評価点:79点/2011年/イギリス・フランス・ドイツ/128分
監督:トーマス・アルフレッドソン
映画的な、あまりに映画的な。
1970年代イギリス、諜報部サーカスと呼ばれた当局は、冷戦の中新しい局面を迎えていた。
サーカス幹部のなかに、裏切り者、二重スパイがいるという情報をリーダーのコントロール(ジョン・ハート)は得る。
その情報を持っているハンガリーの将軍を亡命させるためにブダペストにエージェントを送り出す。
しかし、待ち伏せされていたロシア諜報部によってエージェントのジム・プリドー(マーク・ストロング)は殺されてしまう。
責任を問われたコントロールは部下のスマイリーとともに更迭される。
コントロールは何者かに暗殺されてしまい、その調査をジョージ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン)は依頼される。
公開当時話題になっていたのは知っていたが、見ずじまいになっていた。
特に理由もなく、勢いでアマゾンで見ることにした。
キャスティングが非常によく、脚本もいい。
ただ、かなり難解で説明されずに物事が進んでいくので、映画をあまり見ない人には要注意だ。
そして、二度見たくなる作品なので、続けて二度見るくらいの心構えで見たい。
しかし、二度見るだけの価値のあるおもしろい映画であることもまた、間違いない。
難しいからと言って、この映画をネタバレした状態で見るのはとても残念だ。
どうかネタバレを読まずに映画を鑑賞することをお勧めする。
本当に映画が好きなら、あるいは読解力(リテラシー)があるなら、きっと一度で理解することができるだろう。
ま、私は二度見たけどね。
▼以下はネタバレあり▼
いわゆる無冒頭の映画で、いきなり事件のまっただ中に観客は身を置かれ、映画になら当たり前の説明的な台詞がほとんどない。
人間関係をつかみながら見ていくことになり、それがつかみ終わった頃に、物語が解決してしまう。
凡作なら、私はここで問題が提示される前に問題が解決されてしまう、と断罪したのかもしれない。
だが、この映画はそういう野暮な印象を一茶受けない。
それは映像的な緊張感が、しっかりと保たれているからだろう。
※ちなみに原作があるのだが、私は原作は読んでいないし、読むつもりもない。
この映画の中だけで解釈している。
原作で設定を補強する読み方もあるだろうが、私の考えにそれはあまりない。
実は原作でこんな設定だったよ、という指摘はあるかもしれないが、そこは柔軟に読んでいただきたい。
それよりも、70年代、アメリカの常識と逸脱しているよ、という指摘があれば具体的に教えていただけたらありがたい。
さて、とりわけ冒頭のクレジットは絶妙だ。
初見なら、ほとんどその意味がわからない。
だが、初見でもこのまったく台詞がない、人物が多数出てくる冒頭のクレジットが非常に重要であることは理解できる。
私は見ながら、まったくそれを意味づけられないことに焦りを感じていた。
「このシークエンスで何を示そうとしているのか、まったく理解できない!」と。
そして、最終的に「もぐら」と呼ばれるスパイが明かされたとき、ああ、そういう意味だったのか、だからか。と納得できる冒頭になっている。
この映画はだから、人物の整理がすべてであり、それがわかったときに映画も終わる。
ストーリーばかりを重視しようとしている観客には、そのおもしろさは伝わりにくいかもしれない。
だからこの批評も人物を整理してしまったら終わってしまうかもしれない。
とはいえ、少しだけ整理せざるを得ない。
この物語は三つの事件が複雑に入り組んでいる。
人間関係の方で整理するよりも、この三つの事件を整理する方がわかりやすい。
一つはハンガリーで起こった将軍亡命未遂事件だ。
冒頭、ハンガリーの将軍が持つサーカスの「もぐら」の情報を得るために、プリドーを送る。
だが、プリドーは敵の罠にかかり、殺されてしまう。
これがコントロール失脚の流れにつながることは先に記した。
だが、実はプリドーは生きており、彼には多額のお金が振り込まれていた。
物語終盤、彼の居場所をスマイリーが突き止めるのは、そのお金の振込先を当たったのだろう。
彼によれば、拘束され、尋問された上に、見知らぬ女が殺され、さらにイギリスに戻された、ということだった。
臨時教師をしながら、ひっそりと生きていた。
これはカーラと呼ばれるソ連の諜報部幹部の仕業で、コントロールを失脚させるのが目的だった。
コントロールを失脚させることで、もう一つの事件を簡単に遂行させるためだった。
第二の事件が、エージェントのリッキー・ター(トム・ハーディー)にまつわるものだ。
彼はソ連の要人を西側に亡命させることだった。
目を付けたインスタンブールで、イリーナという女性と出会い、彼女から「もぐら」にまつわる情報を聞き出す。
しかし、その情報をサーカスに打診した直後、イリーナはさらわれ、自身も身の危険を感じる。
身を隠したターは、スマイリーのもとに現れ、事件が「もぐら」の情報であるからだと気づかされる。
そのイリーナは既にプリドーの前で殺されてしまっていた。
ターにすべての責任を押しつけることで、カーラと東側のそのスパイは、「もぐら」事件を収束させようとしていたわけだ。
第三の事件が、「ウィッチクラフト作戦」である。
東側の要人から情報を得ることで、英国に有利に働くように、と考えられた作戦だ。
だが、これはカーラとそのもぐらが仕組んだ罠であり、実際にはこれを餌に、英国と米国の諜報部がつながることを期待したものだった。
アメリカの情報を、イギリス経由で知ることで、ソ連に有利に働くことを目的としたものだったのだ。
ウィッチクラフト作戦は、情報提供者を守るという名目で、数人のサーカスにしかその存在を知らされていなかった。
それが、ビル・ヘイドン、ロイ・ブランド、トビー・ヘスタヘイス、そして現リーダーのパーシー・アレリンだった。
アレリンは名誉が欲しかったため、強くこの作戦を推し進める。
その情報提供者であった、アレクセイ・ポリヤコフの素性を疑った分析官のサックスはすぐに解雇されてしまう。
この物語の本丸はこの第三の事件だった。
もぐらの存在が明るみになると、このパイプが寸断されてしまい、カーラ(ソ連側の)は痛手を被ることになる。
そのためには群れない、判断力があるコントロールを失脚させる必要があったわけだ。
この三つを解きほぐすことで、スマイリーは彼らの企みを暴き出したわけだ。
これらが複雑に、同時並行的に、また説明なしに展開されるため、非常に複雑に感じてしまう。
そしてもう一つ、この映画には重要なファクターがある。
それは、人が人を愛するという、愛の物語が隠されている(いや隠れていないけれど)。
一つは、アンとジョージの関係だ。
ジョージは、サーカスを去って1年も経つのに、ドアにサインを残してドアが開けられたかどうかがわかるようにしかけていた。
これはプロの侵入者を事前に知るためにされていたものではない。
もしこれを侵入者のサインと考えるなら、入り口だけでは不自然だ。
また、彼はこの事件の前にめがねを新調する。
これは、事件のためではない。
1年間で、少なくとも短期間で、視力が低下したことを示している。
なぜなのか。
アンがいないというストレスだ。
それほどまでにアンを愛していたのだ。
だからこの物語は、アンが本当に愛してくれるジョージの元へ帰る物語でもある。
他にも、不倫をしまくっているもぐらのヘイドンは、じつはプリドーと特別な関係にあった。
それは恐らく親友というレベルではなかった。
彼はだからこそ、アンに対しても「心を操る」不倫ができたのだ。
おそらくバイセクシャルだったのだろう。
それと対極にあるのが我らがベネディクト様のカンバーバッチだ。
彼もまた同性愛者だった。
しかし、それを悟られないようにと、職場ではプレイボーイを演じている。
これは、同性愛者が今よりもっと生きにくい時代だったというだけではなく、仕事を円滑に進めるための処世術だったのだろう。
このあたりの悲哀が、物語と人物像に深みを与えている。
スパイ映画として、人間ドラマとして、非常に秀逸な映画だ。
テレビなどでは全く受け入れられないだろうけれども。
監督:トーマス・アルフレッドソン
映画的な、あまりに映画的な。
1970年代イギリス、諜報部サーカスと呼ばれた当局は、冷戦の中新しい局面を迎えていた。
サーカス幹部のなかに、裏切り者、二重スパイがいるという情報をリーダーのコントロール(ジョン・ハート)は得る。
その情報を持っているハンガリーの将軍を亡命させるためにブダペストにエージェントを送り出す。
しかし、待ち伏せされていたロシア諜報部によってエージェントのジム・プリドー(マーク・ストロング)は殺されてしまう。
責任を問われたコントロールは部下のスマイリーとともに更迭される。
コントロールは何者かに暗殺されてしまい、その調査をジョージ・スマイリー(ゲイリー・オールドマン)は依頼される。
公開当時話題になっていたのは知っていたが、見ずじまいになっていた。
特に理由もなく、勢いでアマゾンで見ることにした。
キャスティングが非常によく、脚本もいい。
ただ、かなり難解で説明されずに物事が進んでいくので、映画をあまり見ない人には要注意だ。
そして、二度見たくなる作品なので、続けて二度見るくらいの心構えで見たい。
しかし、二度見るだけの価値のあるおもしろい映画であることもまた、間違いない。
難しいからと言って、この映画をネタバレした状態で見るのはとても残念だ。
どうかネタバレを読まずに映画を鑑賞することをお勧めする。
本当に映画が好きなら、あるいは読解力(リテラシー)があるなら、きっと一度で理解することができるだろう。
ま、私は二度見たけどね。
▼以下はネタバレあり▼
いわゆる無冒頭の映画で、いきなり事件のまっただ中に観客は身を置かれ、映画になら当たり前の説明的な台詞がほとんどない。
人間関係をつかみながら見ていくことになり、それがつかみ終わった頃に、物語が解決してしまう。
凡作なら、私はここで問題が提示される前に問題が解決されてしまう、と断罪したのかもしれない。
だが、この映画はそういう野暮な印象を一茶受けない。
それは映像的な緊張感が、しっかりと保たれているからだろう。
※ちなみに原作があるのだが、私は原作は読んでいないし、読むつもりもない。
この映画の中だけで解釈している。
原作で設定を補強する読み方もあるだろうが、私の考えにそれはあまりない。
実は原作でこんな設定だったよ、という指摘はあるかもしれないが、そこは柔軟に読んでいただきたい。
それよりも、70年代、アメリカの常識と逸脱しているよ、という指摘があれば具体的に教えていただけたらありがたい。
さて、とりわけ冒頭のクレジットは絶妙だ。
初見なら、ほとんどその意味がわからない。
だが、初見でもこのまったく台詞がない、人物が多数出てくる冒頭のクレジットが非常に重要であることは理解できる。
私は見ながら、まったくそれを意味づけられないことに焦りを感じていた。
「このシークエンスで何を示そうとしているのか、まったく理解できない!」と。
そして、最終的に「もぐら」と呼ばれるスパイが明かされたとき、ああ、そういう意味だったのか、だからか。と納得できる冒頭になっている。
この映画はだから、人物の整理がすべてであり、それがわかったときに映画も終わる。
ストーリーばかりを重視しようとしている観客には、そのおもしろさは伝わりにくいかもしれない。
だからこの批評も人物を整理してしまったら終わってしまうかもしれない。
とはいえ、少しだけ整理せざるを得ない。
この物語は三つの事件が複雑に入り組んでいる。
人間関係の方で整理するよりも、この三つの事件を整理する方がわかりやすい。
一つはハンガリーで起こった将軍亡命未遂事件だ。
冒頭、ハンガリーの将軍が持つサーカスの「もぐら」の情報を得るために、プリドーを送る。
だが、プリドーは敵の罠にかかり、殺されてしまう。
これがコントロール失脚の流れにつながることは先に記した。
だが、実はプリドーは生きており、彼には多額のお金が振り込まれていた。
物語終盤、彼の居場所をスマイリーが突き止めるのは、そのお金の振込先を当たったのだろう。
彼によれば、拘束され、尋問された上に、見知らぬ女が殺され、さらにイギリスに戻された、ということだった。
臨時教師をしながら、ひっそりと生きていた。
これはカーラと呼ばれるソ連の諜報部幹部の仕業で、コントロールを失脚させるのが目的だった。
コントロールを失脚させることで、もう一つの事件を簡単に遂行させるためだった。
第二の事件が、エージェントのリッキー・ター(トム・ハーディー)にまつわるものだ。
彼はソ連の要人を西側に亡命させることだった。
目を付けたインスタンブールで、イリーナという女性と出会い、彼女から「もぐら」にまつわる情報を聞き出す。
しかし、その情報をサーカスに打診した直後、イリーナはさらわれ、自身も身の危険を感じる。
身を隠したターは、スマイリーのもとに現れ、事件が「もぐら」の情報であるからだと気づかされる。
そのイリーナは既にプリドーの前で殺されてしまっていた。
ターにすべての責任を押しつけることで、カーラと東側のそのスパイは、「もぐら」事件を収束させようとしていたわけだ。
第三の事件が、「ウィッチクラフト作戦」である。
東側の要人から情報を得ることで、英国に有利に働くように、と考えられた作戦だ。
だが、これはカーラとそのもぐらが仕組んだ罠であり、実際にはこれを餌に、英国と米国の諜報部がつながることを期待したものだった。
アメリカの情報を、イギリス経由で知ることで、ソ連に有利に働くことを目的としたものだったのだ。
ウィッチクラフト作戦は、情報提供者を守るという名目で、数人のサーカスにしかその存在を知らされていなかった。
それが、ビル・ヘイドン、ロイ・ブランド、トビー・ヘスタヘイス、そして現リーダーのパーシー・アレリンだった。
アレリンは名誉が欲しかったため、強くこの作戦を推し進める。
その情報提供者であった、アレクセイ・ポリヤコフの素性を疑った分析官のサックスはすぐに解雇されてしまう。
この物語の本丸はこの第三の事件だった。
もぐらの存在が明るみになると、このパイプが寸断されてしまい、カーラ(ソ連側の)は痛手を被ることになる。
そのためには群れない、判断力があるコントロールを失脚させる必要があったわけだ。
この三つを解きほぐすことで、スマイリーは彼らの企みを暴き出したわけだ。
これらが複雑に、同時並行的に、また説明なしに展開されるため、非常に複雑に感じてしまう。
そしてもう一つ、この映画には重要なファクターがある。
それは、人が人を愛するという、愛の物語が隠されている(いや隠れていないけれど)。
一つは、アンとジョージの関係だ。
ジョージは、サーカスを去って1年も経つのに、ドアにサインを残してドアが開けられたかどうかがわかるようにしかけていた。
これはプロの侵入者を事前に知るためにされていたものではない。
もしこれを侵入者のサインと考えるなら、入り口だけでは不自然だ。
また、彼はこの事件の前にめがねを新調する。
これは、事件のためではない。
1年間で、少なくとも短期間で、視力が低下したことを示している。
なぜなのか。
アンがいないというストレスだ。
それほどまでにアンを愛していたのだ。
だからこの物語は、アンが本当に愛してくれるジョージの元へ帰る物語でもある。
他にも、不倫をしまくっているもぐらのヘイドンは、じつはプリドーと特別な関係にあった。
それは恐らく親友というレベルではなかった。
彼はだからこそ、アンに対しても「心を操る」不倫ができたのだ。
おそらくバイセクシャルだったのだろう。
それと対極にあるのが我らがベネディクト様のカンバーバッチだ。
彼もまた同性愛者だった。
しかし、それを悟られないようにと、職場ではプレイボーイを演じている。
これは、同性愛者が今よりもっと生きにくい時代だったというだけではなく、仕事を円滑に進めるための処世術だったのだろう。
このあたりの悲哀が、物語と人物像に深みを与えている。
スパイ映画として、人間ドラマとして、非常に秀逸な映画だ。
テレビなどでは全く受け入れられないだろうけれども。
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