評価点:74点/1992年/アメリカ
監督:ロバート・レッドフォード
川に流れている普遍。
マクリーン兄弟は父親の影響でフィッシングを趣味とする兄弟だった。
やがて二人は成人し、兄のノーマンは大学に進学し、教授を目指そうとしていた。
弟のポール(ブラッド・ピット)はたぐいまれなるフィッシングセンスを獲得しながらも、退廃的な生活を続けていた。
兄が大学卒業の機に数年ぶりに帰省したとき、弟が賭博で大きな借金を背負っていることを知らされる。
また、兄は地元の女性に恋心を抱き、その義兄と、弟とともに釣りに出かけることを約束するが。
ブラッド・ピットの出演作で、好きな作品を聞くと、ブラピファンはたいていこの映画をあげるという。
昔、ビデオに録ったままにしておいたのだが、今回、観ることにした。
あまりにも有名なので、今更、という感じもしないでもない。
まだ観たことがない人で、しかも自分はブラピが好きだ、という人は是非観るべきだと思う。
映画俳優でもあるロバート・レッドフォードが監督している作品としても有名で、ご存じの通り、彼らはそのあと「スパイ・ゲーム」でまた一緒に仕事をしている。
派手ではないが、印象に残る映画を作る。
これが二人に共通する映画観なのだろうと思わせる作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
「リバー・ランズ・スルー・イット」とは、「川がそこを通って流れる」とか、「そこを通って流れる川」というような意味になるらしい。
当然このタイトルは、単なる川という意味以上に、メタファーになっている。
そして、「it」という単語に何を当てはめるかによって、この映画の見方も変化するだろう。
映画の視点は、語り手でもある兄である。
兄が若かかりし頃を回想するという形式で物語は進む。
物語は自分自身のことを語りながらも、弟というフィッシングの神に愛された一人の男を中心としている。
フィッシングがいかにすばらしいものか、そのすばらしいものにとりつかれ、芸術的なまでに技術を高めることの永遠さ、普遍性が物語の主軸になっている。
つまりタイトルの「it」とは、フィッシングという芸術であり、川にとりつかれた、フィッシングに対するリスペクトなのである。
川には強い魅力があることがタイトルに込められている。
だが、この映画が単なる芸術性を追求することを、甘美に描いた理想主義的な、浪漫主義的な映画ではない。
その芸術性が普遍であり、不変であることを描き出すために、芸術とは相反するともいえる、社会的視座がしっかりと描かれている。
たとえば兄弟と父親との親子関係に象徴される教育方針だ。
これはあきらかに彼らが信仰する宗教と深い関連がある。
僕には具体的なことを言う資格がないが、たびたび出てくる宗教の宗派を巡る言動は、様々な形で人間関係に陰を落としている。
それだけではない。
恋人となったノーマン(クレイグ・シェーファー)の兄は、戦争で英雄になった人物として描かれる。
彼は町の英雄であり、また家族の誇りである。
兄側の視点から描かれるため、どうしてもイヤなキャラクターにみてしまうが、戦争帰りで俳優になるというのは、「父親たちの星条旗」でもあったように、強力なステータスなのだ。
日本だと戦争はいけない、という印象や、「ランボー」でスタローンが「反戦主義者につばを吐きかけられた」というようなことは、この物語の舞台である1912年ではありえないことだった。
一国を守る兵士たちへのまなざしは、まさにヒーローを見るそれと同じなのだ。
人種差別も色濃い。
弟が恋人を連れてバーに入ろうとして断られるシーン。
インディアン(原住民)に対する露骨な対応は、僕ら日本人でも気づくことだ。
今では人種差別をおおっぴらにするような店は少ないだろうが、当時では日常茶飯事であったことをしっかりと描いている。
そして、物語を流れている大きな流れは、「学力」の有無というものさしがすべてを決定づけていることを、兄弟の命運を通して描かれる。
兄は成績優秀。フィッシングはたしなむ程度。
弟は学校教育に全くそぐわない生き方しかできなかった。
だが、フィッシングはたぐいまれなる才能の持ち主。
この歴然とした能力差が、彼らの命運を分けてしまう。
いつまで経っても自分の生き方を前向きに考えられない弟は、学校だけでなく、社会や国家そのものに組み込まれることができない。
兄は結婚し、就職も決まる。
彼らに横たわっている隔たりは、人生における価値を考えさせるものになっている。
弟を愛しながらも、社会の端っこを生きる彼を救ってやれない現実のつらさは、単なる甘美な芸術的映画とは一線を画している。
この残酷さが、映画の根幹を流れている。
フライ・フィッシングに人生の普遍性を見出すのと同じように、川には人生の運命や、枝分かれしていく生き方が流れいているのだ。
変わりなく流れるように流れる川で、フィッシングする人を流れる人生は、救えない悲しみ、どうしようもない強力な力を感じざるを得ない無常がある。
それが「it」の中身が決定しきれないゆえんだ。
だが、とこの映画は訴えかける。
人生の勝利者とは言えない弟でも、「それでも」そのフィッシングセンスを見ていると、すべてを度外視したとしても価値あるものを見出すのだ。
だからこそ、川の魅力に取り付かれ、あの瞬間、完璧な、完全な、完結された瞬間を追い求めて今もモンタナのミシシッピ川でフィッシングし続けるのである。
ある意味、それを体験できなかったノーマンも、そういう世界が存在するのだ、ということを弟を通じて知っただけでも、幸せだったのかもしれない。
単純な面白さではない、面白さをもつ作品だ。
(2007/6/20執筆)
監督:ロバート・レッドフォード
川に流れている普遍。
マクリーン兄弟は父親の影響でフィッシングを趣味とする兄弟だった。
やがて二人は成人し、兄のノーマンは大学に進学し、教授を目指そうとしていた。
弟のポール(ブラッド・ピット)はたぐいまれなるフィッシングセンスを獲得しながらも、退廃的な生活を続けていた。
兄が大学卒業の機に数年ぶりに帰省したとき、弟が賭博で大きな借金を背負っていることを知らされる。
また、兄は地元の女性に恋心を抱き、その義兄と、弟とともに釣りに出かけることを約束するが。
ブラッド・ピットの出演作で、好きな作品を聞くと、ブラピファンはたいていこの映画をあげるという。
昔、ビデオに録ったままにしておいたのだが、今回、観ることにした。
あまりにも有名なので、今更、という感じもしないでもない。
まだ観たことがない人で、しかも自分はブラピが好きだ、という人は是非観るべきだと思う。
映画俳優でもあるロバート・レッドフォードが監督している作品としても有名で、ご存じの通り、彼らはそのあと「スパイ・ゲーム」でまた一緒に仕事をしている。
派手ではないが、印象に残る映画を作る。
これが二人に共通する映画観なのだろうと思わせる作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
「リバー・ランズ・スルー・イット」とは、「川がそこを通って流れる」とか、「そこを通って流れる川」というような意味になるらしい。
当然このタイトルは、単なる川という意味以上に、メタファーになっている。
そして、「it」という単語に何を当てはめるかによって、この映画の見方も変化するだろう。
映画の視点は、語り手でもある兄である。
兄が若かかりし頃を回想するという形式で物語は進む。
物語は自分自身のことを語りながらも、弟というフィッシングの神に愛された一人の男を中心としている。
フィッシングがいかにすばらしいものか、そのすばらしいものにとりつかれ、芸術的なまでに技術を高めることの永遠さ、普遍性が物語の主軸になっている。
つまりタイトルの「it」とは、フィッシングという芸術であり、川にとりつかれた、フィッシングに対するリスペクトなのである。
川には強い魅力があることがタイトルに込められている。
だが、この映画が単なる芸術性を追求することを、甘美に描いた理想主義的な、浪漫主義的な映画ではない。
その芸術性が普遍であり、不変であることを描き出すために、芸術とは相反するともいえる、社会的視座がしっかりと描かれている。
たとえば兄弟と父親との親子関係に象徴される教育方針だ。
これはあきらかに彼らが信仰する宗教と深い関連がある。
僕には具体的なことを言う資格がないが、たびたび出てくる宗教の宗派を巡る言動は、様々な形で人間関係に陰を落としている。
それだけではない。
恋人となったノーマン(クレイグ・シェーファー)の兄は、戦争で英雄になった人物として描かれる。
彼は町の英雄であり、また家族の誇りである。
兄側の視点から描かれるため、どうしてもイヤなキャラクターにみてしまうが、戦争帰りで俳優になるというのは、「父親たちの星条旗」でもあったように、強力なステータスなのだ。
日本だと戦争はいけない、という印象や、「ランボー」でスタローンが「反戦主義者につばを吐きかけられた」というようなことは、この物語の舞台である1912年ではありえないことだった。
一国を守る兵士たちへのまなざしは、まさにヒーローを見るそれと同じなのだ。
人種差別も色濃い。
弟が恋人を連れてバーに入ろうとして断られるシーン。
インディアン(原住民)に対する露骨な対応は、僕ら日本人でも気づくことだ。
今では人種差別をおおっぴらにするような店は少ないだろうが、当時では日常茶飯事であったことをしっかりと描いている。
そして、物語を流れている大きな流れは、「学力」の有無というものさしがすべてを決定づけていることを、兄弟の命運を通して描かれる。
兄は成績優秀。フィッシングはたしなむ程度。
弟は学校教育に全くそぐわない生き方しかできなかった。
だが、フィッシングはたぐいまれなる才能の持ち主。
この歴然とした能力差が、彼らの命運を分けてしまう。
いつまで経っても自分の生き方を前向きに考えられない弟は、学校だけでなく、社会や国家そのものに組み込まれることができない。
兄は結婚し、就職も決まる。
彼らに横たわっている隔たりは、人生における価値を考えさせるものになっている。
弟を愛しながらも、社会の端っこを生きる彼を救ってやれない現実のつらさは、単なる甘美な芸術的映画とは一線を画している。
この残酷さが、映画の根幹を流れている。
フライ・フィッシングに人生の普遍性を見出すのと同じように、川には人生の運命や、枝分かれしていく生き方が流れいているのだ。
変わりなく流れるように流れる川で、フィッシングする人を流れる人生は、救えない悲しみ、どうしようもない強力な力を感じざるを得ない無常がある。
それが「it」の中身が決定しきれないゆえんだ。
だが、とこの映画は訴えかける。
人生の勝利者とは言えない弟でも、「それでも」そのフィッシングセンスを見ていると、すべてを度外視したとしても価値あるものを見出すのだ。
だからこそ、川の魅力に取り付かれ、あの瞬間、完璧な、完全な、完結された瞬間を追い求めて今もモンタナのミシシッピ川でフィッシングし続けるのである。
ある意味、それを体験できなかったノーマンも、そういう世界が存在するのだ、ということを弟を通じて知っただけでも、幸せだったのかもしれない。
単純な面白さではない、面白さをもつ作品だ。
(2007/6/20執筆)
ワールドカップで散財しているところです。
映画館には……いけていません。
>さとうさん
書き込みありがとうございます。
返信遅くなってすみません。
私としては、やはり「it」の中身が納得いっていない部分がありまして。
だからちょっと自信のない文章の一つなのです。
もっと本当はずばっと説明できるのではないかと思っています。
説明してしまうと面白くなくなってしまうかもしれませんが。
今後もまた訪れていただければ幸いです。
あのシーンがキラキラ輝いて思い出され、心が洗われるような気持ちになった。ありがとう。
とくに必要がないのにトレンチコートがほしくて仕方がありません。
でも、かなり高いです。
いや、ほんとに特にコートが足りないわけではないんです。
でもほしいんです。
美女がいきなり「理由は聞かずに、このお金なんとか使ってください」って42000円くらい渡してくれないかな。
>たけこさん
書き込みありがとうございます。
少々こじつけな印象も、今読むとしてしまいますね。
一つの案、という程度で考えていただければお互い傷つかなくてすむかもしれません。
英語をよく分かっておられる方がみると、ちゃんちゃらおかしいかもしれません。
もし違う意見があれば、ぜひ教えてください。
おかげで、微妙なニュアンスを理解できた気がします。ありがとう。