そのとき、僕は会社で立ち上がって資料の確認をしていました。
立ちくらみを覚えて、めまいかと思いました。
周りの声がして、「地震だ、揺れている」と聞こえてきました。
確かに窓の外では電線が揺れていました。
阪神・淡路大震災を経験していた僕は、そのときの揺れとは全く質の異なったものだとわかりました。
ゆっくりとした揺れは数十秒ほど続きました。
横にいた同僚がすぐに携帯電話で確認すると、東北で大きな地震が起こったということがわかりました。
ニュースを見るたびに心が痛みます。
同時に、阪神・淡路大震災の時の教訓がそこかしこで生かされていることに妙な感動すら覚えています。
被災者は、とても懸命にそして冷静に事態を受け止めていることに僕は素直に敬服を感じます。
このことがあって、周りで地震についての話題が出ないことがありません。
みな、一様にショックと、不安を感じています。
僕はそうした話題が出るたびに考えてきました。
自分には何ができて、何をするべきなのかということを。
僕には仕事があります。
目の前の人を放って、被災地にいくことはかないません。
ボランティアはすばらしいことですが、今任されている仕事を放り出してそこへ行くのは、すこし違う気もしています。
いや、多くの人はきっと同じ気持ちのはずです。
何をすべきなのか、被害の状況が報道されるたびに、自分自身が揺さぶられるのは同じ気持ちだと信じています。
僕の結論は、二つのことです。
一つはこの出来事を真摯さをもって見つめ続けること。
報道に耳を傾け、常に自分に何ができるのかを考え続けること。
そこに「結論」を設けないこと。
ボランティアなのか募金なのかそれはわからないけれども、自分のできる行動を常にアンテナを張り巡らせて、考え続けること。
それはここに記事をアップすることも含まれるでしょう。
もう一つは、今自分ができる仕事をすること。
仕事は社会貢献であると考えています。
今携わっている仕事に全力を挙げることでしか、僕は社会に寄与できる方法を知りません。
また、自分の仕事を放り出して他の行動を起こすことは、その僕にできる唯一に近い社会貢献を放棄することだとさえ感じます。
だから、結局僕は目の前の人を愛することしかできないのだと感じています。
書いても届かないことばですが、あえて書きます。
一人でも多くの人が、無事でいることを祈ります。
立ちくらみを覚えて、めまいかと思いました。
周りの声がして、「地震だ、揺れている」と聞こえてきました。
確かに窓の外では電線が揺れていました。
阪神・淡路大震災を経験していた僕は、そのときの揺れとは全く質の異なったものだとわかりました。
ゆっくりとした揺れは数十秒ほど続きました。
横にいた同僚がすぐに携帯電話で確認すると、東北で大きな地震が起こったということがわかりました。
ニュースを見るたびに心が痛みます。
同時に、阪神・淡路大震災の時の教訓がそこかしこで生かされていることに妙な感動すら覚えています。
被災者は、とても懸命にそして冷静に事態を受け止めていることに僕は素直に敬服を感じます。
このことがあって、周りで地震についての話題が出ないことがありません。
みな、一様にショックと、不安を感じています。
僕はそうした話題が出るたびに考えてきました。
自分には何ができて、何をするべきなのかということを。
僕には仕事があります。
目の前の人を放って、被災地にいくことはかないません。
ボランティアはすばらしいことですが、今任されている仕事を放り出してそこへ行くのは、すこし違う気もしています。
いや、多くの人はきっと同じ気持ちのはずです。
何をすべきなのか、被害の状況が報道されるたびに、自分自身が揺さぶられるのは同じ気持ちだと信じています。
僕の結論は、二つのことです。
一つはこの出来事を真摯さをもって見つめ続けること。
報道に耳を傾け、常に自分に何ができるのかを考え続けること。
そこに「結論」を設けないこと。
ボランティアなのか募金なのかそれはわからないけれども、自分のできる行動を常にアンテナを張り巡らせて、考え続けること。
それはここに記事をアップすることも含まれるでしょう。
もう一つは、今自分ができる仕事をすること。
仕事は社会貢献であると考えています。
今携わっている仕事に全力を挙げることでしか、僕は社会に寄与できる方法を知りません。
また、自分の仕事を放り出して他の行動を起こすことは、その僕にできる唯一に近い社会貢献を放棄することだとさえ感じます。
だから、結局僕は目の前の人を愛することしかできないのだと感じています。
書いても届かないことばですが、あえて書きます。
一人でも多くの人が、無事でいることを祈ります。
menfith
僕は神戸に住んでいるので被害はなかったのですが、実のところ今回の大災害をどのように受け止めればいいのか、未だにわかりません。
阪神・淡路大震災も経験しておらず、テレビのニュースを見ても、ただただ悲惨な映像がながれるばかりで、あまり実感がわきません。
それでも、人の命はこうも簡単に失われてしまうものなのかと考えると、なんだかよくわからなくなって夜も眠れませんでした。
大学生の自分になにができるのか考えましたが、結局何も思いつかず、コンビニのレジで気持ちばかりの募金をすることくらいしか出来ていません。
現地の方々が一人でも多く救われることを願いながら、この地震を自分なりに受け止め、もう少し自分に何ができるのか、何を学ばなければならないのかを考えてみようと思います。
しかし、一方でこのような人間もいる。
http://lounge.harikonotora.net/img/13453-1.jpg
やっと「ヒアアフター」を書けました。
来週からは少し落ち着くと思います。
あと2本書いていない作品があります。
頑張ります。
>地デジさん
どんなことにしても、行動すればそれがすなわち善というわけではないと思います。
僕たちは有名人でもありません。(たぶん)
学生なら学ぶことが最も尊い社会貢献ではないでしょうか。
もっと落ち着けば現地で見聞きしながら、少しでもボランティアに参加すればすばらしいことだと思います。
>ヒカルさん
きっと他にもそういうやからはいるでしょう。
火事場泥棒がいないことに海外からは称賛の声が上がっているようですが、おそらく全くいないわけではありません。
東電の対処も批判されているところもあります。
けれども僕はあえて今はひたむきに生きる人々に注目していたいと思います。
他人を批判するべき点は、もっと後に検証すればいいわけで、今はまず事態の全容の把握と、改善ではないでしょうか。
僕は今はただ祈りたいと思います。