評価点:53点/2021年/アメリカ/115分
監督:アダム・ウィンガード
見るべき点がない。
コングとゴジラを引き合わせると人類が滅亡するほどの惨事が起こることが分かったモナークはコングを大型ドームで捕縛することにした。
しかし、その領域はコングにとって狭く怒りと悲しみを覚える日々だった。
一方、最先端科学技術を売りにしたアペックスの研究所が突如現れたゴジラに襲われた。
巨大生物に対する危機が迫っていると訴えるアペックスCEOのウォルター・シモンズ(デミアン・ビチル)は、地底空間にあると思われる大量のエネルギーを目当てに、冒険家ネイサン・リンド(アレクサンダー・スカルスガルド)を地底空間探索のメンバーに引き入れる。
ネイサンの知人であるコングの研究者アイリーン(レベッカ・ホール)は、コングの故郷を探すため、という話を聞き、しぶしぶコングにその道案内をさせることに同意する。
モンスター・ユニバースの世界観を共有する、ゴジラ、コングの対決を描いた作品。
マーヴェルの一連の流れからも、このような同じ世界観をもつ映画を連作すると一定ファンがつき、ある程度売れることが見込めるからこのような作品が作られるのだろう。
私は2014年の「ゴジラ」以降、「キングコング」「ゴジラ キング・オブ・モンスター」と立て続けに劇場に足を運んだ。
そうでなければスルーするところだが、幼少期からゴジラに親しんだこともあり、見ることにした。
この鑑賞に当たって前作を見直したりはしていない。
劇場公開されている映画は他にもあるし、またこれから本格的に公演が再開されていくのでこの映画を見る必要があるかは微妙なところだ。
正直、映画としての出来はよくない。
それでも一定、アクションとしては需要はあるかもしれないが、これを行くくらいなら「シン・エヴァ」をもう一度行ったほうがいい。
▼以下はネタバレあり▼
私は終始退屈だった。
どんな大音量で音楽や音響を流されても、まったく心が動かされない。
最近映画館に行く回数自体が減っているので、久しくこの期待外れの印象を持っていなかったので、余計にその落胆は大きかった。
非常に、おもしろくない。
脚本家は確かに難しかった。
ゴジラとコングを戦わせたあげく、白黒付けさせない展開にして、余韻を残して終わることを求められていた。
そうでなければ、どちらのファンも納得しない。
というか、往年「ゴジラ」の展開は基本的にすべて勝ち負けを付けずに終わる。
喧嘩両成敗、喧嘩してわかり合おう、という昭和の精神がそこにはある。
まして日本を代表とするゴジラと、アメリカの古典作品であるコングを、どちらに分があるかというのは非常にセンシティブな内容を含んでしまう。
そのためには第三者の敵を設定する必要がある。
そういう制約があるのは分かるが、その「逆算から生まれたシナリオ」では到底物語として昇華したものにはならなかった、ということだろう。
コングの故郷を探すために地底探索を行う。
巨大なジオフロント(そこにはセントラルドグマがあるという)に、コングが生まれた故郷があるという、そこにコングを帰すために探索が行われる。
一方、これを企画したエイペックス(音楽事務所ではない)は、その地底空間にあるという無限のエネルギーを利用して儲けようと考えていた。
だから、地上を舞台にした物語、というよりは、異世界に冒険にいき、再び帰って来るという往来の物語になっている。
実質的には冒険譚に近い。
問題は、ここで発見される異世界が、一昔前の世界観であり、「異世界」ではないということだ。
コングがここで生まれてここで育ったのではないか、という「文明」が残されている。
この描写がいただけない。
完全にそこにある世界は、「人間の世界をもした世界」にすぎないからだ。
まるで「インディ・ジョーンズ」のようなノリだ。
玉座があり、斧があり、斧が装置のトリガーになり。
ここには異世界としての畏怖や、得体の知れないものを相手にしているという恐怖もない。
「ああ、やっぱり人間的な知能があったんだ!」というむしろ安心感。
「え? コングって人間みたいな発想だったの?」というむしろ失望感。
コングの故郷を探す、という物語の本質に関わる設定をここで明かしてしまう必要があったのかどうか。
「やっぱり謎のままだった」というほうが物語としてはよかったのではないか。
そしてそこで明かされたのは、ゴジラの謎でもある。
ゴジラのあの咆哮は、核兵器などではなく地底鉱物によるものだった、ということも明かされる。
要するに、そこには環境破壊や人間への行いへの警句でもなかったわけだ。
え? 冒頭の核爆発みたいな映像はいったい何だったの?!
この映画の失敗の要因は、一つに、世界が明かされすぎてしまった、ということだ。
わからないから恐怖や畏怖を抱くのに、分かってしまえば「ふ~ん、案外普通ね」となってしまう。
ゴジラもコングも、まとっていた「得体の知れないモンスター」という記号が剥がされてしまう。
そして残ったのは「ただのでかいヤツ」というだけの話だ。
これで人間によるコントロールさえできるかもしれないと思わせるくらいの、平凡な長物になってしまった。
もう一つは、この映画にキャラクター名を覚えられるくらいのまともなキャラが一人もいない、という点だ。
だれもが狂言回し、誰もがその内面を見せない上っ面のキャラクターしか登場しない。
そこにモンスターに賭ける情熱や、人生の悲哀などをもつ人物がいない。
黒人の素人DJのバーニー(ブライアン・タイリー・ヘンリー)くらいが熱を帯びているが、彼も結局はただの「騒ぎたいだけの男」である。
探検家も、研究者も、研究機関の署長の娘も、CEOも、まったくその役どころとしては力不足だ。
だから、怪獣を見上げたときの恐怖や興奮が伝わってこない。
「でかいなぁ。すごいなぁ」とした思えないし、もちろんリアリティはない。
作り物であることが分かっている上に、その動きも非常に人間じみている。
大きいサルと、犬、ワニがそれぞれ戦っているように見えて、滑稽ですらある。
それは彼らの造形の問題ではなく、それを見つめる人間がいないからだ。
それなりに「ゴジラ映画」のような趣はある。
けれども、そこにあるべきパッションはすでにない。
前作はほとんど覚えていないので、なんとも言えないが、前作と同じであるとすれば飽きただけなのかもしれない。
とにかくお金を払って見に行く価値は、「久々に映画館に行きたい」という欲求を叶える点でしか見いだせないのが、私の評価だ。
監督:アダム・ウィンガード
見るべき点がない。
コングとゴジラを引き合わせると人類が滅亡するほどの惨事が起こることが分かったモナークはコングを大型ドームで捕縛することにした。
しかし、その領域はコングにとって狭く怒りと悲しみを覚える日々だった。
一方、最先端科学技術を売りにしたアペックスの研究所が突如現れたゴジラに襲われた。
巨大生物に対する危機が迫っていると訴えるアペックスCEOのウォルター・シモンズ(デミアン・ビチル)は、地底空間にあると思われる大量のエネルギーを目当てに、冒険家ネイサン・リンド(アレクサンダー・スカルスガルド)を地底空間探索のメンバーに引き入れる。
ネイサンの知人であるコングの研究者アイリーン(レベッカ・ホール)は、コングの故郷を探すため、という話を聞き、しぶしぶコングにその道案内をさせることに同意する。
モンスター・ユニバースの世界観を共有する、ゴジラ、コングの対決を描いた作品。
マーヴェルの一連の流れからも、このような同じ世界観をもつ映画を連作すると一定ファンがつき、ある程度売れることが見込めるからこのような作品が作られるのだろう。
私は2014年の「ゴジラ」以降、「キングコング」「ゴジラ キング・オブ・モンスター」と立て続けに劇場に足を運んだ。
そうでなければスルーするところだが、幼少期からゴジラに親しんだこともあり、見ることにした。
この鑑賞に当たって前作を見直したりはしていない。
劇場公開されている映画は他にもあるし、またこれから本格的に公演が再開されていくのでこの映画を見る必要があるかは微妙なところだ。
正直、映画としての出来はよくない。
それでも一定、アクションとしては需要はあるかもしれないが、これを行くくらいなら「シン・エヴァ」をもう一度行ったほうがいい。
▼以下はネタバレあり▼
私は終始退屈だった。
どんな大音量で音楽や音響を流されても、まったく心が動かされない。
最近映画館に行く回数自体が減っているので、久しくこの期待外れの印象を持っていなかったので、余計にその落胆は大きかった。
非常に、おもしろくない。
脚本家は確かに難しかった。
ゴジラとコングを戦わせたあげく、白黒付けさせない展開にして、余韻を残して終わることを求められていた。
そうでなければ、どちらのファンも納得しない。
というか、往年「ゴジラ」の展開は基本的にすべて勝ち負けを付けずに終わる。
喧嘩両成敗、喧嘩してわかり合おう、という昭和の精神がそこにはある。
まして日本を代表とするゴジラと、アメリカの古典作品であるコングを、どちらに分があるかというのは非常にセンシティブな内容を含んでしまう。
そのためには第三者の敵を設定する必要がある。
そういう制約があるのは分かるが、その「逆算から生まれたシナリオ」では到底物語として昇華したものにはならなかった、ということだろう。
コングの故郷を探すために地底探索を行う。
巨大なジオフロント(そこにはセントラルドグマがあるという)に、コングが生まれた故郷があるという、そこにコングを帰すために探索が行われる。
一方、これを企画したエイペックス(音楽事務所ではない)は、その地底空間にあるという無限のエネルギーを利用して儲けようと考えていた。
だから、地上を舞台にした物語、というよりは、異世界に冒険にいき、再び帰って来るという往来の物語になっている。
実質的には冒険譚に近い。
問題は、ここで発見される異世界が、一昔前の世界観であり、「異世界」ではないということだ。
コングがここで生まれてここで育ったのではないか、という「文明」が残されている。
この描写がいただけない。
完全にそこにある世界は、「人間の世界をもした世界」にすぎないからだ。
まるで「インディ・ジョーンズ」のようなノリだ。
玉座があり、斧があり、斧が装置のトリガーになり。
ここには異世界としての畏怖や、得体の知れないものを相手にしているという恐怖もない。
「ああ、やっぱり人間的な知能があったんだ!」というむしろ安心感。
「え? コングって人間みたいな発想だったの?」というむしろ失望感。
コングの故郷を探す、という物語の本質に関わる設定をここで明かしてしまう必要があったのかどうか。
「やっぱり謎のままだった」というほうが物語としてはよかったのではないか。
そしてそこで明かされたのは、ゴジラの謎でもある。
ゴジラのあの咆哮は、核兵器などではなく地底鉱物によるものだった、ということも明かされる。
要するに、そこには環境破壊や人間への行いへの警句でもなかったわけだ。
え? 冒頭の核爆発みたいな映像はいったい何だったの?!
この映画の失敗の要因は、一つに、世界が明かされすぎてしまった、ということだ。
わからないから恐怖や畏怖を抱くのに、分かってしまえば「ふ~ん、案外普通ね」となってしまう。
ゴジラもコングも、まとっていた「得体の知れないモンスター」という記号が剥がされてしまう。
そして残ったのは「ただのでかいヤツ」というだけの話だ。
これで人間によるコントロールさえできるかもしれないと思わせるくらいの、平凡な長物になってしまった。
もう一つは、この映画にキャラクター名を覚えられるくらいのまともなキャラが一人もいない、という点だ。
だれもが狂言回し、誰もがその内面を見せない上っ面のキャラクターしか登場しない。
そこにモンスターに賭ける情熱や、人生の悲哀などをもつ人物がいない。
黒人の素人DJのバーニー(ブライアン・タイリー・ヘンリー)くらいが熱を帯びているが、彼も結局はただの「騒ぎたいだけの男」である。
探検家も、研究者も、研究機関の署長の娘も、CEOも、まったくその役どころとしては力不足だ。
だから、怪獣を見上げたときの恐怖や興奮が伝わってこない。
「でかいなぁ。すごいなぁ」とした思えないし、もちろんリアリティはない。
作り物であることが分かっている上に、その動きも非常に人間じみている。
大きいサルと、犬、ワニがそれぞれ戦っているように見えて、滑稽ですらある。
それは彼らの造形の問題ではなく、それを見つめる人間がいないからだ。
それなりに「ゴジラ映画」のような趣はある。
けれども、そこにあるべきパッションはすでにない。
前作はほとんど覚えていないので、なんとも言えないが、前作と同じであるとすれば飽きただけなのかもしれない。
とにかくお金を払って見に行く価値は、「久々に映画館に行きたい」という欲求を叶える点でしか見いだせないのが、私の評価だ。
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