secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

25時(V)

2010-12-03 21:31:48 | 映画(な)

評価点:74点/2002年/アメリカ

監督:スパイク・リー

もっとシンプルにしても十分おもしろかったかも。

麻薬密売人だったモンティ(エドワード・ノートン)は仲間のタレコミによって七年の実刑をくらう。
翌日刑務所に送られるというその日、モンティは幼友達らとささやかな送別会を開いてもらう。
組織のボスニコライに呼びかけられたモンティは、ニコライの待つバーを訪れる。

セントアンナの奇跡」を撮ったスパイク・リーが監督した作品。
もう随分前にこの映画を見て、批評を書こうとして結局そのままになっていた。
今回改めて見直すことにした。

キャスティングもエドワード・ノートンやフィリップ・シーモア・ホフマンなど、いまでも活躍する俳優が出演している。
舞台がニューヨークで、しかもグランドゼロを敢えて場面に折りこんでいるため、時事ネタも取り入れられている。
ずいぶん前の映画なので、少し今の僕の感性では、的確ではないかもしれない。

▼以下はネタバレあり▼

まずタイトルを考えておこう。
「25時」というタイトルの原題は、「THE 25TH HOUR」である。
複数形になっていないことから、「25時間」という意味ではない。
作品の時間が、刑務所に入る一日前だからといっても、その間の「25時間」という意味ではない。

この原題に忠実に訳すなら、「25時間目」である。
この25時という時間は、もちろん、午後1時のことであるが、これは「次の日の一時間目」である。
タイトルに象徴されているのは、「次の日」の最初の一時間であり、「次の第一歩」ということなのである。

その一日とは、モンティが刑務所へ入るまでの物語であり、モンティを陥れた人間を捜す一日の物語でもある。
時系列がわかりにくいのでざっと確認しておく。
31歳のモンティは学生時代から麻薬の密売をはじめ、けっこうな金持ちになっていた。
マフィアの密売組織の傘下に入った頃(裏切った相棒のコースチャとやりとりしているシーンがある)、恋人のナチュレルと出会う。
高校生だった彼女と意気投合し、ともに暮らし始める。
高級マンションで高級車を乗り回す彼は絶頂だったが、何者かのタレコミで結局逮捕されてしまうことになる。

こうした一連の流れが挿入されるのは、ただ観客への説明というだけには止まらないだろう。
彼の半生が挿入されるのは、彼が過去を回想し、過去と向き合っているということを示したかったのだろう。
つまり、彼は刑務所の外の世界で起きた自分の「生」を走馬灯のように思い描いていたのだ。
それだけ彼にとって刑務所へ入るということが重たいものであることを暗示している。

その重さはモンティへ新たな道を示し始める。
彼は自分を陥れた人間を探しながら、自分と向き合い、これまでの友人関係を再考する。
結局心から信頼できる人間は誰なのか、なぜ自分は刑務所に入ることになったのか。
印象的なシークエンスに、鏡へ向かうモンティの独白がある。
彼は様々な人種でひしめくニューヨークに怒りをぶつけ、不満を吐露する。
だが、彼は最後に行き着くのだ。
「クソなのは俺自身だ」と。

そのシークエンスに象徴されるのが、この映画で得るモンティの答えだ。
結局、彼を売ったのは、組織の相棒だった。
それがばらされた時、組織のボス、ニコライに始末を命じられても、それを断る。
なぜなのか。
モンティはすでに答えを得ていた。
それは相棒が売ったから自分が刑務所に入るのではなく、自分自身のそれまでの行いによって刑務所にいくことになったのだ。
だから、相棒を殺すことはできなかった。
それはモンティが友人のフランク(バリー・ペッパー)に自分を殴らせたのも同じ理由だ。
モンティは自分の顔を壊すことで、刑務所でのレイプを避けようとした。
だが、顔の傷は治るものだ。
それでもなお、モンティが自分の顔を殴るように要求したのは、自分への贖罪なのだ。
これまで自分が行ってきたことがいかに愚かしいことなのか、いかに卑怯だったのか、それを悟った彼は、仲間に自分を殴らせようとしたのだ。

ラストで父親が逃避を勧める。
想像と言うにはあまりにも長いこのシークエンスは、どこまでも続く「たられば」を描いている。
だが、その幻は見るものを安心させ、落ちつかせる。
なぜあんなに安らかな想像を挿入したのだろうか。

それは刑務所に向かう車の中で、まさに自分自身を許すことができたからだろう。
宗教的な言い方をすれば、ケガレが落とされたのだ。
彼は恐らく模範的な囚人として収監されるだろう。
彼に待っている地獄も、彼にとってはすべて贖罪となる。
そのことを予感させるには十分なシークエンスだといえる。

彼の人生を描くということは、彼の人生にかかわってきた人間を描くということでもある。
友人のジェイコブも、また自分と向き合う。
それまで女気がなかった彼は、モンティと連れて行かれたバーで気のあった生徒にキスしてしまう。
最大の禁忌を犯してしまった彼は恍惚の中でバーをさまよう。
キスされた生徒も、また恍惚を感じている。
恐らく彼女も彼も、初めてのキスだったのだろう。
大人ぶった彼女の悲しみと、オトナでも男ではなかったジェイコブの不釣合いな男女関係が見え隠れする。
一つの課題を二人は乗り越えたのだ。

バリバリのマネーゲーマーのフランクもまた、課題を乗り越える。
ドライに旧友のジェイコブと「モンティは終わりだ。もう俺たちは俺たちのままではいられないんだ」
「あいつが麻薬を売っていたとき、俺たちはあいつを止めたのか。何もしなかった。悪いと分かっていないがら。」
と話す彼は、本当の友情と見つめることができなかった。
だが、彼は友人が刑務所にいく前の日にようやく気付くのだ。
「出所したら二人で店をやろう。それまで俺はずっと待ち続ける」

彼の言葉は衝動的だったが、そこに嘘はないだろう。
ドライになりきれない熱い友情を彼はようやく見つめることができたのだ。
だからモンティを殴りながら、耐ええざるほどの後悔と、謝罪を感じている。
なぜなら、「俺は止めることできる位置にいたのにお前をとめることができなかった。」ということだ。
そして、それなのに、贖罪の為の自傷行為を、自分が担っている。
本当に殴られるべきだったのは、きっとフランク自身だったのだ。
殴ることでやっと彼は本当の友人を見つけることが出来たのだ。
きっと殴られるほうよりも、殴っているフランク自身のほうが「痛かった」に違いない。

グランドゼロを描いたり、そこにある人種の壁を描いたりと、時事的な要素も含まれる。
恐らく当時のニューヨーカーでしか捉え切れない機微が隠されているのだろう。
僕にはそこまで理解できなかったのは残念だ。
だが、それにしても、様々な要素を詰め込もうとしすぎた印象は受ける。
テーマが面白いだけに、もっとシンプルにすればよかったのではないかとも思う。

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