評価点:82点/2010年/中国/98分
監督・脚本:シュエ・シャオルー
親の愛を知りながら生きている子どもがどれくらいいるのだろうか。
自閉症の息子大福(ターフ―、ウェン・ジャン)をもつ父親王心誠(ワンシンチョン、ジェット・リー)。
彼は息子を海を連れて行き、自殺を図ろうとする。
彼は末期の肝臓癌で、彼の面倒を見ることができなくなってしまったからだ。
かつてお世話になった児童福祉施設を訪ねるが、21歳になった大福を引き取ってくれるところはない。
途方に暮れながらも、彼は息子になんとか自立した生活ができるように、生活の知恵を教えていく。
このブログに書き込みがあったことでこの映画の存在を知った。
自閉症ということばと、ジェット・リーという役者以外にほとんど前評判も知らずに見にいった。
これも何かの縁だろうということで。
ちなみに、そのサイトはこちら。
平日にたまたま休めたので、水曜日、単館上映の映画館に行くとほぼ満員の状態だった。
1000円サービスデーだったからなのかもしれない。
とにかく年配の観客が多かった。
ちょっと意外だったので、驚いた。
彼らがどのようにこの映画を観たのか、少し知りたくなった。
おそらくほとんどの地域ではもう観られる時間帯での公開は終了しているだろう。
見られた人はラッキーかもしれない。
観る機会があるなら、ぜひ観てほしい。
▼以下はネタバレあり▼
やられた、というのが僕の印象だった。
自閉症の息子、男手一人で育てる、このキーワードを聞けば誰もが「お涙頂戴系」ドラマであることを想起するだろう。
あるいは観客が多かったのは、そのためかもしれない。
間違えて韓流と思ってチケットを購入した人もいるかもしれないけれど。
(それくらい年配の人ばかりだった。失敬。)
先にも書いたけれど、期待していたわけではなかった。
だからこそかえって心を突かれたのかもしれない。
号泣してしまった。
一人でまさかそんなに泣くとは思っていなかったので、ちょっと恥ずかしかったが、止めることができなかった。
物語は衝撃的なシーンからスタートする。
おもりをくくりつけた二人の親子が船から身を投げる。
あまりにも淡々として悲壮な素振りもないので、それが心中であることがわかるまで時間がかかる。
物語は「命を落とし損ねる」ところからはじまるのだ。
この冒頭に象徴されるように、この映画にはほとんど説明的な描写や台詞がない。
なぜ死のうとしているのか、しばらくわからないし、二人がどんな環境にあるのかもあまり説明されない。
その意味では、映画らしくない映画かもしれない。
ハリウッドなら、日本映画なら、もっと説明的にもっとわかりやすく描くだろう。
それがかえってくどい演出になってしまうのだろう。
行動の連続と、台詞の連続。
淡々と物語が進行していくうちに、父親の王がいかに苦労しているか、いかに息子を愛しているかがうかがいしれるようになってくる。
そのころには、王に完全に感情移入してしまっているだろう。
教えても教えてもうまくいかない、けれども自分には時間がない。
受け入れ先を探しても、どこもひきとってくれない。
やっと見つかっても、息子はうまく適合できない。
もどかしいと思いながら、この先どうやって息子は生きていくのか、不安でしかたがない。
この映画のうまさは、実は視点となる人物が転換することにある。
大福は鈴鈴と出会い、父親以外の人間と心を交わすようになっていく。
それは単純な成長や恋ではないだろう。
けれども、彼の世界が広がったことを示す。
そして同時に、その出会いは父親があずかり知らぬところで起こる、大福だけの秘密となる。
観客は、完全に父親の王に感情移入しながらも、同時に大福にも感情移入しはじめていく。
父親はこんな行動をしはじめる。
「亀だ、俺は亀だ、一緒に泳ごう。」と水族館の水槽で大福とともに泳ぐのだ。
この行動は一見するとその意図が見えない。
泳げないのに、体力も衰えているのに、必死になって「教えたいこと」が亀の格好をして一緒に泳ぐことだった。
その行動が解せない水族館の館長も疑問を呈する。
「私には妻が海で死んだとは思えないんです。」
その次のカットである。
父親が死んでしまったことを、小さい骨壺にある写真で示される。
父親が死んでしまう場面さえ、この映画は見せないのだ。
なぜなのか。
このシークエンスから視点が大福へと完全に移行するからだ。
大福は父親が死んでしまったことさえ気づかずに生きていくのだ。
僕はこの父親の骨壺のカットを見た瞬間、涙が止まらなかった。
父親から息子へというこの見事な視点の転換に、揺さぶられたからだ。
僕が頭によぎったのはこういうことだった。
「僕はどれほど父親の愛を知りながらこれまで生きてきただろうか」
「あるいは僕たちは自閉症の大福と同じように、父親が死んだことさえ気づかずに生きているのではないだろうか」
完全に大福に視点が移動したことで、父親が残そうと必死にあがいていたことに気づくのだ。
それは、「いつもそばにいるよ」ということだった。
亀になって必死に伝えたかったこと。
それは「もうすぐ死ぬから自律しなさい」ということではなかった。
「いなくなっても、ずっと見守っているから」ということを伝えたかったのだ。
自閉症患者である息子の大福は、そんなことを気づかずに生きていくだろう。
鈴鈴とどのような関係に発展するだろうか。
清掃員として働きつづけられるかどうかも、わからない。
民間の保護施設もいつ閉鎖になってもおかしくないだろう。
もしかしたら、無責任に閉鎖してしまって、大福は路頭に迷うかも知れない。
事態はそれほど明るい結末ではない。
彼が自閉症を乗り越える日は、きっとこない。
自閉症という病気は、そんなに無邪気なものではないからだ。
けれども、大福は父親の愛の中でずっと生きていくだろう。
父親が死んでしまったかどうかなんて、もはやどうでもよいのだ。
なぜなら、僕にはまだ父親がいてくれているが、父親の愛をその息子がどれほど感じているかということは、普遍的だからだ。
おそらく誰もがわかっていないだろう。
僕たちはその意味で、自閉症患者と同じく、「自分の世界だけで生きている」のだ。
僕たちは知らない間に、親の愛を受け続けているのだ。
たとえ親が生きていても、死んでいても。
そのことを見事に視点の転換でみせてしまった。
下手な映画なら、父親の死をこれでもかというほど見せつけただろう。
どこで、どんなふうに、
どんな表情で死んでいくのか、克明に「説明」してくれたかもいれない。
ハリウッド映画や日本映画なら、間違いなくそうしていたはずだ。
しかし、この監督はそんな野暮なことはしない。
日本が大きな悲しみに包まれているこの時期だからこそ、この映画に打たれたのかもしれない。
監督・脚本:シュエ・シャオルー
親の愛を知りながら生きている子どもがどれくらいいるのだろうか。
自閉症の息子大福(ターフ―、ウェン・ジャン)をもつ父親王心誠(ワンシンチョン、ジェット・リー)。
彼は息子を海を連れて行き、自殺を図ろうとする。
彼は末期の肝臓癌で、彼の面倒を見ることができなくなってしまったからだ。
かつてお世話になった児童福祉施設を訪ねるが、21歳になった大福を引き取ってくれるところはない。
途方に暮れながらも、彼は息子になんとか自立した生活ができるように、生活の知恵を教えていく。
このブログに書き込みがあったことでこの映画の存在を知った。
自閉症ということばと、ジェット・リーという役者以外にほとんど前評判も知らずに見にいった。
これも何かの縁だろうということで。
ちなみに、そのサイトはこちら。
平日にたまたま休めたので、水曜日、単館上映の映画館に行くとほぼ満員の状態だった。
1000円サービスデーだったからなのかもしれない。
とにかく年配の観客が多かった。
ちょっと意外だったので、驚いた。
彼らがどのようにこの映画を観たのか、少し知りたくなった。
おそらくほとんどの地域ではもう観られる時間帯での公開は終了しているだろう。
見られた人はラッキーかもしれない。
観る機会があるなら、ぜひ観てほしい。
▼以下はネタバレあり▼
やられた、というのが僕の印象だった。
自閉症の息子、男手一人で育てる、このキーワードを聞けば誰もが「お涙頂戴系」ドラマであることを想起するだろう。
あるいは観客が多かったのは、そのためかもしれない。
間違えて韓流と思ってチケットを購入した人もいるかもしれないけれど。
(それくらい年配の人ばかりだった。失敬。)
先にも書いたけれど、期待していたわけではなかった。
だからこそかえって心を突かれたのかもしれない。
号泣してしまった。
一人でまさかそんなに泣くとは思っていなかったので、ちょっと恥ずかしかったが、止めることができなかった。
物語は衝撃的なシーンからスタートする。
おもりをくくりつけた二人の親子が船から身を投げる。
あまりにも淡々として悲壮な素振りもないので、それが心中であることがわかるまで時間がかかる。
物語は「命を落とし損ねる」ところからはじまるのだ。
この冒頭に象徴されるように、この映画にはほとんど説明的な描写や台詞がない。
なぜ死のうとしているのか、しばらくわからないし、二人がどんな環境にあるのかもあまり説明されない。
その意味では、映画らしくない映画かもしれない。
ハリウッドなら、日本映画なら、もっと説明的にもっとわかりやすく描くだろう。
それがかえってくどい演出になってしまうのだろう。
行動の連続と、台詞の連続。
淡々と物語が進行していくうちに、父親の王がいかに苦労しているか、いかに息子を愛しているかがうかがいしれるようになってくる。
そのころには、王に完全に感情移入してしまっているだろう。
教えても教えてもうまくいかない、けれども自分には時間がない。
受け入れ先を探しても、どこもひきとってくれない。
やっと見つかっても、息子はうまく適合できない。
もどかしいと思いながら、この先どうやって息子は生きていくのか、不安でしかたがない。
この映画のうまさは、実は視点となる人物が転換することにある。
大福は鈴鈴と出会い、父親以外の人間と心を交わすようになっていく。
それは単純な成長や恋ではないだろう。
けれども、彼の世界が広がったことを示す。
そして同時に、その出会いは父親があずかり知らぬところで起こる、大福だけの秘密となる。
観客は、完全に父親の王に感情移入しながらも、同時に大福にも感情移入しはじめていく。
父親はこんな行動をしはじめる。
「亀だ、俺は亀だ、一緒に泳ごう。」と水族館の水槽で大福とともに泳ぐのだ。
この行動は一見するとその意図が見えない。
泳げないのに、体力も衰えているのに、必死になって「教えたいこと」が亀の格好をして一緒に泳ぐことだった。
その行動が解せない水族館の館長も疑問を呈する。
「私には妻が海で死んだとは思えないんです。」
その次のカットである。
父親が死んでしまったことを、小さい骨壺にある写真で示される。
父親が死んでしまう場面さえ、この映画は見せないのだ。
なぜなのか。
このシークエンスから視点が大福へと完全に移行するからだ。
大福は父親が死んでしまったことさえ気づかずに生きていくのだ。
僕はこの父親の骨壺のカットを見た瞬間、涙が止まらなかった。
父親から息子へというこの見事な視点の転換に、揺さぶられたからだ。
僕が頭によぎったのはこういうことだった。
「僕はどれほど父親の愛を知りながらこれまで生きてきただろうか」
「あるいは僕たちは自閉症の大福と同じように、父親が死んだことさえ気づかずに生きているのではないだろうか」
完全に大福に視点が移動したことで、父親が残そうと必死にあがいていたことに気づくのだ。
それは、「いつもそばにいるよ」ということだった。
亀になって必死に伝えたかったこと。
それは「もうすぐ死ぬから自律しなさい」ということではなかった。
「いなくなっても、ずっと見守っているから」ということを伝えたかったのだ。
自閉症患者である息子の大福は、そんなことを気づかずに生きていくだろう。
鈴鈴とどのような関係に発展するだろうか。
清掃員として働きつづけられるかどうかも、わからない。
民間の保護施設もいつ閉鎖になってもおかしくないだろう。
もしかしたら、無責任に閉鎖してしまって、大福は路頭に迷うかも知れない。
事態はそれほど明るい結末ではない。
彼が自閉症を乗り越える日は、きっとこない。
自閉症という病気は、そんなに無邪気なものではないからだ。
けれども、大福は父親の愛の中でずっと生きていくだろう。
父親が死んでしまったかどうかなんて、もはやどうでもよいのだ。
なぜなら、僕にはまだ父親がいてくれているが、父親の愛をその息子がどれほど感じているかということは、普遍的だからだ。
おそらく誰もがわかっていないだろう。
僕たちはその意味で、自閉症患者と同じく、「自分の世界だけで生きている」のだ。
僕たちは知らない間に、親の愛を受け続けているのだ。
たとえ親が生きていても、死んでいても。
そのことを見事に視点の転換でみせてしまった。
下手な映画なら、父親の死をこれでもかというほど見せつけただろう。
どこで、どんなふうに、
どんな表情で死んでいくのか、克明に「説明」してくれたかもいれない。
ハリウッド映画や日本映画なら、間違いなくそうしていたはずだ。
しかし、この監督はそんな野暮なことはしない。
日本が大きな悲しみに包まれているこの時期だからこそ、この映画に打たれたのかもしれない。
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