評価点:70点/2007年/アメリカ
監督:アダム・シャンクマン
巻き込む。
少し太めのトレーシー(ニッキー・ブロンスキー)は午後にあるダンス番組に夢中の女の子。
ある日番組のダンサーが一人「9ヶ月ほど休養」することになる。
ダンサーのオーディションがあることを知ったトレーシーは、母親エドナ(ジョン・トラボルタ)が止めるのも聞かずに、オーディションを受ける。
プロデューサーのベルマ(ミシェル・ファイファー)によって落とされ、ショックを受けるトレーシーだったが、番組の人気イケメン・ダンサーのリンク(ザック・エフロン)にダンスの才覚を見いだされ、番組に大抜擢される。
ダンスコンテスト「ミスヘアスプレー」を狙う、ベルマの娘アンバー(ブリタニー・スノウ)からの執拗な嫌がらせにもめげずに踊り続けるのだが……
「シカゴ」のプロデューサーが本作でも製作を担当している。
久々の本格ミュージカル映画作品という感じだ。
「シカゴ」ではまって以来、ミュージカル映画に抵抗感がなくなった。
同じスタッフが手がけていることもあり、僕としては期待のハードルを高くしてしまった気がする。
もっと脳天気な映画だと思っていたが、じつは人種差別まで踏み込んでいる。
重い話が苦手な人でも十分楽しめるが、全くの予備知識なしだと、少しとまどうかもしれない。
とにかくどんな見せ場、ダンス、歌よりも際だっているのは主人公のお母さん役の俳優だ。
「彼女」を見に行くだけでも1800円の価値はあるはずだ。
▼以下はネタバレあり▼
話のテーマは非常にわかりやすく、情熱的だ。
「シカゴ」のようなブラックさはなく、こちらのほうがより楽しみやすい物語になっている。
かといって、子供向けのような骨抜きのミュージカルでもない。
老若男女楽しめるように工夫されているところが、さすがヒットメーカーだ。
ちなみにこの映画はアメリカで公演されていたミュージカルを原作としている。
そのため、舞台との違いを楽しむというコアな楽しみ方もできる。
とにかく「間口が広い」ということがこの映画の最大の魅力かもしれない。
間口が広いことと、物語のテーマは無関係ではない。
この映画のテーマは、何度も劇中で歌われるように「壁を乗り越える」ということだ。
つまり、今まであった垣根を取り去っていくということ。
それは人種であり、体格であり、偏見であり、世代差であったりする。
とにかく、そうした今までは大きく見えた壁を取り去っていくことが、この映画の中心的な話題になっている。
人種差別を中心に描きながらも、笑える体型(化粧?)をしているコミカルさや、人種差別以外の「垣根」を様々に描くことにより、社会的問題であるという「重さ」を払拭している。
そのため、深い話、重い話でありながらも、様々な人に共感できるようなお気楽さも持ち合わせている。
それはミュージカル映画の肝である、楽曲にも反映されている。
気づいた人は多いだろう。
ダンスが始まるとき、多くの場合、見る者とダンスする者という二役をシークエンスのなかで設定している。
黒人の居残り学級に行く主人公は、黒人達のイカしたダンス(死語)を、ただ見るだけである。
だが、彼らのダンスに触発されて、自分まで踊るように巻き込まれる。
黒人街にいる娘を発見したトラボルタも同じだ。
こんな街にいるなんてと思っていたが、ダンスの魅力に飲み込まれ、やがて自分も踊る側に巻き込まれていくのだ。
この波は、人種差別をなくそうとする時代の波でもあり、ダンスを楽しみたいという若い世代の情熱でもある。
見事にテーマとダンスがマッチしているのだ。
だからこそ、ダンスのカタルシスは大きく、そして楽しい。
もちろん、この見る側から踊る側への転換は、映画を観る側から、映画に参加する(映画の考えを現実に反映する)側へという転換でもある。
観る者に勇気を与え、かつ楽しめるこの映画は、非常に巧みに仕組まれているのである。
だが、この映画、僕は期待していたよりも楽しめなかった。
その理由をいくつか列挙してみよう。
1 ダンスに表情がない。
映画のテーマが非常にしっかりして、揺るぎないものになっている。
観ている者はだから安心して楽しめるのだが、逆に劇中の楽曲を乏しく、表情のない者にしてしまっている。
つまり、「垣根を越える」というテーマ以外の楽曲があまりに少ないのだ。
だから、正直、飽きる。
歌い手が変化していくものの、大きくはテーマからぶれない。
ミシェル・ファイファーくらいなものだ。
それも、相手を誘惑する=相手を自分に引き込む、という意味では同じ色を備えている。
「シカゴ」では様々な表情を見せた楽曲が魅力だったので、僕としては少々がっかりだ。
2 キャラクター設定が甘すぎる。
人種差別をテーマとしていながら、お気楽だと追わせるところが目立つ。
楽曲やキャラクターに救われている部分もあるが、それにしても、あまりにもお気楽だと思わせるほど、設定が緩い。
特に相手役のリンク。
彼の役所は「人種差別を超える」という意味においても、重要だった。
彼が偏見を超えることは、観ている観客が偏見を超えるということに他ならないからだ。
それ故に、彼の内面をもっと上手に描いておかなければ、なかなか「壁」が明確にならない。
「僕は見た目ばかりを気にしていて 中身はからっぽだった」と歌うが、それが顕著であるような言動を事前に伏線として見せておかなければ、それが氷解する様子があまりわからない。
だからすっきりと落ちないのだ。
白人金髪女性の代表(?)のミシェル・ファイファーがあまりに強烈なため、かすんでしまったのもあるが、リンクの役所はもっとクローズアップしてもよかった気がする。
3 最後まで「巻き込む」べきだった。
リンクの役所が重要になってしまったのは、彼だけのせいではない。
結果的に、彼が見る者から踊る者への転換をみせるのが、この映画のターニングポイントになっているからだ。
映画全体でいえば、彼が最大の見せ場ではなく、諸悪の根源のようなミシェル・ファイファーが最大の見せ場であるべきだった。
しかし、彼女は最後の最後まで「巻き込ま」れない。
最後まで悪役を演じきってしまう。
だから、根本の偏見は取り除かれずに残ってしまう。
そこがこの映画の最大のリアリティではあるものの、カタルシスは明らかに減退してしまう。
ハリウッド映画の王道のようなラストではある。
だが、すごく後味のわるい映画に感じてしまうのは、「もう(今更)止まらない!」のが偏見であるようなブラックなメッセージを観客が受け取ってしまうからではないか。
それにしても、公開当日に行ったのに、1割も観客が入っていなかった。
トラボルタの登場シーンで笑う者は僕しかいない。
何か悲しいね。
(2007/11/4執筆)
監督:アダム・シャンクマン
巻き込む。
少し太めのトレーシー(ニッキー・ブロンスキー)は午後にあるダンス番組に夢中の女の子。
ある日番組のダンサーが一人「9ヶ月ほど休養」することになる。
ダンサーのオーディションがあることを知ったトレーシーは、母親エドナ(ジョン・トラボルタ)が止めるのも聞かずに、オーディションを受ける。
プロデューサーのベルマ(ミシェル・ファイファー)によって落とされ、ショックを受けるトレーシーだったが、番組の人気イケメン・ダンサーのリンク(ザック・エフロン)にダンスの才覚を見いだされ、番組に大抜擢される。
ダンスコンテスト「ミスヘアスプレー」を狙う、ベルマの娘アンバー(ブリタニー・スノウ)からの執拗な嫌がらせにもめげずに踊り続けるのだが……
「シカゴ」のプロデューサーが本作でも製作を担当している。
久々の本格ミュージカル映画作品という感じだ。
「シカゴ」ではまって以来、ミュージカル映画に抵抗感がなくなった。
同じスタッフが手がけていることもあり、僕としては期待のハードルを高くしてしまった気がする。
もっと脳天気な映画だと思っていたが、じつは人種差別まで踏み込んでいる。
重い話が苦手な人でも十分楽しめるが、全くの予備知識なしだと、少しとまどうかもしれない。
とにかくどんな見せ場、ダンス、歌よりも際だっているのは主人公のお母さん役の俳優だ。
「彼女」を見に行くだけでも1800円の価値はあるはずだ。
▼以下はネタバレあり▼
話のテーマは非常にわかりやすく、情熱的だ。
「シカゴ」のようなブラックさはなく、こちらのほうがより楽しみやすい物語になっている。
かといって、子供向けのような骨抜きのミュージカルでもない。
老若男女楽しめるように工夫されているところが、さすがヒットメーカーだ。
ちなみにこの映画はアメリカで公演されていたミュージカルを原作としている。
そのため、舞台との違いを楽しむというコアな楽しみ方もできる。
とにかく「間口が広い」ということがこの映画の最大の魅力かもしれない。
間口が広いことと、物語のテーマは無関係ではない。
この映画のテーマは、何度も劇中で歌われるように「壁を乗り越える」ということだ。
つまり、今まであった垣根を取り去っていくということ。
それは人種であり、体格であり、偏見であり、世代差であったりする。
とにかく、そうした今までは大きく見えた壁を取り去っていくことが、この映画の中心的な話題になっている。
人種差別を中心に描きながらも、笑える体型(化粧?)をしているコミカルさや、人種差別以外の「垣根」を様々に描くことにより、社会的問題であるという「重さ」を払拭している。
そのため、深い話、重い話でありながらも、様々な人に共感できるようなお気楽さも持ち合わせている。
それはミュージカル映画の肝である、楽曲にも反映されている。
気づいた人は多いだろう。
ダンスが始まるとき、多くの場合、見る者とダンスする者という二役をシークエンスのなかで設定している。
黒人の居残り学級に行く主人公は、黒人達のイカしたダンス(死語)を、ただ見るだけである。
だが、彼らのダンスに触発されて、自分まで踊るように巻き込まれる。
黒人街にいる娘を発見したトラボルタも同じだ。
こんな街にいるなんてと思っていたが、ダンスの魅力に飲み込まれ、やがて自分も踊る側に巻き込まれていくのだ。
この波は、人種差別をなくそうとする時代の波でもあり、ダンスを楽しみたいという若い世代の情熱でもある。
見事にテーマとダンスがマッチしているのだ。
だからこそ、ダンスのカタルシスは大きく、そして楽しい。
もちろん、この見る側から踊る側への転換は、映画を観る側から、映画に参加する(映画の考えを現実に反映する)側へという転換でもある。
観る者に勇気を与え、かつ楽しめるこの映画は、非常に巧みに仕組まれているのである。
だが、この映画、僕は期待していたよりも楽しめなかった。
その理由をいくつか列挙してみよう。
1 ダンスに表情がない。
映画のテーマが非常にしっかりして、揺るぎないものになっている。
観ている者はだから安心して楽しめるのだが、逆に劇中の楽曲を乏しく、表情のない者にしてしまっている。
つまり、「垣根を越える」というテーマ以外の楽曲があまりに少ないのだ。
だから、正直、飽きる。
歌い手が変化していくものの、大きくはテーマからぶれない。
ミシェル・ファイファーくらいなものだ。
それも、相手を誘惑する=相手を自分に引き込む、という意味では同じ色を備えている。
「シカゴ」では様々な表情を見せた楽曲が魅力だったので、僕としては少々がっかりだ。
2 キャラクター設定が甘すぎる。
人種差別をテーマとしていながら、お気楽だと追わせるところが目立つ。
楽曲やキャラクターに救われている部分もあるが、それにしても、あまりにもお気楽だと思わせるほど、設定が緩い。
特に相手役のリンク。
彼の役所は「人種差別を超える」という意味においても、重要だった。
彼が偏見を超えることは、観ている観客が偏見を超えるということに他ならないからだ。
それ故に、彼の内面をもっと上手に描いておかなければ、なかなか「壁」が明確にならない。
「僕は見た目ばかりを気にしていて 中身はからっぽだった」と歌うが、それが顕著であるような言動を事前に伏線として見せておかなければ、それが氷解する様子があまりわからない。
だからすっきりと落ちないのだ。
白人金髪女性の代表(?)のミシェル・ファイファーがあまりに強烈なため、かすんでしまったのもあるが、リンクの役所はもっとクローズアップしてもよかった気がする。
3 最後まで「巻き込む」べきだった。
リンクの役所が重要になってしまったのは、彼だけのせいではない。
結果的に、彼が見る者から踊る者への転換をみせるのが、この映画のターニングポイントになっているからだ。
映画全体でいえば、彼が最大の見せ場ではなく、諸悪の根源のようなミシェル・ファイファーが最大の見せ場であるべきだった。
しかし、彼女は最後の最後まで「巻き込ま」れない。
最後まで悪役を演じきってしまう。
だから、根本の偏見は取り除かれずに残ってしまう。
そこがこの映画の最大のリアリティではあるものの、カタルシスは明らかに減退してしまう。
ハリウッド映画の王道のようなラストではある。
だが、すごく後味のわるい映画に感じてしまうのは、「もう(今更)止まらない!」のが偏見であるようなブラックなメッセージを観客が受け取ってしまうからではないか。
それにしても、公開当日に行ったのに、1割も観客が入っていなかった。
トラボルタの登場シーンで笑う者は僕しかいない。
何か悲しいね。
(2007/11/4執筆)
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