評価点:78点/2008年/アメリカ・ドイツ
監督:スティーヴン・ダルドリー
ハンナの決断の理由は?
1958年、15歳のマイケル(デヴィッド・クロス)は、ある日気分が悪くなり、路面電車を途中下車する。
路地で吐いているところを女性に助けられる。
結局数ヶ月療養することになったマイケルは、その女性に礼を言うために再びそのアパートを訪れる。
再会を果たしたマイケルは、その女性ハンナ(ケイト・ウィンスレット)と結ばれてしまう。
一夏の間、二人の関係は続くが、ある日突然ハンナは彼の前から姿を消す。
「朗読者」の映画化作品。
原題は「ザ・リーダー」であり、邦題の「愛を読む人」というのはどこか違和感がある。
どこかの頭の悪いラブ・コメディーのようなタイトルだが、実際にはもっと重たい。
公開当時ももしかしたら、間違えて見に行って面を食らった人もいるかもしれない。
第二次世界大戦を背後にしながら物語は展開していく。
決して明るい話ではなく、また胸がすっとするような話でもない。
好き嫌いが分かれてしまいそうな映画だが、是非多くの人に見てもらいたい、そんな映画だ。
ちょっとエロいけれども。
▼以下はネタバレあり▼
僕は原作を読んでから見た。
そのため、やはり、どうしても比較しながら見ていたことは否めない。
書き始める前に、それは断っておこう。
文盲(もんもう)と呼ばれる人がいる。
先天性のものと後天性のものがあるのだが、どちらにしても、文字を頭の中で処理できないという障害だ。
劇中ではただ教育を受けられなかったかのような印象も受けるが、原作を読んでみればわかるだろう。
彼女は文字をつづれない人間だった。
おそらく彼女は後に克服しようとしたことから、先天的に文盲だったのだろう。
文盲の人がそれを克服することがどれくらい大変なことなのだろう。
僕にはわからない。
彼女の苦難の大きさが、すべてマイケルの愛へと変換できるとすれば、多少なりともはかり知ることができるだろう。
この映画は様々な要素を切り出すことができる。
恋愛映画でもあり、戦争映画でもあり、父娘の映画でもある。
先にも触れた、障害者の映画でもある。
もちろん、それをひっくるめて人間を描いた〈真実〉の映画である。
この映画を語る上で逃げられない問題は、なぜ彼女が獄中自殺をしてしまうのか、という点だ。
この疑問を触れずにはこの映画は読み解けない。
よってこの批評もそこに集約させるように論を進めよう。
物語は「語り」によって展開していく。
具体的なナレーションにあたることばは殆どないが、ラストでマイケルの娘に語るシーンによって、この物語がマイケルによる語るという形式で綴られたものであることが明かされる。
これは日本文学でもある夏目漱石の「こころ」や森鴎外の「舞姫」などと同じ構造である。
円環性の語りの構造である。
物語はいきなり過去の回想からスタートする。
だが、この回想は、現在のマイケルと娘の関係に齟齬をきたしていて、その関係修復の契機として語られたものであることが、ラストで明かされる。
語り終わった時点が、語り始める契機へと繋がる、円を描くような構造をもっている。
娘との関係性は原作にない。
現在を彷彿とさせる言説はあるものの、ここまで明確に描かれてはいなかった。
その意味でも、この構造は重要であると思われる。
語るという形式を持たせるということは、語られる物語そのものだけではなく、語る側にも語ることそのものの意味を帯びてくる。
つまり、何かを誰かに語ることは、語る人自身に語ることで何かをもたらすはずである。
そうでなければ、わざわざ語る人を登場させる意図がないからだ。
だからこそ、この映画の主題を読み解くとき、あるいは物語のキーポイントである「なぜハンナは自殺したのか」を考えるとき、無視できないのだ。
現在のマイケル(レイフ・ファインズ)の状況をできる限り確認しておこう。
裁判官となったマイケルは、妻との間に一子設ける。
しかし、ほどなく離婚し、娘とは定期的にしか会えない状況が続いていたようだ。
また、娘は最近海外に住んでいて、帰ってくる。
再会を果たした娘は、自分と父親(マイケル)との間にずっとわだかまりがあり、その理由が自分自身にあるのではないかと考えていたことを告白する。
劇中では明かされないが、おそらく衝動的に海外に行ったのも、父親との関係を見つめ直すためだったのだろうと僕は読んだ。
深読みかも知れないが、そこまで娘にとって根本的な問題だったのではないだろうか。
マイケルは、その疑問をきっぱりと否定し、娘をハンナが眠る墓に連れて行き、昔話を始める。
なぜマイケルは娘に距離を感じさせるような態度をとっていたのだろうか。
それとハンナとのやりとりはどのような関係があるのだろうか。
それはきっと原作を読んでいなかった人にも読み取れたはずだ。
答えは単純だ。
ハンナのことをいつまでも愛していたからだ。
僕はこの映画を観ながら、今年見た「17歳の肖像」を思い出していた。
彼女も、マイケルと同様、若い頃に負った「火傷」をいつまでも癒せずに大人になっていく。
自分と周りを偽りながら、「普通」を演じ続けて生きていく。
マイケルも同様、15歳の夏に過ごしたハンナとの思い出を忘れることができない。
それは、性欲と無関係だったとは言えないだろう。
だが、性欲だけだったとも言えないだろう。
それほど彼にとっては絶対的な存在であり、忘れられない火傷を負わせたのだ。
もしかしたら、それが一年以上続いた関係ならば、そこまでの鮮烈さを残さなかったのかも知れない。
だが、彼にとっては突然消えた彼女の理由も、事情も、全くわからなかった。
法律家になったとしても、それは変わらなかった。
ハンナから勉強しなさい(劇中原作であった唯一の取りこぼしはこの言葉だったと僕は思う)ということばを受けて、必死に勉学に励んでもハンナは帰ってこなかった。
だから、誰も他に愛することができなかった。
「ブロークバック・マウンテン」のヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールとの関係と同じだ。
他なんていう選択肢はないし、心を焼くほどの愛は、もはや見いだしようもない。
娘を愛することができないのは、娘のせいではない。
彼は誰も愛することができなくなってしまったのだ。
その奇妙な愛は、定職に就いてから一心不乱にハンナに朗読したテープを送り続けたことにも象徴されている。
だが、彼は彼女に会いに行こうとはしなかった。
彼女に気を遣ったのかも知れない。
僕は違うと思う。
自分の中にある強く、優しく、そして謎の多い女性ハンナという理想像を壊したくなかったのだ。
マイケルはすでに知っている。
ハンナという女性が、文盲という悲しみを抱えながら生きていた、罪深い生身の人間であることを。
会おうと思えば会える距離にいたのかも知れない。
けれども、マイケルが必死になって朗読していた相手は、監獄にいるハンナではない。
15歳のときに出会った、あのハンナなのである。
だからこそ、会えなかったのだ。
なぜなら、そのテープの行き先は、監獄ではなかったからだ。
ハンナにしても同様だ。
どんな罪が横たわっていたとしても、彼女は文盲であることを隠しながら生きてきて、ようやく生きる場所を見つけた。
それが、マイケルの隣であり、マイケルが朗読するその声を聴く場所である。
それは文盲であることをさらけ出し、すでに初老になってしまった自分をマイケルの前に差し出すことはできなかった。
2人の関係はいまだにあの時のままだ。
公判中、文盲であることを告げようとしたマイケルは、面会に呼び出したにもかかわらず、結局面会しなかった。
文盲であることを自分が告げることは、ハンナを現実に引き戻すことであり、自分が愛していた過去を葬ることと同義だ。
出所直前、再会を果たした時、ハンナは「坊や」と呼びかけた。
彼女にとってマイケルは、どれだけ時が経っても成人男性ではなかった。
ハンナはなぜ自殺したのか。
文学的に言うなら、「彼女の寿命はそこで尽きたから」である。
もう少し無機質に言うなら、「マイケルとの距離感を失った彼女はもはや生きていけないから」である。
彼女は死ななければならなかった。
その糸はおそらく出所直前に再会した時に切れてしまったのだろう。
マイケルとすぐにでも会える距離で余生を送ることは、ほとんど拷問に近い。
お互いが時間を「空費」してしまったことを突きつけられ続けるのだ。
それは、殺してしまったユダヤ人が呪いをかけてきたかのような強烈なものだ。
彼女が生きていけるはずはない。
この映画を観ていて嬉しかったのは、そうした重さを正しく映像化していると感じたことだ。
正しくというのは語弊がある。
僕にとっての原作にあった雰囲気と、映像化されたテーマがかなりの部分一致していたからだ。
これはなかなかできないことだ。
だからこそ、邦題だけが悔やまれる。
気になる点もないではない。
やはり言語は英語で良いのかという疑問がぬぐえない。
かといって、ドイツ語ならそれでいいのかという問題でもないが。
この辺りの感覚は、ドイツ人に聞いてみないとわからないのかもしれない。
監督:スティーヴン・ダルドリー
ハンナの決断の理由は?
1958年、15歳のマイケル(デヴィッド・クロス)は、ある日気分が悪くなり、路面電車を途中下車する。
路地で吐いているところを女性に助けられる。
結局数ヶ月療養することになったマイケルは、その女性に礼を言うために再びそのアパートを訪れる。
再会を果たしたマイケルは、その女性ハンナ(ケイト・ウィンスレット)と結ばれてしまう。
一夏の間、二人の関係は続くが、ある日突然ハンナは彼の前から姿を消す。
「朗読者」の映画化作品。
原題は「ザ・リーダー」であり、邦題の「愛を読む人」というのはどこか違和感がある。
どこかの頭の悪いラブ・コメディーのようなタイトルだが、実際にはもっと重たい。
公開当時ももしかしたら、間違えて見に行って面を食らった人もいるかもしれない。
第二次世界大戦を背後にしながら物語は展開していく。
決して明るい話ではなく、また胸がすっとするような話でもない。
好き嫌いが分かれてしまいそうな映画だが、是非多くの人に見てもらいたい、そんな映画だ。
ちょっとエロいけれども。
▼以下はネタバレあり▼
僕は原作を読んでから見た。
そのため、やはり、どうしても比較しながら見ていたことは否めない。
書き始める前に、それは断っておこう。
文盲(もんもう)と呼ばれる人がいる。
先天性のものと後天性のものがあるのだが、どちらにしても、文字を頭の中で処理できないという障害だ。
劇中ではただ教育を受けられなかったかのような印象も受けるが、原作を読んでみればわかるだろう。
彼女は文字をつづれない人間だった。
おそらく彼女は後に克服しようとしたことから、先天的に文盲だったのだろう。
文盲の人がそれを克服することがどれくらい大変なことなのだろう。
僕にはわからない。
彼女の苦難の大きさが、すべてマイケルの愛へと変換できるとすれば、多少なりともはかり知ることができるだろう。
この映画は様々な要素を切り出すことができる。
恋愛映画でもあり、戦争映画でもあり、父娘の映画でもある。
先にも触れた、障害者の映画でもある。
もちろん、それをひっくるめて人間を描いた〈真実〉の映画である。
この映画を語る上で逃げられない問題は、なぜ彼女が獄中自殺をしてしまうのか、という点だ。
この疑問を触れずにはこの映画は読み解けない。
よってこの批評もそこに集約させるように論を進めよう。
物語は「語り」によって展開していく。
具体的なナレーションにあたることばは殆どないが、ラストでマイケルの娘に語るシーンによって、この物語がマイケルによる語るという形式で綴られたものであることが明かされる。
これは日本文学でもある夏目漱石の「こころ」や森鴎外の「舞姫」などと同じ構造である。
円環性の語りの構造である。
物語はいきなり過去の回想からスタートする。
だが、この回想は、現在のマイケルと娘の関係に齟齬をきたしていて、その関係修復の契機として語られたものであることが、ラストで明かされる。
語り終わった時点が、語り始める契機へと繋がる、円を描くような構造をもっている。
娘との関係性は原作にない。
現在を彷彿とさせる言説はあるものの、ここまで明確に描かれてはいなかった。
その意味でも、この構造は重要であると思われる。
語るという形式を持たせるということは、語られる物語そのものだけではなく、語る側にも語ることそのものの意味を帯びてくる。
つまり、何かを誰かに語ることは、語る人自身に語ることで何かをもたらすはずである。
そうでなければ、わざわざ語る人を登場させる意図がないからだ。
だからこそ、この映画の主題を読み解くとき、あるいは物語のキーポイントである「なぜハンナは自殺したのか」を考えるとき、無視できないのだ。
現在のマイケル(レイフ・ファインズ)の状況をできる限り確認しておこう。
裁判官となったマイケルは、妻との間に一子設ける。
しかし、ほどなく離婚し、娘とは定期的にしか会えない状況が続いていたようだ。
また、娘は最近海外に住んでいて、帰ってくる。
再会を果たした娘は、自分と父親(マイケル)との間にずっとわだかまりがあり、その理由が自分自身にあるのではないかと考えていたことを告白する。
劇中では明かされないが、おそらく衝動的に海外に行ったのも、父親との関係を見つめ直すためだったのだろうと僕は読んだ。
深読みかも知れないが、そこまで娘にとって根本的な問題だったのではないだろうか。
マイケルは、その疑問をきっぱりと否定し、娘をハンナが眠る墓に連れて行き、昔話を始める。
なぜマイケルは娘に距離を感じさせるような態度をとっていたのだろうか。
それとハンナとのやりとりはどのような関係があるのだろうか。
それはきっと原作を読んでいなかった人にも読み取れたはずだ。
答えは単純だ。
ハンナのことをいつまでも愛していたからだ。
僕はこの映画を観ながら、今年見た「17歳の肖像」を思い出していた。
彼女も、マイケルと同様、若い頃に負った「火傷」をいつまでも癒せずに大人になっていく。
自分と周りを偽りながら、「普通」を演じ続けて生きていく。
マイケルも同様、15歳の夏に過ごしたハンナとの思い出を忘れることができない。
それは、性欲と無関係だったとは言えないだろう。
だが、性欲だけだったとも言えないだろう。
それほど彼にとっては絶対的な存在であり、忘れられない火傷を負わせたのだ。
もしかしたら、それが一年以上続いた関係ならば、そこまでの鮮烈さを残さなかったのかも知れない。
だが、彼にとっては突然消えた彼女の理由も、事情も、全くわからなかった。
法律家になったとしても、それは変わらなかった。
ハンナから勉強しなさい(劇中原作であった唯一の取りこぼしはこの言葉だったと僕は思う)ということばを受けて、必死に勉学に励んでもハンナは帰ってこなかった。
だから、誰も他に愛することができなかった。
「ブロークバック・マウンテン」のヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールとの関係と同じだ。
他なんていう選択肢はないし、心を焼くほどの愛は、もはや見いだしようもない。
娘を愛することができないのは、娘のせいではない。
彼は誰も愛することができなくなってしまったのだ。
その奇妙な愛は、定職に就いてから一心不乱にハンナに朗読したテープを送り続けたことにも象徴されている。
だが、彼は彼女に会いに行こうとはしなかった。
彼女に気を遣ったのかも知れない。
僕は違うと思う。
自分の中にある強く、優しく、そして謎の多い女性ハンナという理想像を壊したくなかったのだ。
マイケルはすでに知っている。
ハンナという女性が、文盲という悲しみを抱えながら生きていた、罪深い生身の人間であることを。
会おうと思えば会える距離にいたのかも知れない。
けれども、マイケルが必死になって朗読していた相手は、監獄にいるハンナではない。
15歳のときに出会った、あのハンナなのである。
だからこそ、会えなかったのだ。
なぜなら、そのテープの行き先は、監獄ではなかったからだ。
ハンナにしても同様だ。
どんな罪が横たわっていたとしても、彼女は文盲であることを隠しながら生きてきて、ようやく生きる場所を見つけた。
それが、マイケルの隣であり、マイケルが朗読するその声を聴く場所である。
それは文盲であることをさらけ出し、すでに初老になってしまった自分をマイケルの前に差し出すことはできなかった。
2人の関係はいまだにあの時のままだ。
公判中、文盲であることを告げようとしたマイケルは、面会に呼び出したにもかかわらず、結局面会しなかった。
文盲であることを自分が告げることは、ハンナを現実に引き戻すことであり、自分が愛していた過去を葬ることと同義だ。
出所直前、再会を果たした時、ハンナは「坊や」と呼びかけた。
彼女にとってマイケルは、どれだけ時が経っても成人男性ではなかった。
ハンナはなぜ自殺したのか。
文学的に言うなら、「彼女の寿命はそこで尽きたから」である。
もう少し無機質に言うなら、「マイケルとの距離感を失った彼女はもはや生きていけないから」である。
彼女は死ななければならなかった。
その糸はおそらく出所直前に再会した時に切れてしまったのだろう。
マイケルとすぐにでも会える距離で余生を送ることは、ほとんど拷問に近い。
お互いが時間を「空費」してしまったことを突きつけられ続けるのだ。
それは、殺してしまったユダヤ人が呪いをかけてきたかのような強烈なものだ。
彼女が生きていけるはずはない。
この映画を観ていて嬉しかったのは、そうした重さを正しく映像化していると感じたことだ。
正しくというのは語弊がある。
僕にとっての原作にあった雰囲気と、映像化されたテーマがかなりの部分一致していたからだ。
これはなかなかできないことだ。
だからこそ、邦題だけが悔やまれる。
気になる点もないではない。
やはり言語は英語で良いのかという疑問がぬぐえない。
かといって、ドイツ語ならそれでいいのかという問題でもないが。
この辺りの感覚は、ドイツ人に聞いてみないとわからないのかもしれない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます