評価点:89点/1997年/日本
監督:庵野秀明
夏に公開された、劇場版の二作目。
この劇場版は、テレビ放送された全26話のなかで、最後の2話を新たに撮りなおされたものである。
よって副題が「Air」「まごころを、君に」という二つあり、それは、途中で一度スタッフロールが入り、二部構成になっていることでもわかる。
本編テレビ・アニメの第24話までで、アスカ(声/宮村優子)は、完全にエヴァに乗ること(シンクロ率一桁)ができなくなり、自失してしまう。
また、碇シンジ(声/緒方恵美)は、新しく送られてきたフィフス・チルドレン(第五適格者)に信頼を寄せるが、実はその渚カヲルは使徒であることが判明、自らの乗るエヴァでカヲルを殺してしまう。
そして、この映画では、最後の使徒(シ者)であるカヲルを倒したあと、特務機関ネルフがその権力を削がれ、チルドレン(エヴァ・パイロット)たちが心を閉ざしてしまった状態から、始まる。
ゼーレたちは、最大の目的である「人類補完計画」を実行に移すべく、人工知能MAGIへのハッキングを試みる。
赤木リツコの協力もあり、ハッキングを抑えることに成功したが、今度は、ゼーレ率いる軍隊が、物理的にネルフへと侵攻し始める。
人間の手による物理的対応は想定外であったため、ネルフはどんどん侵攻されていく。
やがてエヴァ弐号機に匿われていたアスカが、「エヴァ」に乗る意味を見出し、覚醒する。
新世紀エヴァンゲリオンの最終の2話を、より具体的に焼きまわした作品として
紹介してもいいだろう。
テレビではシンジがずっと自分と向き合う対話が連続的に展開され、シンジなりの「答え」を見出して完結する。
しかし、それはシンジの心のなかでの話であるため、外界の変化がよくわからなかった。
この劇場版では、その疑問に答える形になっている。
▼以下はネタバレあり▼
ちなみに僕は、このエヴァに関して、存在を知り、好きになったのはブームが一通りすぎさったあとだった。
また、エヴァに関して、インターネットやその他で調べたり、庵野監督のインタビュー記事等を読んだりはしていない。
ゆえに、僕のこの〈読み〉は、僕自身が勝手に捉えたものだと思ってほしい。
僕の周りではこの劇場版は賛否両論(というか酷評のほうが多い)だったが、僕にはこれ以上ない終わり方だったと思う。
エヴァはこの劇場版によって完全に「補完」され、そして完結した。
これ以上の説明は不可能だし、これ以上物語をすすめることも不可能だろう。
エヴァンゲリオン自体の話をすれば、これは典型的なエディプス・コンプレックスであるといえるだろう。
エヴァは母親の意識が書き込まれているし、主人公・碇シンジは父親と絶えず反発しあう。
そうした主人公が、「自分とは何か」という命題に対して解決をみる、と一応は言ってしまえる。
そもそも、ATフィールドとは、カヲル君が言うように、「心の壁」である。
もっと具体的に言えば、人と人とを区別するときの意識の壁である。
つまりは、自己と他者を分かつアイデンティティの壁である。
アスカが、自分の存在を肯定できたとき、ATフィールドを全快して戦ったのは、
自分と他者との境界を見出せたからに他ならない。
また、アンチATフィールドを展開し、人類を補完しようとしたのは、心の壁を取り除き、他者と自己とを一つへ還えすためである。
ゼーレが推し進めていた「人類補完計画」とは、正に、他者と自己を分けているATフィールドを取り除き、「かけた心の補完」を目ざしたものだった。
人間は誰でも、自分にない部分で誰かにあこがれたり、誰かを愛せなかった悲しみを抱えていたりする。
そのために「自己」を見失い、喪失し続けるのである。
ならばその欠けた心を一つにしよう、
ヒトが生まれる前のように、一つの生命体、精神体として結合しよう、というのが、この人類補完計画の目的である。
そのキーワードとなるのが、エヴァシリーズと、使徒、そして綾波レイ(声/林原めぐみ)だった。
エヴァが社会現象とまで言われるほど人々をひきつけたのは、平等と自由とが当たり前になった皆がアイデンティティを見出せなくなったことと、この謎めいた世界観のためである。
少なくとも、アニメ、劇場版ともに見る限りでは、かなり説明不足である。
リリスとは? アダムとは? エヴァとは? 使徒とは?
疑問は永遠に続く。
しかし、このアニメの成功は正にそこにある。
それは「AKIRA」との決定的な差だと思う。
言うまでもなく、「AKIRA」は偉大な漫画であり、映画だった。
しかし、漫画でもアニメでも、その世界観を「説明しすぎた」のだ。
だからそのメカニズムが説明されたら、物語の魅力がうせてしまった。
少なくとも僕はそう思う。
もちろん、説明しようと思えばできるのかもしれない。
そしてそれを監督や漫画家から引き出すこともできるだろう。
しかし、この決定的な説明不足が、観客や視聴者を駆り立てるのである。
少し話を戻そう。
シンジ君は、結局、「僕はここにいてもいいんだ」という答えを見出し、そのアイデンティティを取り戻した。
これは現代へのメッセージである。
このシンジの悩みと答えに共感する人が多かったので、人気が出たのだと思う。
平等と自由が当たり前になった現代、自分はなにものであるのか、という問いが殆んど人生においての命題になりつつある。
先ほどからしきりに「アイデンティティ」という語を用いているが、このことばが使われること自体が、「個性(個人)」の喪失である。
人々はどこへ行ってもいい。
どんな仕事に就いてもいい。
しかし、この自由さが、他者の中の自己を曇らせてしまったのである。
そもそも、この映画の登場人物は、漢字の名前を持たない。
サードのシンジ、セカンドのアスカ、ファーストのレイ、母親のユイ、父親のゲンドウ、赤木リツコ博士、作戦指揮のミサト、その恋人・加持リョウジなどなど。
それは、自己を持たない透明な存在であることを意味している。
「音(=存在、シニフィアン)」はあるが、「意味(=個性、シニフィエ)」は持っていないのである。
ほとんど代名詞といってもいい。
指示詞ではあるが、そこに意味はない(厳密には変化しない意味がない)のである。
それは観客への問いかけでもある。
後半では映画を観ている観客がコラージュのように挿入される。
それは、「あなたたちの問題でもあるのよ」という問いかけに思えて仕方がない。
一人ひとりがどんな世界を描くのか。
どんな存在でありたいのか。
それらは全て、自身にかかっているのだ、ということだ。
いわば、現代に生きる若者への応援歌である。
そして、この映画をどう捉えるか、ということも同じなのである。
僕が今まで書いたような解釈で捉えることは、充分出来るだろう。
さらに言えば、使徒=父親というメタファーを読むことも可能かもしれない。
エヴァに乗ることで使徒(父)と対峙する、というコードも可能ではある。
また、単なるロボット・アニメとしても構わない。
それぞれどんなコード(=読むための暗号、鍵)をもって〈読む〉か。
それはあなた自身の問題なのである。
余談だが、僕は精神的にヘコんだ時に見ることにしている(点数は完全に主観だ)。
何度観ても、僕はこの命題を消化しきれたようには思えない。
自由と平等が保障されたこの時代には、答えを出すことは不可能なのかもしれない。
(2004/2/21執筆)
監督:庵野秀明
夏に公開された、劇場版の二作目。
この劇場版は、テレビ放送された全26話のなかで、最後の2話を新たに撮りなおされたものである。
よって副題が「Air」「まごころを、君に」という二つあり、それは、途中で一度スタッフロールが入り、二部構成になっていることでもわかる。
本編テレビ・アニメの第24話までで、アスカ(声/宮村優子)は、完全にエヴァに乗ること(シンクロ率一桁)ができなくなり、自失してしまう。
また、碇シンジ(声/緒方恵美)は、新しく送られてきたフィフス・チルドレン(第五適格者)に信頼を寄せるが、実はその渚カヲルは使徒であることが判明、自らの乗るエヴァでカヲルを殺してしまう。
そして、この映画では、最後の使徒(シ者)であるカヲルを倒したあと、特務機関ネルフがその権力を削がれ、チルドレン(エヴァ・パイロット)たちが心を閉ざしてしまった状態から、始まる。
ゼーレたちは、最大の目的である「人類補完計画」を実行に移すべく、人工知能MAGIへのハッキングを試みる。
赤木リツコの協力もあり、ハッキングを抑えることに成功したが、今度は、ゼーレ率いる軍隊が、物理的にネルフへと侵攻し始める。
人間の手による物理的対応は想定外であったため、ネルフはどんどん侵攻されていく。
やがてエヴァ弐号機に匿われていたアスカが、「エヴァ」に乗る意味を見出し、覚醒する。
新世紀エヴァンゲリオンの最終の2話を、より具体的に焼きまわした作品として
紹介してもいいだろう。
テレビではシンジがずっと自分と向き合う対話が連続的に展開され、シンジなりの「答え」を見出して完結する。
しかし、それはシンジの心のなかでの話であるため、外界の変化がよくわからなかった。
この劇場版では、その疑問に答える形になっている。
▼以下はネタバレあり▼
ちなみに僕は、このエヴァに関して、存在を知り、好きになったのはブームが一通りすぎさったあとだった。
また、エヴァに関して、インターネットやその他で調べたり、庵野監督のインタビュー記事等を読んだりはしていない。
ゆえに、僕のこの〈読み〉は、僕自身が勝手に捉えたものだと思ってほしい。
僕の周りではこの劇場版は賛否両論(というか酷評のほうが多い)だったが、僕にはこれ以上ない終わり方だったと思う。
エヴァはこの劇場版によって完全に「補完」され、そして完結した。
これ以上の説明は不可能だし、これ以上物語をすすめることも不可能だろう。
エヴァンゲリオン自体の話をすれば、これは典型的なエディプス・コンプレックスであるといえるだろう。
エヴァは母親の意識が書き込まれているし、主人公・碇シンジは父親と絶えず反発しあう。
そうした主人公が、「自分とは何か」という命題に対して解決をみる、と一応は言ってしまえる。
そもそも、ATフィールドとは、カヲル君が言うように、「心の壁」である。
もっと具体的に言えば、人と人とを区別するときの意識の壁である。
つまりは、自己と他者を分かつアイデンティティの壁である。
アスカが、自分の存在を肯定できたとき、ATフィールドを全快して戦ったのは、
自分と他者との境界を見出せたからに他ならない。
また、アンチATフィールドを展開し、人類を補完しようとしたのは、心の壁を取り除き、他者と自己とを一つへ還えすためである。
ゼーレが推し進めていた「人類補完計画」とは、正に、他者と自己を分けているATフィールドを取り除き、「かけた心の補完」を目ざしたものだった。
人間は誰でも、自分にない部分で誰かにあこがれたり、誰かを愛せなかった悲しみを抱えていたりする。
そのために「自己」を見失い、喪失し続けるのである。
ならばその欠けた心を一つにしよう、
ヒトが生まれる前のように、一つの生命体、精神体として結合しよう、というのが、この人類補完計画の目的である。
そのキーワードとなるのが、エヴァシリーズと、使徒、そして綾波レイ(声/林原めぐみ)だった。
エヴァが社会現象とまで言われるほど人々をひきつけたのは、平等と自由とが当たり前になった皆がアイデンティティを見出せなくなったことと、この謎めいた世界観のためである。
少なくとも、アニメ、劇場版ともに見る限りでは、かなり説明不足である。
リリスとは? アダムとは? エヴァとは? 使徒とは?
疑問は永遠に続く。
しかし、このアニメの成功は正にそこにある。
それは「AKIRA」との決定的な差だと思う。
言うまでもなく、「AKIRA」は偉大な漫画であり、映画だった。
しかし、漫画でもアニメでも、その世界観を「説明しすぎた」のだ。
だからそのメカニズムが説明されたら、物語の魅力がうせてしまった。
少なくとも僕はそう思う。
もちろん、説明しようと思えばできるのかもしれない。
そしてそれを監督や漫画家から引き出すこともできるだろう。
しかし、この決定的な説明不足が、観客や視聴者を駆り立てるのである。
少し話を戻そう。
シンジ君は、結局、「僕はここにいてもいいんだ」という答えを見出し、そのアイデンティティを取り戻した。
これは現代へのメッセージである。
このシンジの悩みと答えに共感する人が多かったので、人気が出たのだと思う。
平等と自由が当たり前になった現代、自分はなにものであるのか、という問いが殆んど人生においての命題になりつつある。
先ほどからしきりに「アイデンティティ」という語を用いているが、このことばが使われること自体が、「個性(個人)」の喪失である。
人々はどこへ行ってもいい。
どんな仕事に就いてもいい。
しかし、この自由さが、他者の中の自己を曇らせてしまったのである。
そもそも、この映画の登場人物は、漢字の名前を持たない。
サードのシンジ、セカンドのアスカ、ファーストのレイ、母親のユイ、父親のゲンドウ、赤木リツコ博士、作戦指揮のミサト、その恋人・加持リョウジなどなど。
それは、自己を持たない透明な存在であることを意味している。
「音(=存在、シニフィアン)」はあるが、「意味(=個性、シニフィエ)」は持っていないのである。
ほとんど代名詞といってもいい。
指示詞ではあるが、そこに意味はない(厳密には変化しない意味がない)のである。
それは観客への問いかけでもある。
後半では映画を観ている観客がコラージュのように挿入される。
それは、「あなたたちの問題でもあるのよ」という問いかけに思えて仕方がない。
一人ひとりがどんな世界を描くのか。
どんな存在でありたいのか。
それらは全て、自身にかかっているのだ、ということだ。
いわば、現代に生きる若者への応援歌である。
そして、この映画をどう捉えるか、ということも同じなのである。
僕が今まで書いたような解釈で捉えることは、充分出来るだろう。
さらに言えば、使徒=父親というメタファーを読むことも可能かもしれない。
エヴァに乗ることで使徒(父)と対峙する、というコードも可能ではある。
また、単なるロボット・アニメとしても構わない。
それぞれどんなコード(=読むための暗号、鍵)をもって〈読む〉か。
それはあなた自身の問題なのである。
余談だが、僕は精神的にヘコんだ時に見ることにしている(点数は完全に主観だ)。
何度観ても、僕はこの命題を消化しきれたようには思えない。
自由と平等が保障されたこの時代には、答えを出すことは不可能なのかもしれない。
(2004/2/21執筆)
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