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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス

2023-03-10 19:33:49 | 映画(あ)
評価点:52点/2022年/アメリカ/139分

監督:ダニエル・クワン/ダニエル・シャイナート

あまりにうるさくて、あえりえないほど近い世界。

コインランドリーを経営するエヴリン(ミッシェル・ヨー)は、娘のジョイ(ステファニー・スー)が「ガールフレンド」をつれていることに頭を悩まし、税金の申告に苦慮していた。
そんなある日、夫と国税局を訪れた彼女が、いきなり夫(キー・ホー・クァン)から「用務室」に行くように言われる。
半信半疑で指示通り向かうと、メタバースとつながり、世界を救うように諭される。
混乱の中、彼女は担当の女性にパンチを食らわしてしまう。

数々の賞レースで話題になっており、アカデミー賞でも有力候補に上がっているという本作。
主人公の女性ミッシェル・ヨーはもちろん、「グーニーズ」で活躍したキー・ホー・クァンも夫役で出ている。
公開前の時点で評判になっていることを知って、よくわからないけれども体調不良を押して見に行った。

話題作ということもあり、映画館に行く人も多いだろう。
けれども、決してわかりやすい映画ではないので、注意が必要だ。
しがない中年女性がいきなり覚醒してカンフーの使い手になる、といううたい文句に間違いはないが、その見せ場は期待しているほど多くはない。

集中して見る必要もあり、鑑賞には結構覚悟が必要だと思う。

▼以下はネタバレあり▼

ということで、体調不良だったこともあり、集中力が疎外され続けてエンドロールを迎えてしまった。
最初から最後まで私はこの映画に集中することができなかった。
おそらく体調が良くてもそれほど印象は変わらないだろうから、なぜそんなに厳しくなったのかも含めて文章にしておこう。

監督と脚本は、ダニエル・クワン/ダニエル・シャイナートという二人で、ADHDであることを公言している。
ADHDとLDと、自閉症スペクトラムがどのような関係になっているのかあまり知らないが、私はこの映画を見ていると「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」という作品を思い出した。
要するに、世界の捉え方が、普通の人と違う世界が展開される。
もちろん、普通の人というのはひどい誤解がある表現だ。
私たちは自分の基準を普通だと感じているのにすぎず、実際には標準や普通というものは存在しない。
私とあなたと同じものをみても、同じようには見ない。

だから、この映画が監督がADHDだから……と断罪するのはちょっと違う。
とはいうものの、そのように考えると、マルチバースというファンタジーとして捉えるよりもすっきりするだろう。
宇宙をどのように移動するか、ということが主題ではなく、自分という世界をいかに改変していくかということがテーマになっている。

そのモティーフをマルチバースに置き換えたのだ。
人間はあらゆる可能性の中で生きている。
しがないコインランドリーを経営して、まるで何も取り柄がない自分という人生もある。
しかし、ハリウッドスターとなって第一線で活躍する俳優になっている人生もある。
そのあらゆる可能性を示したのが、マルチバースである。
しかし、それを額面通り受け取ってもテーマは見えてこない。

マルチバースはすべて比喩であり、方便である、と考えた方がわかりやすい。
あらゆる可能性の中でエヴリンはすべてがうまくいっていないと、自己肯定感が非常に低い。
家族からも、社会からも、国籍や法律面からも、疎外されている。
もしかしたら自分にはもっと違う可能性があったかもしれない。
けれども、それは完全に失われて、娘とも父親とも社会とも和解できない。
そういう不協和音の中で立ち尽くしてしまったとき、自己の心の持ちようを、マルチバースとしてひっくり返したということだ。

だからあらゆる可能性を信じることができるようになれば、あらゆることが可能になる。
カンフーだって使いこなせるし、ハリウッドスターにすらなれる。
そのトリガーとなるのが、普通は躊躇してしまうような馬鹿な行動だ。
リップクリームを食べたり、靴を左右反対に履いたり、おしっこをもらしたり。
それは社会がADHDの人間を抑圧している、「常識」をあえて自分の欲望のままに行ってみる、ということでもある。

彼女は情報過多で、しかも異国の場所で生き方を見失ってしまっている。
その彼女はマルチバースという「可能性」を知ることで、――内在化することで――新たな人生を見いだす。
そこでは誰とでも和解できるし、コミュニティに参加できる。
まさに「そういう可能性があったかもしれない」世界だ。

この作品全体が比喩であると捉えれば、そのメッセージ性は受け取りやすいだろう。

とはいえ、私は全くノレなかった。
うるさすぎる効果音も、唐突すぎるアクションも、私の理解を超えていた。
頭でそういうことが言いたいのだろうな、と分かっていても、ついて行けない。
(何よりも混沌とした世界で出されるあらゆるアイテムがアメリカの文化的コードを帯びているのだろうが、笑うべきなのか褒めるべきなのか、冷笑すべきなのか、それが理解できない。)
これがアメリカでは評価されている、ということを考えると、映画の可能性に対して探究心が強いのだろう、という印象を持つ。

同化と異化を超えてしまうと、ナンセンス=無意味になってしまう。
映画や物語としての記号をずらす、というよりも、記号そのものを破壊してしまうような作品だった。

私はこれが「理解不能だ」とどこかで突っぱねているところがあるのだろう。
あるいはその世界を共有できないことこそが、差別的な小さな世界で生きている証左かもしれない。
という反省はあるものの、面白くないと感じたことは確かだし、理解できない、共感できないという印象は拭えない。

映画としての可能性を見せた映画であることは間違いない。
私には新しすぎた、ということかもしれない。

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