評価点:51点/2010年/アメリカ
監督:オリバー・ストーン
あのゲッコーのカリスマはどこへ消えた?
アメリカはすっかり様変わりしたが、ゲッコー(マイケル・ダグラス)はそのアメリカのちまたに帰ってきた。
出所したゲッコーは自分のインサイダー取引の経験からの本を出版し、講演する毎日を送っていた。
ゲッコーの娘ウィニー(キャリー・マリガン)に恋をしたジェイコブ・ムーア(シャイア・ラブーフ)は、彼女と父親との関係を修復させようと彼に近づく。
彼もまたウォールストリートマンであり、傾きかけた証券会社で働いていた。
その証券会社の社長から謎の特別ボーナスをもらったが、その直後、融資を受けられなかったことを苦に自殺してしまう。
陥れたライバル会社のブレトン(ジョシュ・ブローリン)に復讐のためにも、ゲッコーと交流を深めていく。
「ウォール街」から20年以上経ったアメリカを舞台に、同じゲッコー役でマイケル・ダグラスが出演している。
彼は最近咽頭ガンが発覚し、久々に公の前に姿を現したことでも話題になった。
前作の時代をリアルタイムに過ごしていた人にとっては、この映画は感慨深いものがあるだろう。
僕はそこまでの思い入れはないが、最近のサブプライム問題やリーマンショックのあおりを受けた日本にあって、おもしろい題材を取り上げている。
だが、これ以外の話題作がたくさんあったので、見逃した人も多いだろう。
僕ももっと早くアップするはずだったのだが、ここまで遅くなってしまった。
興味があるなら見てもかまわないだろうが、それほどおもしろみのある作品でもない。
他の映画を観たほうがいいかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を観る人はどんなモティべーションをもって観に行くのだろうか。
前作の続きとして観に行く人、もしくはリーマンショックなどの金融の実態を暴いてくれることを期待する人?
金融によって破綻したアメリカ経済が受けた影響は計り知れない。
その時期に合わせて制作されたこの映画が期待されているところは自ずと見えてくる。
また、カリスマと言われたゲッコーがこの事態をどのように受け止め、乗り切るのか、その姿に期待する人もいただろう。
だが、それらの期待を全くかなえることなくエンドロールを迎えてしまうのは非常に残念だった。
同じキャスティングで同じキャラクターを登場させるなら、前作とのつながりをよりわかりやすく示すべきだった。
その一つが大きすぎる携帯電話だった。
当時斬新だった携帯電話も、いまやiPhoneを娘が手にしているのは象徴的だ。
時代が過ぎ去ってしまったことに哀愁さえ漂う。
けれども、ゲッコーらしさがどこにもない。
いや、ゲッコーとはどういう人物だったのか、不透明になってしまった。
なぜなら、ゲッコーという伝説の「物語」が一本ではなくなったからだ。
大きな流れてとしては
1)フィアンセを利用して娘に取り入ろうとする
2)実はその娘が持つ1億ドルの資金が目当てだったので雲隠れ。
3)再び娘と関係を修復させようとする。
というものだ。
ここに感情移入しようとすることがもはや無理である。
ゲッコーはどこまでもしたたかな男だった。
それならば少なくとも資金をもって逃げてしまえば、「冷酷だが自分を貫いたのだな」で観客も理解しただろう。
けれども今回のゲッコーはさらにひっくり返してしまう。
再び1億ドルをもって娘の前に現れる(正確には寄付したと告げるのだけれども同じ事だろう)。
やはりゲッコーも人の子だったと言えるだろうか。
それまでの伏線がゆるゆるだから、結局ゲッコーがどんな人物だったのか不明確になってしまう。
あれほどカリスマと言われたゲッコーがどこか整合性のない、哲学のないふぬけに見えてしまうのだ。
もっと有り体に言えば、「安易な親子ドラマを望む観客に迎合したな」ということだ。
前作もそういう点はあった。
物作りを誇りにしていたアメリカの「伝統」を貫くという形で終わっていた。
だが、ゲッコーという人間は、冷徹で判断力に富み、行動力をもつ人間だったはずだ。
だからこそ、人は「自分にはできないすごいやつ」と仰ぎ見ていたのだ。
今回はそれを解体してしまった。
だから、何も残らない中身のない話になってしまった。
どうせなら、徹底的に悪の男で終わらせるほうがよほど良かったはずだ。
僕たち観客が受ける印象は「やられた!」ではなく、「なんじゃそら!」だろう。
そこにカタルシスが生まれるはずもない。
そうかといっても、ゲッコーらしい、金融に対する鋭い視座や分析が示されるわけでもない。
むしろリーマンショックって当たり前の出来事だから今更説明する必要ないよね、というような「常識」として描かれ中身のない展開になっている。
もちろん、アメリカでは当たり前のことだし、いちいちそこに説明することは蛇足なのだ。
そんなことを考えてしまうのは金融に疎い日本に住む僕くらいのものだろう。
けれども、そこを丁寧に説明しなければマネーゲームにならない。
どう相手を蹴落としていくのか、その手順がわからないからスリリングでもない。
そこまでの頭がないのなら、そもそもこんな時期にこんな映画を撮るべきではないし、それこそ、リーマンショックをようやく乗り越えそうなアメリカの観客が求めているものだったのではないだろうか。
視点人物となるジェイコブの設定も甘い。
彼がなぜそんなにクリーンエネルギーにこだわるのか、わからない。
僕は彼の盲信ぶりは、宗教のようにさえ見えてしまう。
なぜそんなにあのエネルギー開発に力を注いだのだろうか。
彼の中身もないし、新エネルギーに対する出資を渋る理由も上手く描けていない。
既得権益を石油で得ている人間たちは、石油にかわる無尽蔵なエネルギーが開発されるのが怖いのだ。
ちょうど、インターネットが普及することに対してマスメディアがこぞって叩く構造と似ている。
少なくともそのあたりの言及がなければ新エネルギーに投資する意味が見えてこない。
結局何も描けていない、非社会的な映画になってしまった。
多くの人を裏切ってしまっことは疑いないだろう。
監督:オリバー・ストーン
あのゲッコーのカリスマはどこへ消えた?
アメリカはすっかり様変わりしたが、ゲッコー(マイケル・ダグラス)はそのアメリカのちまたに帰ってきた。
出所したゲッコーは自分のインサイダー取引の経験からの本を出版し、講演する毎日を送っていた。
ゲッコーの娘ウィニー(キャリー・マリガン)に恋をしたジェイコブ・ムーア(シャイア・ラブーフ)は、彼女と父親との関係を修復させようと彼に近づく。
彼もまたウォールストリートマンであり、傾きかけた証券会社で働いていた。
その証券会社の社長から謎の特別ボーナスをもらったが、その直後、融資を受けられなかったことを苦に自殺してしまう。
陥れたライバル会社のブレトン(ジョシュ・ブローリン)に復讐のためにも、ゲッコーと交流を深めていく。
「ウォール街」から20年以上経ったアメリカを舞台に、同じゲッコー役でマイケル・ダグラスが出演している。
彼は最近咽頭ガンが発覚し、久々に公の前に姿を現したことでも話題になった。
前作の時代をリアルタイムに過ごしていた人にとっては、この映画は感慨深いものがあるだろう。
僕はそこまでの思い入れはないが、最近のサブプライム問題やリーマンショックのあおりを受けた日本にあって、おもしろい題材を取り上げている。
だが、これ以外の話題作がたくさんあったので、見逃した人も多いだろう。
僕ももっと早くアップするはずだったのだが、ここまで遅くなってしまった。
興味があるなら見てもかまわないだろうが、それほどおもしろみのある作品でもない。
他の映画を観たほうがいいかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
この映画を観る人はどんなモティべーションをもって観に行くのだろうか。
前作の続きとして観に行く人、もしくはリーマンショックなどの金融の実態を暴いてくれることを期待する人?
金融によって破綻したアメリカ経済が受けた影響は計り知れない。
その時期に合わせて制作されたこの映画が期待されているところは自ずと見えてくる。
また、カリスマと言われたゲッコーがこの事態をどのように受け止め、乗り切るのか、その姿に期待する人もいただろう。
だが、それらの期待を全くかなえることなくエンドロールを迎えてしまうのは非常に残念だった。
同じキャスティングで同じキャラクターを登場させるなら、前作とのつながりをよりわかりやすく示すべきだった。
その一つが大きすぎる携帯電話だった。
当時斬新だった携帯電話も、いまやiPhoneを娘が手にしているのは象徴的だ。
時代が過ぎ去ってしまったことに哀愁さえ漂う。
けれども、ゲッコーらしさがどこにもない。
いや、ゲッコーとはどういう人物だったのか、不透明になってしまった。
なぜなら、ゲッコーという伝説の「物語」が一本ではなくなったからだ。
大きな流れてとしては
1)フィアンセを利用して娘に取り入ろうとする
2)実はその娘が持つ1億ドルの資金が目当てだったので雲隠れ。
3)再び娘と関係を修復させようとする。
というものだ。
ここに感情移入しようとすることがもはや無理である。
ゲッコーはどこまでもしたたかな男だった。
それならば少なくとも資金をもって逃げてしまえば、「冷酷だが自分を貫いたのだな」で観客も理解しただろう。
けれども今回のゲッコーはさらにひっくり返してしまう。
再び1億ドルをもって娘の前に現れる(正確には寄付したと告げるのだけれども同じ事だろう)。
やはりゲッコーも人の子だったと言えるだろうか。
それまでの伏線がゆるゆるだから、結局ゲッコーがどんな人物だったのか不明確になってしまう。
あれほどカリスマと言われたゲッコーがどこか整合性のない、哲学のないふぬけに見えてしまうのだ。
もっと有り体に言えば、「安易な親子ドラマを望む観客に迎合したな」ということだ。
前作もそういう点はあった。
物作りを誇りにしていたアメリカの「伝統」を貫くという形で終わっていた。
だが、ゲッコーという人間は、冷徹で判断力に富み、行動力をもつ人間だったはずだ。
だからこそ、人は「自分にはできないすごいやつ」と仰ぎ見ていたのだ。
今回はそれを解体してしまった。
だから、何も残らない中身のない話になってしまった。
どうせなら、徹底的に悪の男で終わらせるほうがよほど良かったはずだ。
僕たち観客が受ける印象は「やられた!」ではなく、「なんじゃそら!」だろう。
そこにカタルシスが生まれるはずもない。
そうかといっても、ゲッコーらしい、金融に対する鋭い視座や分析が示されるわけでもない。
むしろリーマンショックって当たり前の出来事だから今更説明する必要ないよね、というような「常識」として描かれ中身のない展開になっている。
もちろん、アメリカでは当たり前のことだし、いちいちそこに説明することは蛇足なのだ。
そんなことを考えてしまうのは金融に疎い日本に住む僕くらいのものだろう。
けれども、そこを丁寧に説明しなければマネーゲームにならない。
どう相手を蹴落としていくのか、その手順がわからないからスリリングでもない。
そこまでの頭がないのなら、そもそもこんな時期にこんな映画を撮るべきではないし、それこそ、リーマンショックをようやく乗り越えそうなアメリカの観客が求めているものだったのではないだろうか。
視点人物となるジェイコブの設定も甘い。
彼がなぜそんなにクリーンエネルギーにこだわるのか、わからない。
僕は彼の盲信ぶりは、宗教のようにさえ見えてしまう。
なぜそんなにあのエネルギー開発に力を注いだのだろうか。
彼の中身もないし、新エネルギーに対する出資を渋る理由も上手く描けていない。
既得権益を石油で得ている人間たちは、石油にかわる無尽蔵なエネルギーが開発されるのが怖いのだ。
ちょうど、インターネットが普及することに対してマスメディアがこぞって叩く構造と似ている。
少なくともそのあたりの言及がなければ新エネルギーに投資する意味が見えてこない。
結局何も描けていない、非社会的な映画になってしまった。
多くの人を裏切ってしまっことは疑いないだろう。
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