評価点:75点/2009年/アメリカ
監督:キャスリン・ビグロー
完璧に、徹底的に美化されたアメリカ軍兵士。
2004年、イラク戦争は過激さを増し、日々起こる自爆テロに対して民衆と米軍兵士は恐怖を募らせていた。
ある日、トンプソン軍曹(ガイ・ピアーズ)が路上に置かれた爆弾を解体しようとしたところを、遠隔操作により爆発、爆風に巻き込まれた彼は死んでしまう。
代わりに配属されたのは、ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)だった。
配属された初日、ロボットではなく、生身のまま爆弾に近づき解体してしまう。
チームは彼のやり方の無謀なやり方に反発する。
2009年に公開された映画の最も栄誉ある作品は、この「ハート・ロッカー」だった。
オスカー受賞までには、ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」などと賞レースを展開する一方、一部の制作者がメールを送るなどしたため、さらに話題になってしまった。
「ハート・ロッカー」のほうの出来は知らなかったので、「アバター」とどちらが受賞するかは僕には不透明だった。
ただ「アバター」は、旧態依然の物語パターンだったので、それがどう映るかは微妙だったことは確かだ。
結果は「ハート・ロッカー」の圧勝に終わった。
何故なのだろうか。
それはこの映画を観れば、きっと明らかになる。
▼以下はネタバレあり▼
「アバター」とともに話題になったことは、ちょっとした因縁がある。
それは二人の監督が夫婦だったと言うことはない。
「アバター」は徹底した米軍否定なのに対して、こちらは徹底した米軍肯定であるということだ。
この映画に登場するアメリカ軍兵士たちは、計算されて配置されている。
ガイ・ピアーズにしても、ジェレミー・レナーにしても、アンソニー・マッキーにしても、完全に計算されている。
どこかのアメリカの雑誌が、この映画を「ほとんど完璧な映画」と評したのは、あながち誇大広告でもない。
確かに、ほとんど完璧に描かれている。
それはドキュメンタリータッチでありながら、完全に監督が意図した通りに映画が展開するという点においてである。
主人公を演じるジェレミー・レナーは、狂っている。
爆弾を解体するために仲間や自分の命を危険にさらそうとする彼は、英雄どころか、むしろ狂気に満ちている。
およそ常人には理解できない感性を持っている。
子どもが生まれても、なお、戦場に赴こうとする彼は、正義感や職業への熱意などをとっくに超えたところに位置している。
だが、なぜだか、僕たちはそれを理解してしまう。
いや、共感的理解を示し、それもあり得るだろうと考えてしまう。
そして、無関心だった米軍兵士に対して、ちょっと同情にも似た印象を受けてしまう。
アメリカ軍兵士たちが沖縄で問題化しているのをよく知っている日本人である僕でさえそうなのだ。
きっとアメリカ人たちなら、もっと深く、もっと強く感情移入しただろう。
それもすべて、この映画がそのように描かれているからに他ならない。
おもしろいのは彼は狂っているが、人を守る人間であるということだ。
爆弾解体班にいる彼は、爆弾を解体するために必要な殺人は行うが、それ以上の無益な殺しはしない。
むしろ、人を守ること、爆弾を解体することに命をかけていて、それは時にイラク人だったりする。
トンプソン軍曹、米軍の医師であるケンブリッジ、そしてイラク人の父親がそれぞれ爆死する。
三度爆死するが、その配置が巧みだ。
トンプソン軍曹が死ぬのは、爆弾の脅威を僕たちに伝えるため。
軍医のケンブリッジが死ぬのは、日常にそこに悪意が存在しているということを示すため。
そして、イラク人が最後に死ぬのは、戦っているのは目に見えぬ悪意であるということを示すためだ。
命を守ろうとしている米軍兵に罪はない。
彼らは全面的に肯定されるべき人間たちである。
ということを強調するため、そしてすり込むために彼らは配置されている。
これがもし軍医とイラク人が逆だったとしたら、きっと軍医を殺したイラク人への怒りを強調することになっただろう。
あるいは、イラク人が殺されても、切なさに似た感情を抱くことはできなかっただろう。
それさえも計算されているのだ。
主人公のいる彼らのチームは、人を殺さない。
敵であるはずのイラク人やアルカイダなど、具体的な敵が殺されるシーンがほとんどない。
爆弾解体後、殺し合うシーンが中盤に出てくるが、遠く離れた相手を狙撃するというきわめて消極的な殺しあいしかしない。
死体が見えず、しかも相手の思想や考えに触れることはない。
むしろ敵として前面に出てくるのは、残虐に人間爆弾に仕立てられたベッカム(実際は違っていたが、それも後に述べよう)という死体でしかない。
そこには敵がいない。
殺すべき相手を映すことよりも、悪意そのものを抽象的に描いている。
ジェームズが狂っていても、人を殺すというような狂い方をしない。
彼はあくまでも、兵士として正しく狂うのだ。
また、チームのもろさ、弱さを強調して描く。
軍医にカウンセリングを受けるエルドリッジにしても、怖い怖いと弱音を吐く黒人兵、サンボーンにしても、極端に弱くもろい存在であることを強調する。
もちろん、子どもがいるのに、戦争に赴こうとするジェームズもまた弱い人間として描かれている。
そこには、「アバター」にあったような、残虐で狂っている、いけいけどんどんのアメリカ軍兵士の姿は、全くない。
彼らは全くの善人で、全くの被害者として描かれている。
そのほか印象的なシーン・カットは数多くある。
だが、それもこれも、すべてはアメリカ軍兵士たちが置かれている現状を、敵がいないという一貫した肯定派の立場から描いている。
特におもしろいのは、ベッカムという少年が、人間爆弾に改造された死体で発見されるというシークエンスだ。
結局ベッカムは生きていて、ジェームズの勘違いだったことが明らかにされる。
だが、観ている僕たちは、それでもジェームズを肯定したはずだ。
間違っても仕方がない、正しいことをしたのだ、という肯定の眼差しを向けたはずだ。
もちろん、それは大量破壊兵器が見つからなくてもそういうこともあるだろうと、肯定するトリックが仕掛けられている。
一つのシークエンスが、すべて社会的な視座を帯びている。
日本人にはできない芸当だが、僕はむしろ怖いとさえ思った。
それはジェームズの狂気に対してではない。
これだけ無意識に自己肯定を植え付けることができる、映画というメディアに対しての畏怖である。
監督:キャスリン・ビグロー
完璧に、徹底的に美化されたアメリカ軍兵士。
2004年、イラク戦争は過激さを増し、日々起こる自爆テロに対して民衆と米軍兵士は恐怖を募らせていた。
ある日、トンプソン軍曹(ガイ・ピアーズ)が路上に置かれた爆弾を解体しようとしたところを、遠隔操作により爆発、爆風に巻き込まれた彼は死んでしまう。
代わりに配属されたのは、ジェームズ二等軍曹(ジェレミー・レナー)だった。
配属された初日、ロボットではなく、生身のまま爆弾に近づき解体してしまう。
チームは彼のやり方の無謀なやり方に反発する。
2009年に公開された映画の最も栄誉ある作品は、この「ハート・ロッカー」だった。
オスカー受賞までには、ジェームズ・キャメロン監督の「アバター」などと賞レースを展開する一方、一部の制作者がメールを送るなどしたため、さらに話題になってしまった。
「ハート・ロッカー」のほうの出来は知らなかったので、「アバター」とどちらが受賞するかは僕には不透明だった。
ただ「アバター」は、旧態依然の物語パターンだったので、それがどう映るかは微妙だったことは確かだ。
結果は「ハート・ロッカー」の圧勝に終わった。
何故なのだろうか。
それはこの映画を観れば、きっと明らかになる。
▼以下はネタバレあり▼
「アバター」とともに話題になったことは、ちょっとした因縁がある。
それは二人の監督が夫婦だったと言うことはない。
「アバター」は徹底した米軍否定なのに対して、こちらは徹底した米軍肯定であるということだ。
この映画に登場するアメリカ軍兵士たちは、計算されて配置されている。
ガイ・ピアーズにしても、ジェレミー・レナーにしても、アンソニー・マッキーにしても、完全に計算されている。
どこかのアメリカの雑誌が、この映画を「ほとんど完璧な映画」と評したのは、あながち誇大広告でもない。
確かに、ほとんど完璧に描かれている。
それはドキュメンタリータッチでありながら、完全に監督が意図した通りに映画が展開するという点においてである。
主人公を演じるジェレミー・レナーは、狂っている。
爆弾を解体するために仲間や自分の命を危険にさらそうとする彼は、英雄どころか、むしろ狂気に満ちている。
およそ常人には理解できない感性を持っている。
子どもが生まれても、なお、戦場に赴こうとする彼は、正義感や職業への熱意などをとっくに超えたところに位置している。
だが、なぜだか、僕たちはそれを理解してしまう。
いや、共感的理解を示し、それもあり得るだろうと考えてしまう。
そして、無関心だった米軍兵士に対して、ちょっと同情にも似た印象を受けてしまう。
アメリカ軍兵士たちが沖縄で問題化しているのをよく知っている日本人である僕でさえそうなのだ。
きっとアメリカ人たちなら、もっと深く、もっと強く感情移入しただろう。
それもすべて、この映画がそのように描かれているからに他ならない。
おもしろいのは彼は狂っているが、人を守る人間であるということだ。
爆弾解体班にいる彼は、爆弾を解体するために必要な殺人は行うが、それ以上の無益な殺しはしない。
むしろ、人を守ること、爆弾を解体することに命をかけていて、それは時にイラク人だったりする。
トンプソン軍曹、米軍の医師であるケンブリッジ、そしてイラク人の父親がそれぞれ爆死する。
三度爆死するが、その配置が巧みだ。
トンプソン軍曹が死ぬのは、爆弾の脅威を僕たちに伝えるため。
軍医のケンブリッジが死ぬのは、日常にそこに悪意が存在しているということを示すため。
そして、イラク人が最後に死ぬのは、戦っているのは目に見えぬ悪意であるということを示すためだ。
命を守ろうとしている米軍兵に罪はない。
彼らは全面的に肯定されるべき人間たちである。
ということを強調するため、そしてすり込むために彼らは配置されている。
これがもし軍医とイラク人が逆だったとしたら、きっと軍医を殺したイラク人への怒りを強調することになっただろう。
あるいは、イラク人が殺されても、切なさに似た感情を抱くことはできなかっただろう。
それさえも計算されているのだ。
主人公のいる彼らのチームは、人を殺さない。
敵であるはずのイラク人やアルカイダなど、具体的な敵が殺されるシーンがほとんどない。
爆弾解体後、殺し合うシーンが中盤に出てくるが、遠く離れた相手を狙撃するというきわめて消極的な殺しあいしかしない。
死体が見えず、しかも相手の思想や考えに触れることはない。
むしろ敵として前面に出てくるのは、残虐に人間爆弾に仕立てられたベッカム(実際は違っていたが、それも後に述べよう)という死体でしかない。
そこには敵がいない。
殺すべき相手を映すことよりも、悪意そのものを抽象的に描いている。
ジェームズが狂っていても、人を殺すというような狂い方をしない。
彼はあくまでも、兵士として正しく狂うのだ。
また、チームのもろさ、弱さを強調して描く。
軍医にカウンセリングを受けるエルドリッジにしても、怖い怖いと弱音を吐く黒人兵、サンボーンにしても、極端に弱くもろい存在であることを強調する。
もちろん、子どもがいるのに、戦争に赴こうとするジェームズもまた弱い人間として描かれている。
そこには、「アバター」にあったような、残虐で狂っている、いけいけどんどんのアメリカ軍兵士の姿は、全くない。
彼らは全くの善人で、全くの被害者として描かれている。
そのほか印象的なシーン・カットは数多くある。
だが、それもこれも、すべてはアメリカ軍兵士たちが置かれている現状を、敵がいないという一貫した肯定派の立場から描いている。
特におもしろいのは、ベッカムという少年が、人間爆弾に改造された死体で発見されるというシークエンスだ。
結局ベッカムは生きていて、ジェームズの勘違いだったことが明らかにされる。
だが、観ている僕たちは、それでもジェームズを肯定したはずだ。
間違っても仕方がない、正しいことをしたのだ、という肯定の眼差しを向けたはずだ。
もちろん、それは大量破壊兵器が見つからなくてもそういうこともあるだろうと、肯定するトリックが仕掛けられている。
一つのシークエンスが、すべて社会的な視座を帯びている。
日本人にはできない芸当だが、僕はむしろ怖いとさえ思った。
それはジェームズの狂気に対してではない。
これだけ無意識に自己肯定を植え付けることができる、映画というメディアに対しての畏怖である。
レイトショウで映画を見てきました。
何かはまたお楽しみ。
日曜あたりをめどにアップしたいと思います。
>nさん
そうですね。
見直したい映画はたくさんあります。
けれども、こういうブログをしているとどうしても記事にするために見てしまうので、見直すことが少なくなってきました。
500日のサマーは何かと話題ですね。「インセプション」の人も出ていますし。
GEOを覗いてみます。
人によっても
そのひとの見る時期によっても
感想が違ってくるんだと
500日のサマーを見ながら
あらためて考えていました。
目が離せない理由はもう
ほとんど個人的な理由なんですよね。
またいつか
告白も
アバターも
300も?
この映画もみてみることにします◎
メメントの監督
ノーランだったんだ。
>nさん。
僕はけっこう好きです。
緊張感がたまりません。
おそらくオスカーは社会的な話が好きなので、「アバター」よりもこちらを選んだのでしょう。
「アバター」をこの前もう一度見ましたが、僕は十分おもしろかったと思いました。
「ハート・ロッカー」も好きですよ。