評価点:7点/2006年/日本
監督:河野圭太
糞映画。
海外へ仕事のために出張する母(松雪泰子)のため、北海道へ転校した太一(深澤嵐)は、道ばたにうずくまっていた子ギツネを拾う。
交番の警官に紹介された動物病院に届けると、入院費のために、住み込みで働くように強要される。
そして、検査の結果、なんと耳、目、声、鼻がきけないキツネであることが判明する。
諸事情の関係で、見ることになってしまった作品。
泣かせるためだけの映画であり、子どもだましきわまりないことを承知の上で観た。
はっきり言って、おすすめのポイントはない。
観なくて良い。
観る理由はない。
もしあるとすれば、とても退屈で、どうしようもなく、いかに日本映画が稚拙で詐欺的な商業映画を作ったか、という研究対象にする時ぐらいだ。
ということで、この批評は、何らかの理由で間違って観てしまった、同情すべき人(僕も含めて)に贈る文章である。
▼以下はネタバレあり▼
まず、敬服すべきは、こんなしょうもない映画に、お金をかけてつくろうとした日本という経済大国である。
この映画は、なにか新しい映画を撮りたいとか、子ども達にも分かる感動を味わわせてあげたいとか、そういった野心的なコンセプトは一切ない。
本当に、資本主義経済という大きくなりすぎた国はどんな無駄なものでもつくり出してしまうのだということを、証明するための映画である。
描くべき、描きたいものがな~んにもない映画というのは、まさにこのような映画を指すのだろう。
「模倣犯」以来の衝撃である。
何がいけないかって、まず、主人公である太一の設定だ。
なるほど、母親の仕事の都合で北海道に転校してきたのはわかった。
だが、どこにだ? 誰の家にだ?
冒頭で母親の作文を読まされているシーンがある。
「さんすうフィッシュという魚は…」という作文に、クラスメイトが「嘘をつくなよ」とか、先生までもが「嘘は書いてはいけません」とか言い出す。
どんな冷徹な先生なのだろうか。
作文を書いてきた転校生の内容を「嘘だ」と決めつける先生って。
そして「最後に現れた魚に太一と名付けました」という作文に、「太一みたいだな」とつっこまれる。
あれ、太一は転校生なのに、いきなりおっとりした性格で、いじられキャラということが確定していたのか?
この冒頭のシーンは、非常に重要な意味を持っているのは言うまでもない。
太一という人物設定、母親との関係、クラス内での占める位置、など、いきなり物語に放り込まれる観客にとって、人物把握の手がかりとなる重要なシーンなのだ。
にもかかわらず、このシーンには何の意味もない。
後のシーンとかみ合わない、むしろ、ない方が良いシーンになっている。
だが、問題はその後だ。
転校生だと言うことはなんとか理解できる。
太一は積極的な性格でもないのだろう。
拾ったキツネを届けるシーンになると、もはや混乱しかない。
キツネを拾ったのに、なぜか大沢たかおからは「お前が入院費を払え」というオキツイお言葉。
なんだそれ、お前はこんな田舎で動物病院をしているのに、そんなキツネ一匹も救わんのか! と言いたくなる。
その前に、動物のためならケンカしてでも、的な車のシーンを入れておきながら、
子どもに対してはこの辛辣さである。
ここでも人物設定がまったく曖昧で中途半端なものであることが浮き彫りになる。
そして、なぜか住み込みし始める太一。
このあたりになると、はてなマークしか頭に浮かばない。
疑問は一つだ。
「こいつの引っ越ししてきた家は、もともとどこにあるのだろうか」
学校のシーンから帰宅までの間でキツネを拾い、そのまま矢島動物病院に向かったのだから、当然、本来の引っ越し先があるはずだ。
しかし、そのことには一切触れられずに、あたかもそこに住んでいたかのように勉強机さえ用意されている。
引っ越し先には保護者となる人物もいたはずで、その人に連絡することなく「住み込みで働け」となったようだ。
それは日本では「誘拐」や「軟禁」というレベルの犯罪である。
キツネの様子を心配するシーンや、実は三重苦に苦しむキツネだったことなどが、次々に明かされる。
しかし、僕の心配事はそんなことではない。
「はやく親元に返してあげて! あなた達のしていることは、犯罪ですよ!」
こんな不安定な人物設定の上に、感動のドラマなど成立するはずがない。
子どもが必死にキツネを育てようとする。
しかし、それが物語である以上、何らかの「課題」と「解決」がなければ「お話」にならない。
そもそも、登場人物達の立つ位置が曖昧なので、どんな出来事も、結局は「死までの演出」としか見えない。
ヘレンが良くなったら、一緒にスケボーに乗るんだ、と言いながら、友達と練習する姿にしろ、あれだけ友達との不仲を冒頭で流しておきながら、なぜ教えてもらえるまでの関係になったのか、不明確だ。
練習するシーンよりも、むしろ関係を修復したシーンの方が、映画としては重要だったはずだ。
完全に描くべきシーンを間違えている。
しかし、この映画はまだまだカオスがお好きらしい。
なぜか南の島から帰ってきた松雪泰子が、今度は矢島病院で一緒に暮らそう、あなた父親になってよ、と衝撃的な、本当に衝撃的な告白をする。
この唐突な登場は、あたかも、二時間通しては他の仕事があってギャラを払えないけれど、後半四〇分くらいならギャラが何とか払えるよ、という裏事情をそのままスクリーンに映し出したかのような展開だ。
しかも、それだけではない。
二人は大学時代の同級生であることが明かされ、子どもを預けた先は、なんとこの矢島病院だったというのである。
じゃあ、ヘレンがおらんかったら、太一はどこで生活してたの??
この唐突な思いつきのような母親の帰国によって、太一はヘレンだけではなく、家族関係でも悩まなければならなくなる。
そしてお約束通り、ヘレンの死。
季節を明らかに間違えた寒空のもと、無理矢理そこだけスタッフによって植えられた花を摘み、ヘレンが死んでいく。
いかにも泣かそうという演出には恐れ入るが、それで泣くのは、よほどの人だけだろう。
何のドラマも生み出さないヘレンの死は、逆に「死」を冒涜しているとさえ思える。
さらに、そのシーンに無理矢理感動を増幅させるために、「私たちもゆっくり親になればいいじゃない」という説得力皆無の、子どもの意志を完全に無視した発言が飛び出す。
さらにさらに「カメラマンはね、待つのが仕事なの」というとってつけたような寒いセリフで一件落着である。
結局なんだったのか、理解不能である。
脚本を初めて読んだプロデューサーか、監督か、誰でも良い、明らかにつじつまが合っていないことに、なぜ誰も気づかなかったのだろう。
そして、なぜ誰もそれを修正しようとしなかったのだろう。
物をつくる仕事をしておきながら、この映画を自分たちが携わった作品として世に発表できた、その感覚を疑ってしまう。
子ども向けの映画は確かに不足している。
良い映画は小難しい映画だと勘違いしている人も多い。
だが、子ども向けの映画だからといって、完成度を下げる理由にはならない。
こんな映画ばかりを見せられる子どもは、きっと映像に対する深い感覚や、鋭い感性は育たないだろう。
本当にお寒い映画だ。
(2006/12/24執筆)
監督:河野圭太
糞映画。
海外へ仕事のために出張する母(松雪泰子)のため、北海道へ転校した太一(深澤嵐)は、道ばたにうずくまっていた子ギツネを拾う。
交番の警官に紹介された動物病院に届けると、入院費のために、住み込みで働くように強要される。
そして、検査の結果、なんと耳、目、声、鼻がきけないキツネであることが判明する。
諸事情の関係で、見ることになってしまった作品。
泣かせるためだけの映画であり、子どもだましきわまりないことを承知の上で観た。
はっきり言って、おすすめのポイントはない。
観なくて良い。
観る理由はない。
もしあるとすれば、とても退屈で、どうしようもなく、いかに日本映画が稚拙で詐欺的な商業映画を作ったか、という研究対象にする時ぐらいだ。
ということで、この批評は、何らかの理由で間違って観てしまった、同情すべき人(僕も含めて)に贈る文章である。
▼以下はネタバレあり▼
まず、敬服すべきは、こんなしょうもない映画に、お金をかけてつくろうとした日本という経済大国である。
この映画は、なにか新しい映画を撮りたいとか、子ども達にも分かる感動を味わわせてあげたいとか、そういった野心的なコンセプトは一切ない。
本当に、資本主義経済という大きくなりすぎた国はどんな無駄なものでもつくり出してしまうのだということを、証明するための映画である。
描くべき、描きたいものがな~んにもない映画というのは、まさにこのような映画を指すのだろう。
「模倣犯」以来の衝撃である。
何がいけないかって、まず、主人公である太一の設定だ。
なるほど、母親の仕事の都合で北海道に転校してきたのはわかった。
だが、どこにだ? 誰の家にだ?
冒頭で母親の作文を読まされているシーンがある。
「さんすうフィッシュという魚は…」という作文に、クラスメイトが「嘘をつくなよ」とか、先生までもが「嘘は書いてはいけません」とか言い出す。
どんな冷徹な先生なのだろうか。
作文を書いてきた転校生の内容を「嘘だ」と決めつける先生って。
そして「最後に現れた魚に太一と名付けました」という作文に、「太一みたいだな」とつっこまれる。
あれ、太一は転校生なのに、いきなりおっとりした性格で、いじられキャラということが確定していたのか?
この冒頭のシーンは、非常に重要な意味を持っているのは言うまでもない。
太一という人物設定、母親との関係、クラス内での占める位置、など、いきなり物語に放り込まれる観客にとって、人物把握の手がかりとなる重要なシーンなのだ。
にもかかわらず、このシーンには何の意味もない。
後のシーンとかみ合わない、むしろ、ない方が良いシーンになっている。
だが、問題はその後だ。
転校生だと言うことはなんとか理解できる。
太一は積極的な性格でもないのだろう。
拾ったキツネを届けるシーンになると、もはや混乱しかない。
キツネを拾ったのに、なぜか大沢たかおからは「お前が入院費を払え」というオキツイお言葉。
なんだそれ、お前はこんな田舎で動物病院をしているのに、そんなキツネ一匹も救わんのか! と言いたくなる。
その前に、動物のためならケンカしてでも、的な車のシーンを入れておきながら、
子どもに対してはこの辛辣さである。
ここでも人物設定がまったく曖昧で中途半端なものであることが浮き彫りになる。
そして、なぜか住み込みし始める太一。
このあたりになると、はてなマークしか頭に浮かばない。
疑問は一つだ。
「こいつの引っ越ししてきた家は、もともとどこにあるのだろうか」
学校のシーンから帰宅までの間でキツネを拾い、そのまま矢島動物病院に向かったのだから、当然、本来の引っ越し先があるはずだ。
しかし、そのことには一切触れられずに、あたかもそこに住んでいたかのように勉強机さえ用意されている。
引っ越し先には保護者となる人物もいたはずで、その人に連絡することなく「住み込みで働け」となったようだ。
それは日本では「誘拐」や「軟禁」というレベルの犯罪である。
キツネの様子を心配するシーンや、実は三重苦に苦しむキツネだったことなどが、次々に明かされる。
しかし、僕の心配事はそんなことではない。
「はやく親元に返してあげて! あなた達のしていることは、犯罪ですよ!」
こんな不安定な人物設定の上に、感動のドラマなど成立するはずがない。
子どもが必死にキツネを育てようとする。
しかし、それが物語である以上、何らかの「課題」と「解決」がなければ「お話」にならない。
そもそも、登場人物達の立つ位置が曖昧なので、どんな出来事も、結局は「死までの演出」としか見えない。
ヘレンが良くなったら、一緒にスケボーに乗るんだ、と言いながら、友達と練習する姿にしろ、あれだけ友達との不仲を冒頭で流しておきながら、なぜ教えてもらえるまでの関係になったのか、不明確だ。
練習するシーンよりも、むしろ関係を修復したシーンの方が、映画としては重要だったはずだ。
完全に描くべきシーンを間違えている。
しかし、この映画はまだまだカオスがお好きらしい。
なぜか南の島から帰ってきた松雪泰子が、今度は矢島病院で一緒に暮らそう、あなた父親になってよ、と衝撃的な、本当に衝撃的な告白をする。
この唐突な登場は、あたかも、二時間通しては他の仕事があってギャラを払えないけれど、後半四〇分くらいならギャラが何とか払えるよ、という裏事情をそのままスクリーンに映し出したかのような展開だ。
しかも、それだけではない。
二人は大学時代の同級生であることが明かされ、子どもを預けた先は、なんとこの矢島病院だったというのである。
じゃあ、ヘレンがおらんかったら、太一はどこで生活してたの??
この唐突な思いつきのような母親の帰国によって、太一はヘレンだけではなく、家族関係でも悩まなければならなくなる。
そしてお約束通り、ヘレンの死。
季節を明らかに間違えた寒空のもと、無理矢理そこだけスタッフによって植えられた花を摘み、ヘレンが死んでいく。
いかにも泣かそうという演出には恐れ入るが、それで泣くのは、よほどの人だけだろう。
何のドラマも生み出さないヘレンの死は、逆に「死」を冒涜しているとさえ思える。
さらに、そのシーンに無理矢理感動を増幅させるために、「私たちもゆっくり親になればいいじゃない」という説得力皆無の、子どもの意志を完全に無視した発言が飛び出す。
さらにさらに「カメラマンはね、待つのが仕事なの」というとってつけたような寒いセリフで一件落着である。
結局なんだったのか、理解不能である。
脚本を初めて読んだプロデューサーか、監督か、誰でも良い、明らかにつじつまが合っていないことに、なぜ誰も気づかなかったのだろう。
そして、なぜ誰もそれを修正しようとしなかったのだろう。
物をつくる仕事をしておきながら、この映画を自分たちが携わった作品として世に発表できた、その感覚を疑ってしまう。
子ども向けの映画は確かに不足している。
良い映画は小難しい映画だと勘違いしている人も多い。
だが、子ども向けの映画だからといって、完成度を下げる理由にはならない。
こんな映画ばかりを見せられる子どもは、きっと映像に対する深い感覚や、鋭い感性は育たないだろう。
本当にお寒い映画だ。
(2006/12/24執筆)
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