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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ノルウェイの森

2010-12-16 20:22:17 | 映画(な)

評価点:60点/2010年/日本

監督:トラン・アン・ユン

語る位置を失った「僕」。

1976年、高校生のキヅキ(高良健吾)と直子(菊池凛子)、そして「僕(ワタナベ(松山ケンイチ))」は、恋人と友人という奇妙な関係でずっと三人一緒だった。
ある日、突然キヅキは車に排ガスを引き込み、自殺してしまう。
大学生になり、逃げるように東京に向かった僕は、東京で直子と再会する。
キヅキの話題に全く触れることができない二人は、ただ時間を共にすることでキヅキを失った悲しみを癒し続けていた。
直子の20歳の誕生日、二人の関係に変化が訪れるが……。

村上春樹の代表作、「ノルウェイの森」がついに映画化された。
その報道を聞いたとき、僕には不安と怒りが同時に起こった。
きっと小説はけがされてしまうだろう、そんな反応だった。

しかし、観ないわけにはいかない。
今まで村上春樹自身が映画化を拒み続けていた作品なのに、今回は了承したという。
「M4」会でずいぶん前から企画されていた「ノルウェイの森」。
全員が原作を読み、そして村上春樹の作品を愛している。
そんなある種春樹オタクの四人が公開二日目のレイトショウで鑑賞した。

▼以下はネタバレあり▼

【批評にあたって】
どんな作品でも同じだが、原作を読んだものにとって、原作を無視して映画を鑑賞したり語ったりすることは不可能だ。
僕は気をつけて観るように心がけるのだが、やはり無理だ。
そして、今回は完全に原作との比較という視座をもって観てしまった。
僕にとって「ノルウェイ」は大切な作品だし、2月ごろに再読したところだったからだ。

村上春樹の作品の中でもとりわけ評価され、解体されて、論じられてきた作品だ。
僕は基本的に作品論やテクスト論、作家論には耳をふさいできた人間なので(いまだ評価が定まっていない春樹にはしょうもない研究者が多すぎてまともな評論が極端に少ないので時間の無駄なのだ)、原作の批評としてではなく、あくまでこの「映画」として文章を展開したいと思う。

【焦点化された脚本】
恋愛、全共闘、青春、死、精神、性交など、さまざまなテーマやモティーフをもつ原作を、監督はばっさりと焦点化している。
もしこれが下手な監督なら、逐一原作の「再現」をしてしまうだろうが、彼はそうはしなかった。
ファンの多い原作をとりあえず、ばっさりと切り捨て、描きたいところだけを取り上げて脚本を書いている。
突撃兵など魅力的な人物も、背景化することで、物語はずいぶんすっきりした。

結局どこを取り上げたのか、焦点化したのかといえば、それはワタナベ君を取り巻く三角関係である。
「僕」は幼馴染のキヅキと直子との間に挟まれてずっと三角関係で過ごしてきた。
それは直子を真ん中に置いて取り合うといった恋敵のような関係ではなかった。
しかし、キヅキと直子は深く愛し合いながらも、それを二人という「ペア」の関係では成立し得なかったのだ。
だからキヅキは死んでしまう。
キヅキの死の理由はわからない。
観客に戸惑いを投げかけるだけでしかなく、「なぜ」と問うよりも、「だから」と考えるほうが自然なのだろう。
キヅキが自殺してしまった、だから「僕」と直子の関係は上手くいかなくなる。

直子はキヅキの自殺の理由をとらえることができなかったし、また受け止めることもできなかった。
「僕」といることはかつてあり、今は失われた三人の時間の喪失を感じさせることになる。
直子は東京の大学へ行き、「人とどのように接すればいいのか」を考え続ける。

やがて「僕」と惹かれあうようになっても、それはキヅキの存在を抜きには成立し得ないものだった。
一旦は「僕」を受け入れた直子も、やはりペアでは関係が持たない。
だから直子は「僕」のもとでいられなくなる。

「僕」にしても、同じだ。
直子と一緒にいたいと考えながらも、二人として関係を築けない。
だから緑と付き合いはじめる。
かといって、緑と二人の関係になることもできない。
それは直子という存在が「僕」をつなぎとめている(あるいは縛っている)からこそ、関係が築けるのだ。

緑(水原希子)も同じだ。
緑は彼氏と「僕」との三角形でようやく落ち着いている。
終幕で「どこにいるの?」といわれて「どこにいるのだろう」と混乱する「僕」に対して、緑はうまく関係を築けるだろうか。
おそらく無理だろう。
お互い誰かとつながりながらでなければ、二人は二人として向き合うことはできないのだ。

永沢(玉山鉄二)さんも同じ。
ハツミ(初音映莉子)さんとの関係を続けながら、それでも他の女性との遊びをやめることがない。
ハツミさんも、そういう彼とでなければ、ペアになることができないのだ。
だから、永沢さんと別れても、結婚生活を長続きさせることができない。

京都の療養所にいるレイコと直子、そして「僕」の関係も同じだろう。
レイコさんも別れた夫と「僕」との三角形を描きながら、抱かれる。

物語は焦点化されることで、監督がどのような「ノルウェイの森」を描こうとしたいのか明確になった。
それが原作と同じテーマ性をもつのか、それはまた別の問題だ。
けれども、三角形を描きながら、それでも対の関係になろうとしつづける悲しみを描いている。
その広がりは、肉体と精神との関係性も無関係ではない。

何度もセックスのシークエンスが出てくる。
それは原作にもあったことだが、単純なものではなく、肉体と精神の乖離が一つのテーマになっている。
相手を受け入れる準備ができるかどうか、また愛する相手が別にいながら目の前の相手とセックスする。
それはまさに恋愛の三角形を象徴するかのように、自分の肉体と精神、そして相手との乖離や齟齬を描き出す。
なぜかたくなに下着を着けたままなのか、とか描写そのものの違和感は拭い去れないにしても、描こうとしているものは理解できる。

物語のテーマを大胆に改変したわけではないが、原作にあった様々な要素を背景化し、三角関係に焦点化したことについて、僕は評価できると思う。
「○リーポッター」のような単なる映像化にとどまらない、「映画化」だった気がする。

【語る位相を失った「僕」】
だが、それにしても物語が軽い。
それは原作にある文体の軽さとは全く意味合いが違う。
「僕」の悲しみが軽すぎる気がするのだ。
なぜだろう。

それは冒頭からはじまっている。
現在から語るという位相がすっぽりと抜け落ちてしまっているからだ。
原作がすべていいという意味ではもちろんない。
けれども1976年のころのことを描いていくのに、なぜ今なのか、という視点は絶対に必要だったような気がする。
いまのいままで語ることができなかった重み、そしてそれを語らずにはいられない重みと悲しみ。
手探りで、かすんでいく直子の記憶をずっととどめるべきだと考えながらも、意志とは無関係に指からすり抜けていく直子の姿。
そういった「現在から語る」という位相がなければ、「どこでもない場所」の象徴性、そして無くしてしまったものがどういったものなのか、無くしてしまった現在はそれがどうなっているのか、そういった悲しみが描けない。
「悲しみは悲しみぬくしかない。また新たな悲しみが訪れてもその悲しみは何の役にも立たない」という「僕」の実感がどのようなものだったのか、わからない。
なにより、自分自身を語るということを、独白であれ、手紙であれ、電話であれ、対話であれ、一貫して描いてきたのに、それを包む入れ子型の外側がないのは、不自然だ。
そもそも「僕」はなぜ語るのか。
その点に重みが生まれたはずなのに。

それは映像の軽さにもあらわれている。
全共闘真っ只中のあのころ、あれほど、物が溢れていただろうか。
もっといえば、あれほど綺麗(清潔)だったのだろうか。
僕にはわからないが、違和感が残る。
ハイカラでカラフルな社会と、何も無い孤高の京都の療養所、その対比を描きたかったのだろうとしても、鮮やか過ぎる色使いの軽さは、どこかちぐはぐな印象を受ける。

音楽にしても、存在感がありすぎ、静寂との対比が露骨で、違和感を禁じえない。
綺麗で印象的な映像と音楽だっただけに、テーマと雰囲気との齟齬が目立ってしまう。
原作にあった文体の雰囲気を再現することは、やはり外国人監督には難しかったのだろうか。

【ガチャピン化する直子】
エンドロールが終わったあと、映画館にあかりが戻ったとき、M4会のメンバーがこんなことを言った。
「もう途中から凛子がガチャピンにしか見えなかった」
四人は大爆笑だった。

何がいいたいかといえば、直子はミスキャストだったということだ。
キャスティングが発表された時から、これはまずいという印象を持ったけれども、その予感は的中した。
菊池凛子は菊池凛子だったのだ。
直子の容姿と合わないし、雰囲気もやはり違っている。
それは原作を知るものだからなのかもしれないが、心を壊していく難しい役どころで、なおかつずっと心を離さない印象的な女性。
そういった役者ではなかったのだろう。
細すぎる緑も違和感があった。

直子や緑を演じたというよりも、役者の色に染まりすぎた、そんな印象だ。
仕方ないといえばそれまでだが…。

逆に松山ケンイチはよかった。
もう少し僕は中肉中背のイメージだった(村上春樹自身の影響で)が、あまりに美形の俳優でなくてよかったとおもう。

この映画化は一応、及第点を与えることはできると思う。
けれども、原作にあった雰囲気は残念ながらかなりの部分が失われてしまった。
ばっさりと脚本を焦点化したにもかかわらず、テンポが悪すぎる。
冗長なリズムが眠気を誘うし、もっと短くしても同じような内容は描けた気がする。

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00年代映画ベストテンが講談社のムック「映画のセオリー」に掲載されました (しん)
2010-12-17 22:34:07
menfith様

ご無沙汰しておりましたが、面白い映画を沢山ご覧になっておいででしょうか
「自主映画制作工房Stud!o Yunfat 映評のページ」の管理人しんです。
約一年前に当ブログで企画しました「ブロガーによる00年代映画ベストテン」にご協力いただきありがとうございました。

その「ブロガーによる00年代映画ベストテン」が、このたび講談社のセオリームックシリーズ「映画のセオリー」という本で取り上げられました。
大きな扱いではなく色々な映画ランキングに混じって私たちのランキングが紹介されているだけではありますが、それでもこうして世に出ることができましたのも、ご協力頂いたmenfith様をはじめとしたブロガーの皆さんのおかげと感謝しております。
件の本につきましては当ブログに紹介記事を書きましたので、そちらを参照してください。

年末年始という我ら映画ファンには個人ベスト選出であれやこれやと悩ましくも楽しい時期を迎えようとしております。menfith様のベスト、楽しみにしています。またよろしくお願いします。
返信する
書き込みありがとうございます。 (menfith)
2010-12-20 12:16:56
管理人のmenfithです。

>しんさん
すっかりご無沙汰しています。
雑誌自体は書店で見かけましたが、そのままスルーしていました。
もう一度書店に行って、手に取ってみようと思います。

まさかそんなに大事になるとはおもいませんでしたが、嬉しい限りです。

また、今年一年のランキングは来年頭にでも発表します、よろしくお願いします。
また、しんさんのブログにも書き込みに行きます。

ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。
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