされる。
私たちは、いまだ「戦後」を生きている。
常に太平洋戦争の戦勝国に、劣等感を抱き、自分たちのやってきたことに対していつまでも肯定できない。
確かにお金は儲けるようになって、経済大国という自負はあるのかもしれない。
けれども豊かになったとされてもいつまでも「幸せ」にはなれていない。
著名な評論家は、文化的世相をみて、「もはや戦前の様相を呈している」と警句を発しても、私たちは戦前の高揚感はまったくない。
かといって、戦争に向かうべきだというナショナリズムも育っていない。
あるのは、政府への強い不信感と、先の見えない暗澹たる思いだ。
それはまさに、戦後の、戦争直後のエートスから少しも変わっていないのかもしれない。
この作品を見ていて、そう感じさせた。
それくらいこの映画は、「タイムリーな映画」であるように感じた。
ノスタルジーというよりも、むしろ切実に迫ってくるような、生を受けたにもかかわらず、その生に誇りどころか「ただ転がり込んできた」というような意識しかもてない私たちに、強く訴えかけるような作品になっている。
一億人の人たちが、今もまだ「死にきれなかった」「なぜ俺は生き残ってしまったのか」という意識に囚われている。
私たちの強く心に兆しているのは、「生まれてきた(生きている)ことへの罪悪感」なのだ。
この映画に、この映画の登場人物に、世界観に移入できるということはそういうことだろう。
もちろん、テーマやシナリオだけではない。
怪獣映画としての演出も素晴らしかった。
特に熱線を出す際のゴジラの演出は、映画として非常にうまく撮られている。
尾から次第に隆起してくる背びれは、これからとてつもないことが起こるのだということを観客に印象づけ、それが3度繰り返されることで見せ場を作る。
破壊されていく東京そのものよりも、そこに至るその演出が、映画としての見せ場を作っている。
とはいえ、構成はもう少し工夫があってもよかった。
冒頭でゴジラを出さずに、最初は視点人物を典子にしておいて、夢にうなされる敷島が典子へ語る回想として掘り起こす形にしたほうが説得力が生まれただろう。
ゴジラ映画を見に来ているとはいえ、いきなり巨大生物が襲ってくる、というのはさすがに不自然だった。
回想の形にしておけば、ある程度説得力が出ただろう。
さらに、典子の視点→敷島の視点、と視点を入れ替えていく構成にすると、最後の典子が生きていたという事実にももっとすんなり同化できたと思う。
「あんなに飛ばされて生きてるわきゃあるかい!」という突っ込みのほうが大きい。
これを、一度典子からの視点にしておけば、より敷島から物語を体験するという後半につよく移入することになり、死んでいるものだと彼が思い込んでいた、という流れになっただろう。
そもそも、上映時間が長く感じる(もっと短くできると感じる)ので、時系列をそのまま描くよりは回想で省略できたのではないかと思うのだ。
とはいえ、映画としては成功しているだろう。
コロナの前後で、悲しいニュースを耳にすることが多い昨今において、特に「生きろ」というダイレクトなメッセージは強く響くに違いない。
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