評価点:32点/2010年/アメリカ/98分
監督:トニー・スコット
レールの上から一歩も出ない、出来レース。
この話は実話に基づいている。
ペンシルベニア州から発車したディーゼルエンジンで動く列車がポイントの切り替えミスにより暴走しはじめた。
自然に止まるだろうと予想されたはずが、力行し、加速している。
なんとその貨物列車には大量の燃料と、可燃性の燃料が積まれていた。
脱線させてしまうしか方法はないと踏んだコニー・フーパー(ロザリオ・ドーソン)は責任者に詰め寄るが、会社の答えはNO。
車両の前に別の列車を連結させて減速を試みるが……。
デンゼル・ワシントン主演のアクション映画。
実話に基づいているらしいが、そんなことはどうでもよい。
単なるアクション映画として見れば、十分である。
上にも書いたが、予告編を見れば十分この話の流れとオチを予想できる。
そこから全く一歩もはみ出すことはないだろう。
安定感のあるトニー・スコットのことだから、期待を裏切られることもない。
本当にレールの上をずっと進んでいくような安心感と安定感、そしてそれなりの興奮を味わうことができる。
見るものがないなあ、という時にぜひどうぞ。
▼以下はネタバレあり▼
実話に基づいているらしい。
けれども、日本に住んでいる僕にとってそんなことはどうでもよいのだ。
ディーゼルエンジンで走る列車も、貨物列車そのものもほとんど見かけない日本にいる僕にとって、この映画は完全に「作られたもの」として見るよりほかなかった。
列車なので当然レールを走るわけで、暴走した列車が止まるか、脱線するか、衝突して爆発するかその程度しか結末は想定できない。
そしてこれが本当に実話であるならば、脱線したり、衝突したりするわけがないのだ。
いわば「127時間」と同様の「結末ありき」の物語である。
これを処理するのが、数々のアクション映画を撮り続けてきたトニー・スコット。
この人選は間違っていなかっただろう。
さすがに安定感ある「ハラハラ」感を出してくれた。
この映画にも社会的なコードがある。
会社をもうすぐ解雇されるベテラン運転士と、新米の運転士。
日本以上に残酷な首切りが行なわれるアメリカでは不思議なことではない。
安い賃金で働いてもらうためにはベテランは早期退職させたほうが、人件費が浮く。
この映画の一つには「経験」への信仰がある。
それはとりもなおさず、人間への信仰といってもいいだろう。
何度も繰り返される会社とコニーとのやりとりは、一労働者の弱者と利益優先の大企業との対立がある。
これも使い古された構造である。
結局この映画に感情移入できる人間は、人間疎外に苦しむ一般庶民であるということだろう。
機械が暴走してしまうという怖さと、それを止める(操る)のは人間しかいないというテーゼだ。
もっと言えば、それを扱っているのは大企業の社長ではなく、現場の泥臭い仕事をする労働者なのだ、というテーゼだ。
また、二人の運転士の個人的事情もアメリカの現代事情をはらんでいる。
離婚ということが日常茶飯事になったアメリカでは、あらゆることが離婚へと発展する。
ウィルの置かれた現状は、日本に住んでいると以上に映るが、アメリカの現実なのだろう。
一つの映画に多くの社会的要素を組み込もうとするのは、アメリカ映画ならではである。
どこかの「相棒」とかいうムダに時事問題を取り入れようとする日本映画とはひと味違う。
陳腐であるという意味では共通しているわけだが。
しかし、問題は僕にとってそんなことはどうでもよいということだ。
ミサイル化した貨物列車が暴走する。
どうしてもそのシチュエーションに感情移入できなかった。
しかも、次々と明かされる二人の運転士の個人的事情が余計に拍車をかける。
妹へのメールをとがめて離婚?
そんなどうでもよい個人的情報を明かされても、感情移入はできない。
その妻が事件が起こったことを知って、寄りを戻そうと心配する。
「そんな馬鹿な、離婚騒動はそんなことで解決されるのか」と目を疑った。
映画としてはそうならざるを得ないのは理解できるが、妻の行動に納得できない。
むしろ嫌悪感さえ覚える。
僕なら、絶対に別れるべきだとアドヴァイスしてやるだろう。
なぜこの映画の企画を止められなかったのだろう。
それこそ「アンストッパブル」だったのだろうか。
こんな意外性のないアクション映画、観てしまった自分に後悔である。
それを同僚に言うと、「そんなんわかっててなんでみるん? 私やったら絶対みいひんわ」
はい、仰るとおりです。
でもね、そういう映画をけなすのが、僕は結構好きなんです……。とほほ。
監督:トニー・スコット
レールの上から一歩も出ない、出来レース。
この話は実話に基づいている。
ペンシルベニア州から発車したディーゼルエンジンで動く列車がポイントの切り替えミスにより暴走しはじめた。
自然に止まるだろうと予想されたはずが、力行し、加速している。
なんとその貨物列車には大量の燃料と、可燃性の燃料が積まれていた。
脱線させてしまうしか方法はないと踏んだコニー・フーパー(ロザリオ・ドーソン)は責任者に詰め寄るが、会社の答えはNO。
車両の前に別の列車を連結させて減速を試みるが……。
デンゼル・ワシントン主演のアクション映画。
実話に基づいているらしいが、そんなことはどうでもよい。
単なるアクション映画として見れば、十分である。
上にも書いたが、予告編を見れば十分この話の流れとオチを予想できる。
そこから全く一歩もはみ出すことはないだろう。
安定感のあるトニー・スコットのことだから、期待を裏切られることもない。
本当にレールの上をずっと進んでいくような安心感と安定感、そしてそれなりの興奮を味わうことができる。
見るものがないなあ、という時にぜひどうぞ。
▼以下はネタバレあり▼
実話に基づいているらしい。
けれども、日本に住んでいる僕にとってそんなことはどうでもよいのだ。
ディーゼルエンジンで走る列車も、貨物列車そのものもほとんど見かけない日本にいる僕にとって、この映画は完全に「作られたもの」として見るよりほかなかった。
列車なので当然レールを走るわけで、暴走した列車が止まるか、脱線するか、衝突して爆発するかその程度しか結末は想定できない。
そしてこれが本当に実話であるならば、脱線したり、衝突したりするわけがないのだ。
いわば「127時間」と同様の「結末ありき」の物語である。
これを処理するのが、数々のアクション映画を撮り続けてきたトニー・スコット。
この人選は間違っていなかっただろう。
さすがに安定感ある「ハラハラ」感を出してくれた。
この映画にも社会的なコードがある。
会社をもうすぐ解雇されるベテラン運転士と、新米の運転士。
日本以上に残酷な首切りが行なわれるアメリカでは不思議なことではない。
安い賃金で働いてもらうためにはベテランは早期退職させたほうが、人件費が浮く。
この映画の一つには「経験」への信仰がある。
それはとりもなおさず、人間への信仰といってもいいだろう。
何度も繰り返される会社とコニーとのやりとりは、一労働者の弱者と利益優先の大企業との対立がある。
これも使い古された構造である。
結局この映画に感情移入できる人間は、人間疎外に苦しむ一般庶民であるということだろう。
機械が暴走してしまうという怖さと、それを止める(操る)のは人間しかいないというテーゼだ。
もっと言えば、それを扱っているのは大企業の社長ではなく、現場の泥臭い仕事をする労働者なのだ、というテーゼだ。
また、二人の運転士の個人的事情もアメリカの現代事情をはらんでいる。
離婚ということが日常茶飯事になったアメリカでは、あらゆることが離婚へと発展する。
ウィルの置かれた現状は、日本に住んでいると以上に映るが、アメリカの現実なのだろう。
一つの映画に多くの社会的要素を組み込もうとするのは、アメリカ映画ならではである。
どこかの「相棒」とかいうムダに時事問題を取り入れようとする日本映画とはひと味違う。
陳腐であるという意味では共通しているわけだが。
しかし、問題は僕にとってそんなことはどうでもよいということだ。
ミサイル化した貨物列車が暴走する。
どうしてもそのシチュエーションに感情移入できなかった。
しかも、次々と明かされる二人の運転士の個人的事情が余計に拍車をかける。
妹へのメールをとがめて離婚?
そんなどうでもよい個人的情報を明かされても、感情移入はできない。
その妻が事件が起こったことを知って、寄りを戻そうと心配する。
「そんな馬鹿な、離婚騒動はそんなことで解決されるのか」と目を疑った。
映画としてはそうならざるを得ないのは理解できるが、妻の行動に納得できない。
むしろ嫌悪感さえ覚える。
僕なら、絶対に別れるべきだとアドヴァイスしてやるだろう。
なぜこの映画の企画を止められなかったのだろう。
それこそ「アンストッパブル」だったのだろうか。
こんな意外性のないアクション映画、観てしまった自分に後悔である。
それを同僚に言うと、「そんなんわかっててなんでみるん? 私やったら絶対みいひんわ」
はい、仰るとおりです。
でもね、そういう映画をけなすのが、僕は結構好きなんです……。とほほ。
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