評価点:71点/2023年/日本/118分
原作:荒木飛呂彦
監督:渡辺一貴
もっとほしかったルーブル感。
次の作品にむけて、顔料を研究していた漫画家・岸辺露伴(高橋一生)は、不意に十代の記憶を呼び起こす。
「この世で最も黒い絵はなにか。それは山村仁左右衛門が描いた絵だ」
その思いにとりつかれた彼は、モーリス・ルグランという画家が描いたという黒い絵をオークションで競り落とす。
しかし、自宅に入った賊が、絵を奪おうとして露伴は襲われる。
取り返した絵の裏に、「ルーブル」と書かれていた。
気になった露伴は、パリのルーブル美術館にあるという仁左右衛門を求めてフランスに向かう。
NHKで放映されていた「岸辺露伴は動かない」シリーズの劇場公開作品。
まさか映画になるほど人気になるとは思っていなかったが、録画しつつドラマのほうは追っていた。
すぐにでも見るつもりだったが、なかなか時間が合わずに遅くなってしまった。
原作漫画「ジョジョ」が好きでなければ全く見る必要のない映画である。
平日に鑑賞したが、場内はほぼ満員。
危うく望んでいた時間帯に見られないかもしれないほどだった。
まさかそこまで人気が出るとは思っていなかったので驚いた。
モティーフが「黒い絵」なので、劇場などの暗い場所で鑑賞するのが適切だろう。
だから映画向きではある。
▼以下はネタバレあり▼
ドラマからのノリは継承されている。
よって、見やすい映画だし、期待を裏切られることはない。
まあ、おもしろかったし、悪くはなかった。
ただ、映画としての完成度が高いかと言われると、難しい。
もっと観客を信じて任せてくれてもよかったのに、という気がしないでもない。
スタンドという特殊能力がある漫画家が主人公。
異世界や怪異をモティーフに、取材と称して様々な不可思議を訪れる。
日常と非日常の区別が危ういところをゆく、というのがコンセプトなので、漫画らしい非現実的な描写を極力排除している。
原作の漫画ではスタンドそれ自体が読者にも明確に見えるように描かれるが、このドラマでは岸辺露伴の能力「ヘヴンズ・ドア」は観客には一切見えない。
ただ、能力が発動したことによって、人間を本にして読む、ということだけが観客にも見せるようになっている。
実写であることで、観客と地続きの世界を演出しているわけだ。
だから実写ドラマ化や映画化とは親和性がある。
しかし、それでもかなり工夫がされている。
たとえば音楽や、カメラワーク。
常に立体的になるように、登場人物それ自体を撮るのではなく、前景に花や柱といった小道具を置いて、立体的に見せている。
そうすることで、平面的な映像に奥行きを与えて、かつ、現実(=前景となる静物)と怪異(=登場人物たちが巻き込まれる出来事)とに連続性を持たせようとしている。
これはドラマでも見られた手法で、だからショットに違和感が生まれる。
結果、視聴者や観客は、世界の怪しさを意識させられ続けることになる。
そんな岸辺露伴が、青年の頃に出会った女性との記憶を頼りに、この世で最も黒い絵を探す旅に出る。
いわゆる往還の物語で、日本とパリを行き来することになる。
ほぼ原作通りの展開で、泉京香(飯豊まりえ)を入れることで、説明的台詞や物語の補強を行っている。
このあたりは脚色が非常にうまく、映画として成り立たせている所以でもある。
(ルーブルでの記念撮影のところは、本当にうまかった。
あれだけで泉京香というキャラクターが物語に必要不可欠であることを示している。)
原作との異同をこれ以上語っても無意味なので、映画の方を考えていこう。
結局、岸辺露伴が出会った菜々瀬(ななせ)という人物は、幽霊であり、岸辺露伴の祖先(血縁者)にあたる人物だった。
黒い絵を描いた仁左右衛門の怨念を食い止めるために、岸辺露伴を誘ったわけだ。
そこに映画的なミステリ要素として、贋作師を登場させて、物語に深みを与えていた。
映画では詳細のその真相を語っているので、ここで説明する必要はあるまい。
黒い絵は、その人やその人の祖先の罪を照射するようなチカラをもっており、見た者はその罪に襲われる。
クライマックスはルーブルの隠し倉庫となっており、セット感が強く、ルーブルというロケーションが生かされていなかったのが残念だ。
ただ、贋作のミステリから、ホラーそして、菜々瀬への淡い露伴の恋心とさまざまな要素をちりばめて真相が明かされるという構図になっている。
本編では、たしか自分にはヘヴンズ・ドアは使えなかったはずだが、なぜかここでは自分に書き込むことができる。
(それは原作の短編も同じだったはず)
それはおいておくとして、問題はその後の後日談だ。
幽霊にはヘヴンズ・ドアは使えない、という話を先にしていたのに、菜々瀬には使えてしまう。
ちょっと興がそがれてしまうところだ。
なにより、後日談を回想という単純な見せ方をしてしまったことで、説明めいた描写になってしまった。
そのことで、物語全体のカタルシスが減退してしまった。
もう少し構成を工夫すれば、より読後感がよかったはずだ。
(過去の文献を露伴が調べるとか、山村仁左右衛門の話を断片的にちりばめることで観客自身につなぎ合わせさせるとか)
説明的な話が多くなると、せっかくの異界との境界の物語が、どうしても言い訳じみて、不自然さ(リアリティの欠如)を感じさせる。
観客の理解力をもっと信じて、とんがった構成にしてもよかったと思う。
ただ、そうなるとかなり脚色しなければならなくなるので、原作ファンをターゲットにしている映画としてはつらいところだったのだろう。
期待を裏切られることはなかったが、期待を上回ることもなかった。
しかたがないか。
原作:荒木飛呂彦
監督:渡辺一貴
もっとほしかったルーブル感。
次の作品にむけて、顔料を研究していた漫画家・岸辺露伴(高橋一生)は、不意に十代の記憶を呼び起こす。
「この世で最も黒い絵はなにか。それは山村仁左右衛門が描いた絵だ」
その思いにとりつかれた彼は、モーリス・ルグランという画家が描いたという黒い絵をオークションで競り落とす。
しかし、自宅に入った賊が、絵を奪おうとして露伴は襲われる。
取り返した絵の裏に、「ルーブル」と書かれていた。
気になった露伴は、パリのルーブル美術館にあるという仁左右衛門を求めてフランスに向かう。
NHKで放映されていた「岸辺露伴は動かない」シリーズの劇場公開作品。
まさか映画になるほど人気になるとは思っていなかったが、録画しつつドラマのほうは追っていた。
すぐにでも見るつもりだったが、なかなか時間が合わずに遅くなってしまった。
原作漫画「ジョジョ」が好きでなければ全く見る必要のない映画である。
平日に鑑賞したが、場内はほぼ満員。
危うく望んでいた時間帯に見られないかもしれないほどだった。
まさかそこまで人気が出るとは思っていなかったので驚いた。
モティーフが「黒い絵」なので、劇場などの暗い場所で鑑賞するのが適切だろう。
だから映画向きではある。
▼以下はネタバレあり▼
ドラマからのノリは継承されている。
よって、見やすい映画だし、期待を裏切られることはない。
まあ、おもしろかったし、悪くはなかった。
ただ、映画としての完成度が高いかと言われると、難しい。
もっと観客を信じて任せてくれてもよかったのに、という気がしないでもない。
スタンドという特殊能力がある漫画家が主人公。
異世界や怪異をモティーフに、取材と称して様々な不可思議を訪れる。
日常と非日常の区別が危ういところをゆく、というのがコンセプトなので、漫画らしい非現実的な描写を極力排除している。
原作の漫画ではスタンドそれ自体が読者にも明確に見えるように描かれるが、このドラマでは岸辺露伴の能力「ヘヴンズ・ドア」は観客には一切見えない。
ただ、能力が発動したことによって、人間を本にして読む、ということだけが観客にも見せるようになっている。
実写であることで、観客と地続きの世界を演出しているわけだ。
だから実写ドラマ化や映画化とは親和性がある。
しかし、それでもかなり工夫がされている。
たとえば音楽や、カメラワーク。
常に立体的になるように、登場人物それ自体を撮るのではなく、前景に花や柱といった小道具を置いて、立体的に見せている。
そうすることで、平面的な映像に奥行きを与えて、かつ、現実(=前景となる静物)と怪異(=登場人物たちが巻き込まれる出来事)とに連続性を持たせようとしている。
これはドラマでも見られた手法で、だからショットに違和感が生まれる。
結果、視聴者や観客は、世界の怪しさを意識させられ続けることになる。
そんな岸辺露伴が、青年の頃に出会った女性との記憶を頼りに、この世で最も黒い絵を探す旅に出る。
いわゆる往還の物語で、日本とパリを行き来することになる。
ほぼ原作通りの展開で、泉京香(飯豊まりえ)を入れることで、説明的台詞や物語の補強を行っている。
このあたりは脚色が非常にうまく、映画として成り立たせている所以でもある。
(ルーブルでの記念撮影のところは、本当にうまかった。
あれだけで泉京香というキャラクターが物語に必要不可欠であることを示している。)
原作との異同をこれ以上語っても無意味なので、映画の方を考えていこう。
結局、岸辺露伴が出会った菜々瀬(ななせ)という人物は、幽霊であり、岸辺露伴の祖先(血縁者)にあたる人物だった。
黒い絵を描いた仁左右衛門の怨念を食い止めるために、岸辺露伴を誘ったわけだ。
そこに映画的なミステリ要素として、贋作師を登場させて、物語に深みを与えていた。
映画では詳細のその真相を語っているので、ここで説明する必要はあるまい。
黒い絵は、その人やその人の祖先の罪を照射するようなチカラをもっており、見た者はその罪に襲われる。
クライマックスはルーブルの隠し倉庫となっており、セット感が強く、ルーブルというロケーションが生かされていなかったのが残念だ。
ただ、贋作のミステリから、ホラーそして、菜々瀬への淡い露伴の恋心とさまざまな要素をちりばめて真相が明かされるという構図になっている。
本編では、たしか自分にはヘヴンズ・ドアは使えなかったはずだが、なぜかここでは自分に書き込むことができる。
(それは原作の短編も同じだったはず)
それはおいておくとして、問題はその後の後日談だ。
幽霊にはヘヴンズ・ドアは使えない、という話を先にしていたのに、菜々瀬には使えてしまう。
ちょっと興がそがれてしまうところだ。
なにより、後日談を回想という単純な見せ方をしてしまったことで、説明めいた描写になってしまった。
そのことで、物語全体のカタルシスが減退してしまった。
もう少し構成を工夫すれば、より読後感がよかったはずだ。
(過去の文献を露伴が調べるとか、山村仁左右衛門の話を断片的にちりばめることで観客自身につなぎ合わせさせるとか)
説明的な話が多くなると、せっかくの異界との境界の物語が、どうしても言い訳じみて、不自然さ(リアリティの欠如)を感じさせる。
観客の理解力をもっと信じて、とんがった構成にしてもよかったと思う。
ただ、そうなるとかなり脚色しなければならなくなるので、原作ファンをターゲットにしている映画としてはつらいところだったのだろう。
期待を裏切られることはなかったが、期待を上回ることもなかった。
しかたがないか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます