車の中に、童謡が流れている。
「ふるさと」の一節が車内に広がる。
子どもたちは聞くともなく聞いている。
私は運転しながら、その歌詞に注目する。
大正3年(1914年)に発表されたというこの曲は、長らく私たちの心に深く刻まれた楽曲である。
しかし、驚くべきことに、この大正3年の時点で、都会と故郷とが対比されているという点だ。
「忘れがたきふるさと」とあるのは、すでに都会にでて働いている労働者の心を詠んだものだ。
ここには明確な対比がある。
都会と故郷(田舎)という対比である。
おそらく高い志をもって故郷を出発した若き男性(とうぜんここで前提にされているのは男性だろう)は、立身出世するために東京を目指す。
しかし、その東京ではすでに水は清らかではないし、故郷にあったような自然も見られない。
「忘れがたき」とあるけれども、それは逆説的に遠く隔たってしまった〈現在〉を意識させる。
今から100年も前にすでに私たちは故郷を忘れ去って都会に出ることを決心してしまった。
【彼】が、故郷に戻ってくるのはちょっと考えにくい。
すでに失ってしまった人間関係、家、家業は、不可逆的な必然である。
そんな彼はすでに、孫どころか曾孫がいてもおかしくない。
そんな子孫たちが、果たして「ふるさと」をいだけるのか。
私は何気なくこの歌を聴いていたが、すでにこの歌を想定できる「ふるさと」さえ持たないことに絶望的な気持ちになった。
水が清い、山が青いふるさとは、私たちの中にもはや存在しない。
私たちは「ふるさと」を、土日になったら大型ショッピングモールにせっせと通うそんな田舎町に見いだすしかなくなっている。
いったい今の小学生はこの歌をどう歌うのだろう。
(うちの小学生が何を歌っているのか、知らないけれど)
「ふるさと」の一節が車内に広がる。
子どもたちは聞くともなく聞いている。
私は運転しながら、その歌詞に注目する。
大正3年(1914年)に発表されたというこの曲は、長らく私たちの心に深く刻まれた楽曲である。
しかし、驚くべきことに、この大正3年の時点で、都会と故郷とが対比されているという点だ。
「忘れがたきふるさと」とあるのは、すでに都会にでて働いている労働者の心を詠んだものだ。
ここには明確な対比がある。
都会と故郷(田舎)という対比である。
おそらく高い志をもって故郷を出発した若き男性(とうぜんここで前提にされているのは男性だろう)は、立身出世するために東京を目指す。
しかし、その東京ではすでに水は清らかではないし、故郷にあったような自然も見られない。
「忘れがたき」とあるけれども、それは逆説的に遠く隔たってしまった〈現在〉を意識させる。
今から100年も前にすでに私たちは故郷を忘れ去って都会に出ることを決心してしまった。
【彼】が、故郷に戻ってくるのはちょっと考えにくい。
すでに失ってしまった人間関係、家、家業は、不可逆的な必然である。
そんな彼はすでに、孫どころか曾孫がいてもおかしくない。
そんな子孫たちが、果たして「ふるさと」をいだけるのか。
私は何気なくこの歌を聴いていたが、すでにこの歌を想定できる「ふるさと」さえ持たないことに絶望的な気持ちになった。
水が清い、山が青いふるさとは、私たちの中にもはや存在しない。
私たちは「ふるさと」を、土日になったら大型ショッピングモールにせっせと通うそんな田舎町に見いだすしかなくなっている。
いったい今の小学生はこの歌をどう歌うのだろう。
(うちの小学生が何を歌っているのか、知らないけれど)
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