評価点:58点/2019年/アメリカ/142分
監督:J・J・エイブラムス
結局フィンは何が言いたかったのかな?
ファーストオーダーの長となったカイロ・レン(アダム・ドライバー)は、パルパティーンの亡霊に導かれて未知の領域エグゼゴルに辿り着いた。
そこでファイナルオーダーなる大艦隊を提示される。
この艦隊をレンに差し出す代わりに、レイ(デイジー・リドリー)を殺せと指示する。
一方、ファーストオーダーからの攻撃に耐えなんとかしのいでいたレジスタンスは、ルークらが集めていた情報からエグゼゴルの存在を知る。
しかし未知の領域のため、どこにあるのかわからない。
その場所を探すべく、ポー(オスカー・アイザック)たちはその地図を求めて旅を続ける。
レイはレジスタンスの基地に残って自分の恐怖と闘うため、修行を続けていた。
3部作の最終作であり、かつ、これまで続いてきたスカイウォーカーの物語の終幕、つまり9部作の最終作ともいえる。
「最後のジェダイ」が酷評され、もっと続くはずだった物語は、いったんここで終止符を打つことになった。
監督は「フォースの覚醒」のエイブラムスに戻された。
ルーカスが独立性を失って、ディズニーになってから「スターウォーズ」に対する批判は高くなる一方だ。
この作品によってそれが賞賛にかわるのか、それともやはり批判になるのか。
ディズニーにとってプライドをかけた作品である。
年末、他に見るものも見当たらない(?)ので見に行った。
前作同様、初心者お断り、初心者がここから入ってくるくらいなら、他の作品を見た方が良い、というのは変わらない。
そういう人は、「アベンジャーズ」に入門しておこう。
そのくらいの作品である。
▼以下はネタバレあり▼
前作にも書いたが、私はまったくこのシリーズに思い入れはない。
「EP1」は、映像の新しさやパドメがかわいいこともあって面白いと感じたが、それ以降は全く面白いとは思っていない。
熱烈なファンのレビューを見たいのなら、私の意見は参考にならないだろう。
日本人にもアメリカ人にも熱烈な人が多いこの作品において、的外れだったら申し訳ない。
「最後のジェダイ」が余りに酷かった、という世間の評判は、本作で若干緩和されたのだろう。
エイブラムスに課せられた最も重要な任務は、「終わらせること」だったはずだ。
その観点で見れば、この映画は及第点だったのだろう。
だが、前作のときに書いたように、「おもしろいのか」という観点で見れば、全くおもしろくない。
どの点を取っても、同工異曲、旧態依然、目新しい点など何もない、凡作に過ぎない。
シリーズものなので、どうしても前作からの縛りが発生するにしても、だからファン以外には受け入れられないという自律性の低さはあるにしても、完成度は低い。
特に「エンドゲーム」が非常に完成度が高かったことを鑑みても、この「スカイウォーカーの夜明け」はおもしろくない。
これほど期待値が高い作品を、ここまで裏切ってくれたことに本当に驚きしかない。
だれのインタビューをみても「スターウォーズに憧れていた」と話すキャストとスタッフだが、憧れだけではどうしようもないパトスの低さがこの映画の最後を穢してしまったのかもしれない。
さて、課題は前作と殆ど変わりない。
敵の不在と、キャラクター設定の甘さだ。
レジスタンスは何と闘っているのか。
ダークサイドやファーストオーダー、パルパティーンとは何なのか。
これまでの「EP1~3」、「4~6」のシリーズにはある程度の「敵」が想定できた。
しかし、この「7~9」にはそれが全く見えてこない。
これは現実の時代による変化ももちろんある。
ソ連や冷戦が目に見えて恐怖であった時代に描かれた「4~6」は、誰もが「ダークサイド」を想定できた。
もはやそういう時代ではない。
パルパティーンが復活した、生きていたといわれても、全く驚かないし、何ら恐怖もない。
問題はその中身が、シリーズとしてどう想定するかだし、何を比喩するかだったと思う。
恐怖でも良い、不信でも良い、最近話題の分断でもいい。
差別や格差、自由と束縛、民主主義と圧政、なんでもかまわない。
その設定があまりにも「曖昧模糊」としているから、悪い奴らだから倒す必要がある、という無邪気で愚直な動機しか与えられない。
せっかくファーストオーダーにスパイがいるという設定を与えたのに、それも十分生かせていない。
スパイの動機が、この戦争の対立軸を解き明かす何かでもよかった。
けれどもそのスパイに、非常にちっぽけなどうでもよい台詞を言わせてしまう。
この戦争の動機が、レイとベン(カイ・ロレン)との個人的な相克でも全く問題なかった。
それが人々を戦争に駆り立てる何かであるという、比喩になっていれば、二人の葛藤がそのまま映画として物語として描かれているなら、おもしろかったに違いない。
しかし、二人の葛藤もまた、陳腐でちっぽけで、内面を描けていない。
前作よりは、それでもまだましなのだが。
レイは心の中にある恐怖が拭い去れなかった。
それは、レンとともに、自分がダークサイドの玉座に座る姿を見てしまったからだ。
自分という存在は、ダークサイドに落ちてしまう運命にあるのではないか、という恐怖だ。
レンは自分がパルパティーンの傀儡でもなく、誰かに定められた運命ではない生き方を模索していた。
その答えが、レイとともに全宇宙を治めるというものだった。
二人は幾度となく遠い地点から対話と対峙を繰り返すことで、一つの答えを手に入れる。
それは、自分の運命は血統で決められるものではなく、自分の意志で描き出すものである、ということだ。
それを導くのが歴代のジェダイたちであった。
恐れることなく自分の運命を自分で描け、これがレンにもレイにも共通する答えだった。
レイは、パルパティーンの孫だったことを聞かされ、動揺する。
しかし、恐怖や恨みではなく、正しい心でパルパティーンを打破することで、ダークサイドを粉砕する。
長く続いた、ダークサイドに落ちるか落ちないかというスカイウォーカーの運命を解放するのだ。
そこで繰り返し言われることが、「血統で運命が決まるのではない」ということだ。
だが、これが繰り返されればされるほど、「血統に逡巡するレイとレン」が浮かび上がってくる。
彼らがこれほど悩んだのは、やはり自分の血統が呪われたものであるからに他ならない。
これはちょうど、現代社会が人種差別はいけないとことさら言えば言うほど人種差別があることを強調することになっているのと同じだ。
キャストにカラーをいれたり、LGBTをいれたりすることで、「私たちは差別しません」と連呼する。
けれどもそういうことをすればするほど、逆に差別は歴然と存在し、不自然な物語や人物像を設定せざるを得ない映画になる。
血統ではない、ということを訴えることで、このシリーズが呪縛から解放できないことを暗に示しているようにさえ感じてしまう。
見ている側は、そういう呪縛はまったく感じていない。
レンだけではなく、レイにまでその設定(パルパティーンの孫)をもってきてしまったことで、それが際立ってしまった。
じゃあ、パルパティーンはなぜ暗黒面に落ちて、レイは落ちないのか。
そこが大事であって、やはり敵の解釈が不在だったのが、物語としての盛り上がりや完成度に大きく瑕疵がうまれてしまった気がする。
物語が、レンとレイをそれぞれ丁寧に描けば描くほど、レジスタンスが闘っている敵が「不在」であるということが強調されてしまった。
禅問答のような、ダークサイドとブライトサイドのやりとりは、すでに古い。
新しい、時代に合った「スターウォーズ」を描かなければ、シリーズは生きていけない。
だって、これはSFなのだから。
時代に合わせてSFの世界観(物語性)は変わっていくしかない。
くしくもこの作品でスカイウォーカーからの呪縛は解き放たれた。
むしろ、次の作品こそ、自由に描けるはずだ。
おもしろい「スターウォーズ」を心待ちにしたい。
監督:J・J・エイブラムス
結局フィンは何が言いたかったのかな?
ファーストオーダーの長となったカイロ・レン(アダム・ドライバー)は、パルパティーンの亡霊に導かれて未知の領域エグゼゴルに辿り着いた。
そこでファイナルオーダーなる大艦隊を提示される。
この艦隊をレンに差し出す代わりに、レイ(デイジー・リドリー)を殺せと指示する。
一方、ファーストオーダーからの攻撃に耐えなんとかしのいでいたレジスタンスは、ルークらが集めていた情報からエグゼゴルの存在を知る。
しかし未知の領域のため、どこにあるのかわからない。
その場所を探すべく、ポー(オスカー・アイザック)たちはその地図を求めて旅を続ける。
レイはレジスタンスの基地に残って自分の恐怖と闘うため、修行を続けていた。
3部作の最終作であり、かつ、これまで続いてきたスカイウォーカーの物語の終幕、つまり9部作の最終作ともいえる。
「最後のジェダイ」が酷評され、もっと続くはずだった物語は、いったんここで終止符を打つことになった。
監督は「フォースの覚醒」のエイブラムスに戻された。
ルーカスが独立性を失って、ディズニーになってから「スターウォーズ」に対する批判は高くなる一方だ。
この作品によってそれが賞賛にかわるのか、それともやはり批判になるのか。
ディズニーにとってプライドをかけた作品である。
年末、他に見るものも見当たらない(?)ので見に行った。
前作同様、初心者お断り、初心者がここから入ってくるくらいなら、他の作品を見た方が良い、というのは変わらない。
そういう人は、「アベンジャーズ」に入門しておこう。
そのくらいの作品である。
▼以下はネタバレあり▼
前作にも書いたが、私はまったくこのシリーズに思い入れはない。
「EP1」は、映像の新しさやパドメがかわいいこともあって面白いと感じたが、それ以降は全く面白いとは思っていない。
熱烈なファンのレビューを見たいのなら、私の意見は参考にならないだろう。
日本人にもアメリカ人にも熱烈な人が多いこの作品において、的外れだったら申し訳ない。
「最後のジェダイ」が余りに酷かった、という世間の評判は、本作で若干緩和されたのだろう。
エイブラムスに課せられた最も重要な任務は、「終わらせること」だったはずだ。
その観点で見れば、この映画は及第点だったのだろう。
だが、前作のときに書いたように、「おもしろいのか」という観点で見れば、全くおもしろくない。
どの点を取っても、同工異曲、旧態依然、目新しい点など何もない、凡作に過ぎない。
シリーズものなので、どうしても前作からの縛りが発生するにしても、だからファン以外には受け入れられないという自律性の低さはあるにしても、完成度は低い。
特に「エンドゲーム」が非常に完成度が高かったことを鑑みても、この「スカイウォーカーの夜明け」はおもしろくない。
これほど期待値が高い作品を、ここまで裏切ってくれたことに本当に驚きしかない。
だれのインタビューをみても「スターウォーズに憧れていた」と話すキャストとスタッフだが、憧れだけではどうしようもないパトスの低さがこの映画の最後を穢してしまったのかもしれない。
さて、課題は前作と殆ど変わりない。
敵の不在と、キャラクター設定の甘さだ。
レジスタンスは何と闘っているのか。
ダークサイドやファーストオーダー、パルパティーンとは何なのか。
これまでの「EP1~3」、「4~6」のシリーズにはある程度の「敵」が想定できた。
しかし、この「7~9」にはそれが全く見えてこない。
これは現実の時代による変化ももちろんある。
ソ連や冷戦が目に見えて恐怖であった時代に描かれた「4~6」は、誰もが「ダークサイド」を想定できた。
もはやそういう時代ではない。
パルパティーンが復活した、生きていたといわれても、全く驚かないし、何ら恐怖もない。
問題はその中身が、シリーズとしてどう想定するかだし、何を比喩するかだったと思う。
恐怖でも良い、不信でも良い、最近話題の分断でもいい。
差別や格差、自由と束縛、民主主義と圧政、なんでもかまわない。
その設定があまりにも「曖昧模糊」としているから、悪い奴らだから倒す必要がある、という無邪気で愚直な動機しか与えられない。
せっかくファーストオーダーにスパイがいるという設定を与えたのに、それも十分生かせていない。
スパイの動機が、この戦争の対立軸を解き明かす何かでもよかった。
けれどもそのスパイに、非常にちっぽけなどうでもよい台詞を言わせてしまう。
この戦争の動機が、レイとベン(カイ・ロレン)との個人的な相克でも全く問題なかった。
それが人々を戦争に駆り立てる何かであるという、比喩になっていれば、二人の葛藤がそのまま映画として物語として描かれているなら、おもしろかったに違いない。
しかし、二人の葛藤もまた、陳腐でちっぽけで、内面を描けていない。
前作よりは、それでもまだましなのだが。
レイは心の中にある恐怖が拭い去れなかった。
それは、レンとともに、自分がダークサイドの玉座に座る姿を見てしまったからだ。
自分という存在は、ダークサイドに落ちてしまう運命にあるのではないか、という恐怖だ。
レンは自分がパルパティーンの傀儡でもなく、誰かに定められた運命ではない生き方を模索していた。
その答えが、レイとともに全宇宙を治めるというものだった。
二人は幾度となく遠い地点から対話と対峙を繰り返すことで、一つの答えを手に入れる。
それは、自分の運命は血統で決められるものではなく、自分の意志で描き出すものである、ということだ。
それを導くのが歴代のジェダイたちであった。
恐れることなく自分の運命を自分で描け、これがレンにもレイにも共通する答えだった。
レイは、パルパティーンの孫だったことを聞かされ、動揺する。
しかし、恐怖や恨みではなく、正しい心でパルパティーンを打破することで、ダークサイドを粉砕する。
長く続いた、ダークサイドに落ちるか落ちないかというスカイウォーカーの運命を解放するのだ。
そこで繰り返し言われることが、「血統で運命が決まるのではない」ということだ。
だが、これが繰り返されればされるほど、「血統に逡巡するレイとレン」が浮かび上がってくる。
彼らがこれほど悩んだのは、やはり自分の血統が呪われたものであるからに他ならない。
これはちょうど、現代社会が人種差別はいけないとことさら言えば言うほど人種差別があることを強調することになっているのと同じだ。
キャストにカラーをいれたり、LGBTをいれたりすることで、「私たちは差別しません」と連呼する。
けれどもそういうことをすればするほど、逆に差別は歴然と存在し、不自然な物語や人物像を設定せざるを得ない映画になる。
血統ではない、ということを訴えることで、このシリーズが呪縛から解放できないことを暗に示しているようにさえ感じてしまう。
見ている側は、そういう呪縛はまったく感じていない。
レンだけではなく、レイにまでその設定(パルパティーンの孫)をもってきてしまったことで、それが際立ってしまった。
じゃあ、パルパティーンはなぜ暗黒面に落ちて、レイは落ちないのか。
そこが大事であって、やはり敵の解釈が不在だったのが、物語としての盛り上がりや完成度に大きく瑕疵がうまれてしまった気がする。
物語が、レンとレイをそれぞれ丁寧に描けば描くほど、レジスタンスが闘っている敵が「不在」であるということが強調されてしまった。
禅問答のような、ダークサイドとブライトサイドのやりとりは、すでに古い。
新しい、時代に合った「スターウォーズ」を描かなければ、シリーズは生きていけない。
だって、これはSFなのだから。
時代に合わせてSFの世界観(物語性)は変わっていくしかない。
くしくもこの作品でスカイウォーカーからの呪縛は解き放たれた。
むしろ、次の作品こそ、自由に描けるはずだ。
おもしろい「スターウォーズ」を心待ちにしたい。
元studioyunfat 現ALIQOUI film のしんです
10年前に当ブログで企画した00年代ベストテン 覚えてらっしいますでしょうか?
あれから10年経ちまして、今度は2010年代ベストテンという企画を立ち上げました
本コメントのリンク先記事をご参照の上、可能であれはご投稿いただけないでしょうか?
10年ぶりですが、是非またよろしくお願いいたします!
今年もよろしくお願いします。
今月みたい映画がたくさんありますが……本業の繁忙期なのでいけるかどうかやはり微妙です。
>しんさん
ご無沙汰しています。
書き込みありがとうございます。
返信遅くなってすみません。
今回も参加させてもらおうと思っています。
いま原稿を準備中です。
よろしくお願いします。