評価点:55点/2003年/アメリカ
監督:ロジャー・ドナルドソン
CIAという組織を疑いたくなる。
1990年に父親が行方不明になったジェームズ(コリン・ファレル)はずっと父親の情報を探していた。
大人になったジェームズは、コンピューターエンジニアとして、ソフト開発をしていた。
ジェームズの才能を見出したバーク(アル・パチーノ)は、CIAで働かないかと、話を持ちかけた。
信用しないジェームズだったが、バークが父親についてほのめかしたことで、CIAにリクルートされることを了承する。
しかし、そこで待っていたのは、人をいかにだますか、そしてだまされないためにはどうすべきか、という疑心暗鬼の訓練の日々だった。
いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの若手優良株のコリン・ファレルのスパイ映画。
顔がカッコいいこともあり、女の子からモテモテ、モテ過ぎて、女タラシの異名をもつ、話題に事欠かない俳優である。
映画の中で、ラブシーンがあれば、それは私生活なのではないか、と思ってしまうほどのプレボーイである。
そのファレルと、実力派のアル・パチーノが競演したのが、この映画である。
CIAという題材に、この二人の俳優が共演しているというだけで、十分に観てみたいと思わせる。
▼以下はネタバレあり▼
CIAといえば、誰もが知っているように(?)、「中央情報局」の略であり、情報に関するあらゆる活動を行っている
アメリカの特殊機関である。
敵国へのスパイ活動や、諜報活動といった国家の保安にかかわる重要で、最上級の国家機密に直接触れる機関なのである。
FBIと混同しがちだが、FBIはあくまで捜査を目的とする警察機関のようなものなので、国家間の諜報活動を任務としているCIAとは大分意味合いは違う。
ちなみに、FBIは「Xファイル」のモルダーとスカリーがいるところである。
CTUはテロ対策ユニットで、バウワーがいるところだ。
CIAという機関は、僕の印象から言えば、かなり汚い仕事をしているところである。
映画に登場する場合、カッコ良く描かれることが多いが、実際には、この映画のようにかなりキワドイ仕事をしている。
しかも、それは日本とも無関係な機関ではない。
北朝鮮やイラン、イラクなど、アメリカと敵対しうる国には、必ず彼らが関わっている。
よく知らないが、9.11でビンラディンを犯人と断定したのも、CIAの情報網によるところが大きいらしい。
と、こんな事を書いたのも、この映画を理解しようと思えば、CIAについてのこれくらいの知識が、不可欠になっているからである。
それがこの映画の限界性でもあるのだが、それについては後で触れよう。
さて、物語は、父親の行方を捜し続けている男が、CIAの教官からスカウトされるところから始まる。
このバークが父親が何をしていたのか知っていると踏んだジェームスは、CIAに入り、訓練を受けることになる。
バークはCIAに入ることになったジェームズにこう忠告する。
「自分自身以外何も信じるな」と。
そしてCIAの訓練が始まる。
その訓練の模様は、同じコリン・ファレルの「SWAT」に似ている。
CIAがいかに過酷で、いかに人をだますためのトレーニングをしているか、という模様が描かれている。
それが色濃くあらわれるのが、「女を口説いて来い」という命令である。
その命令どおり、口説こうとしたジェームズが、ブリジット・モイナハン(「コヨーテ・アグリー」「アイ,ロボット」)扮する
酔ったレイラを介抱しようとすると、レイラは積極的にアプローチを仕掛けてくる。
ファレルがつられて店を出ると、「任務完了」。
女を口説くジェームズの任務を阻止するのが目的だったのである。
このようにだましあいを覚えさせられ、「どこまでが任務で、どこまでが本心なのか」分からなくなっていく。
この分からなくなっていく感覚というのは、当然観客にも向けられた伏線である。
コリン・ファレルのジェームズに同化し、感情移入している観客にとって、彼がだまされているかもしれない、ということは、自分達観客も、監督に、CIAに、だまされる映画である、ということを意味する。
ジェームズは訓練中、さらわれてしまい仲間の名前を云うように、拷問される。
レイラが白状したと聞かされたジェームズはとうとう、仲間や教官の名前を言ってしまう。
しかし、実はそれはCIAの訓練の一環であったことを聞かされる。
教官のバークは他の生徒達に言うのである。
「何があっても捕まってはいけない」
この訓練でCIAをクビにされたジェームズのところに、再びバークが現れ、首はウソだ、任務があるから請けろといわれる。
その任務というのが、この映画の中心的な事件となる。
「SWAT」も似たような展開で、訓練 → 実戦という展開だったが、この映画のほうが、うまくできている。
その任務の内容が、訓練中の出来事を伏線にできているからである。
その内容とは、恋仲になりそうだったレイラが、実は二重スパイで、彼女がCIAから情報を誰かにリークしているというものだった。
当初疑心暗鬼だったジェームズも、父親のことを知るというバークを信じ、任務を請けることにする。
このように整理すれば、オチが見えてしまうだろう。
この手法は、ミスディレクションの手段である。
要するに、バーク以外からの情報が欠如しているのである。
よって、この時点で疑い深い観客は、そのオチが読めてしまう。
ジェームズをだましているとすれば、バーク以外には考えられなくなってしまうのである。
ここに、だますだまされる映画でありながら、この映画がオチを隠し切れなかった理由がある。
今度は作品の流れではなく、オチのほうから真相を暴いていこう。
要するにオチは、CIAからコンピューターウイルスを持ち出すように頼まれたバークが、仕掛けた罠だったのだ。
手順はこうだ。
訓練が終了したザックとレイラは、任務としてCIAのセキュリティをチェックする作戦に従事する。
重要なデータを盗み出すことは可能か、というチェックである。
盗み出すデータは、偽物であるという前提だった。
(実際にはバークが本物に摩り替えていたのだが。)
ジェームズの方には、任務と称して、二重スパイのレイラを尾行させ、レイラがデータを持ち出す方法と、その相手先を特定させる。
そしてジェームズがその相手先を特定できれば、ジェームズからそのデータを奪い、めでたく報酬を受け取る。
もし、ジェームズが失敗すれば、レイラとザックから直接受け取ればいいのである。
このバークが犯人という伏線は、情報が彼からしか、もたらされないということだけではない。
安い給料だと連発したり、名誉もなく、信念だけが我々の動機だといったりすることで、かなりの不満があることをほのめかす。
また、「自分自身以外信じるな」といったりすることでも、伏線が張られている。
だが、問題は、伏線とオチの関係よりも、バークの目的と作戦がまったくかみ合っていないということだ。
そもそも、なぜこんな大掛かりな作戦を考える必要があったのだろうか。
バークは自嘲気味に、こうジェームズに話す。
「CIAでデータを操作するのは問題がなかった。
しかし問題はどうやってそれを持ち出すかだったのだ。」
なるほど、ウイルスのデータを持ち出すために、このような作戦を立てたらしい。
だが、それならばジェームズを使う必要がない。
なぜなら、レイラとザックから直接受け取ればいいのだから。
いちいちジェームズを作戦に加える必要がないのである。
物語を無理やり難しくさせるため、尾行させたようにしか見えないのだ。
そして、もっとツライ事実は、バークが思いつかなかったデータの持ち出し方を、
レイラはあっさり考え付いてしまったということだ。
おいおいおい、お前のほうが頭悪かったんですか?! とツッコミたくなる。
データを改ざんするくらいの器量があれば、水筒のUSBメモリくらい、思いつくだろう?!
オツムが悪いことを、暴露しているようなものだ。
これでは悪役として説得力や怖さがうまれない。
そしてもう一つ。
これがけっこう重大だと思うのだが、この映画を見終わっても、CIAという組織が結局掴めないということだ。
きちんと説明されていないが、レイラとザックが従事していたのは、おそらく正規の任務だろう。
ジェームズが本当に首にされたのかどうか、という点もやはり説明されていないから、余計にわかりにくくなっているが、ジェームズは本当にクビにされている。
なぜなら、ジェームズに「素質がある」といったのはバークただ一人であり、ジェームズは訓練中二度任務に失敗しているのである
(女を口説けなかったこと、自白してしまったこと)。
なぜ、訓練であれほど厳しい拷問をしたのか。
要するに、拷問して他の訓練生に見せ付けるためだった。
その餌食になるのは、落ちこぼれのジェームズだったのだ。
だから、ジェームズは本当に首にされたところを、バークが仕事の斡旋をしに行くという名目で、彼を偽の「任務」につかせたのである。
よって、明確に示されてはいないが、ザックとレイラは本当に任務についていたのだろうと予測できる。
ザックのデータをジェームズに奪わせようとしたのは、バークが単なる教育係であり、それを受け取ることはできなかったのだろう。
しかし、このように整理したところで、CIAの実態はよくわからない。
どのように任務がおりてきて、仕事に就くのか、クビにされたジェームズの視点からしか描かれないため、CIAという組織の見取り図がよくわからないのだ。
だから、なぞが解けたというカタルシスが非常に弱い。
無駄にかき回されたという印象しかないのだ。
CIAという組織がどのような組織なのか、ということを、映画的にでもいいから説明する必要があった。
CIAがどんな組織であるのか、すでに観客は知っているものとして映画が成り立ってしまっている。
CIAという組織を知らなければ、良くわからない映画になっているのだ。
だが、その「知識」というのも、多くの人が描く単なる「イメージ」にすぎず、あまりにも信憑性に欠けるのだ。
だから、CIAに関する新たな知識への驚きよりも、やっぱりCIAって怖いな~程度の驚きしか感じられないのだ。
あるいは、それは元々あったイメージを膨らませただけのものだ。
あれだけ丁寧に訓練の様子を見せておきながら、結局どういった組織なのか、具体的にはわからない。
これでは、CIAから全面協力をうけたところで、あまり意味がない。
だますだまされるというミスディレクション映画としても、CIAの実態を暴こうという意欲作としても失敗してしまったこの映画は、
ただ映画としての見せ場を、無理に取り繕うためだけの映画になっている。
(2005/1/4執筆)
監督:ロジャー・ドナルドソン
CIAという組織を疑いたくなる。
1990年に父親が行方不明になったジェームズ(コリン・ファレル)はずっと父親の情報を探していた。
大人になったジェームズは、コンピューターエンジニアとして、ソフト開発をしていた。
ジェームズの才能を見出したバーク(アル・パチーノ)は、CIAで働かないかと、話を持ちかけた。
信用しないジェームズだったが、バークが父親についてほのめかしたことで、CIAにリクルートされることを了承する。
しかし、そこで待っていたのは、人をいかにだますか、そしてだまされないためにはどうすべきか、という疑心暗鬼の訓練の日々だった。
いまや飛ぶ鳥を落とす勢いの若手優良株のコリン・ファレルのスパイ映画。
顔がカッコいいこともあり、女の子からモテモテ、モテ過ぎて、女タラシの異名をもつ、話題に事欠かない俳優である。
映画の中で、ラブシーンがあれば、それは私生活なのではないか、と思ってしまうほどのプレボーイである。
そのファレルと、実力派のアル・パチーノが競演したのが、この映画である。
CIAという題材に、この二人の俳優が共演しているというだけで、十分に観てみたいと思わせる。
▼以下はネタバレあり▼
CIAといえば、誰もが知っているように(?)、「中央情報局」の略であり、情報に関するあらゆる活動を行っている
アメリカの特殊機関である。
敵国へのスパイ活動や、諜報活動といった国家の保安にかかわる重要で、最上級の国家機密に直接触れる機関なのである。
FBIと混同しがちだが、FBIはあくまで捜査を目的とする警察機関のようなものなので、国家間の諜報活動を任務としているCIAとは大分意味合いは違う。
ちなみに、FBIは「Xファイル」のモルダーとスカリーがいるところである。
CTUはテロ対策ユニットで、バウワーがいるところだ。
CIAという機関は、僕の印象から言えば、かなり汚い仕事をしているところである。
映画に登場する場合、カッコ良く描かれることが多いが、実際には、この映画のようにかなりキワドイ仕事をしている。
しかも、それは日本とも無関係な機関ではない。
北朝鮮やイラン、イラクなど、アメリカと敵対しうる国には、必ず彼らが関わっている。
よく知らないが、9.11でビンラディンを犯人と断定したのも、CIAの情報網によるところが大きいらしい。
と、こんな事を書いたのも、この映画を理解しようと思えば、CIAについてのこれくらいの知識が、不可欠になっているからである。
それがこの映画の限界性でもあるのだが、それについては後で触れよう。
さて、物語は、父親の行方を捜し続けている男が、CIAの教官からスカウトされるところから始まる。
このバークが父親が何をしていたのか知っていると踏んだジェームスは、CIAに入り、訓練を受けることになる。
バークはCIAに入ることになったジェームズにこう忠告する。
「自分自身以外何も信じるな」と。
そしてCIAの訓練が始まる。
その訓練の模様は、同じコリン・ファレルの「SWAT」に似ている。
CIAがいかに過酷で、いかに人をだますためのトレーニングをしているか、という模様が描かれている。
それが色濃くあらわれるのが、「女を口説いて来い」という命令である。
その命令どおり、口説こうとしたジェームズが、ブリジット・モイナハン(「コヨーテ・アグリー」「アイ,ロボット」)扮する
酔ったレイラを介抱しようとすると、レイラは積極的にアプローチを仕掛けてくる。
ファレルがつられて店を出ると、「任務完了」。
女を口説くジェームズの任務を阻止するのが目的だったのである。
このようにだましあいを覚えさせられ、「どこまでが任務で、どこまでが本心なのか」分からなくなっていく。
この分からなくなっていく感覚というのは、当然観客にも向けられた伏線である。
コリン・ファレルのジェームズに同化し、感情移入している観客にとって、彼がだまされているかもしれない、ということは、自分達観客も、監督に、CIAに、だまされる映画である、ということを意味する。
ジェームズは訓練中、さらわれてしまい仲間の名前を云うように、拷問される。
レイラが白状したと聞かされたジェームズはとうとう、仲間や教官の名前を言ってしまう。
しかし、実はそれはCIAの訓練の一環であったことを聞かされる。
教官のバークは他の生徒達に言うのである。
「何があっても捕まってはいけない」
この訓練でCIAをクビにされたジェームズのところに、再びバークが現れ、首はウソだ、任務があるから請けろといわれる。
その任務というのが、この映画の中心的な事件となる。
「SWAT」も似たような展開で、訓練 → 実戦という展開だったが、この映画のほうが、うまくできている。
その任務の内容が、訓練中の出来事を伏線にできているからである。
その内容とは、恋仲になりそうだったレイラが、実は二重スパイで、彼女がCIAから情報を誰かにリークしているというものだった。
当初疑心暗鬼だったジェームズも、父親のことを知るというバークを信じ、任務を請けることにする。
このように整理すれば、オチが見えてしまうだろう。
この手法は、ミスディレクションの手段である。
要するに、バーク以外からの情報が欠如しているのである。
よって、この時点で疑い深い観客は、そのオチが読めてしまう。
ジェームズをだましているとすれば、バーク以外には考えられなくなってしまうのである。
ここに、だますだまされる映画でありながら、この映画がオチを隠し切れなかった理由がある。
今度は作品の流れではなく、オチのほうから真相を暴いていこう。
要するにオチは、CIAからコンピューターウイルスを持ち出すように頼まれたバークが、仕掛けた罠だったのだ。
手順はこうだ。
訓練が終了したザックとレイラは、任務としてCIAのセキュリティをチェックする作戦に従事する。
重要なデータを盗み出すことは可能か、というチェックである。
盗み出すデータは、偽物であるという前提だった。
(実際にはバークが本物に摩り替えていたのだが。)
ジェームズの方には、任務と称して、二重スパイのレイラを尾行させ、レイラがデータを持ち出す方法と、その相手先を特定させる。
そしてジェームズがその相手先を特定できれば、ジェームズからそのデータを奪い、めでたく報酬を受け取る。
もし、ジェームズが失敗すれば、レイラとザックから直接受け取ればいいのである。
このバークが犯人という伏線は、情報が彼からしか、もたらされないということだけではない。
安い給料だと連発したり、名誉もなく、信念だけが我々の動機だといったりすることで、かなりの不満があることをほのめかす。
また、「自分自身以外信じるな」といったりすることでも、伏線が張られている。
だが、問題は、伏線とオチの関係よりも、バークの目的と作戦がまったくかみ合っていないということだ。
そもそも、なぜこんな大掛かりな作戦を考える必要があったのだろうか。
バークは自嘲気味に、こうジェームズに話す。
「CIAでデータを操作するのは問題がなかった。
しかし問題はどうやってそれを持ち出すかだったのだ。」
なるほど、ウイルスのデータを持ち出すために、このような作戦を立てたらしい。
だが、それならばジェームズを使う必要がない。
なぜなら、レイラとザックから直接受け取ればいいのだから。
いちいちジェームズを作戦に加える必要がないのである。
物語を無理やり難しくさせるため、尾行させたようにしか見えないのだ。
そして、もっとツライ事実は、バークが思いつかなかったデータの持ち出し方を、
レイラはあっさり考え付いてしまったということだ。
おいおいおい、お前のほうが頭悪かったんですか?! とツッコミたくなる。
データを改ざんするくらいの器量があれば、水筒のUSBメモリくらい、思いつくだろう?!
オツムが悪いことを、暴露しているようなものだ。
これでは悪役として説得力や怖さがうまれない。
そしてもう一つ。
これがけっこう重大だと思うのだが、この映画を見終わっても、CIAという組織が結局掴めないということだ。
きちんと説明されていないが、レイラとザックが従事していたのは、おそらく正規の任務だろう。
ジェームズが本当に首にされたのかどうか、という点もやはり説明されていないから、余計にわかりにくくなっているが、ジェームズは本当にクビにされている。
なぜなら、ジェームズに「素質がある」といったのはバークただ一人であり、ジェームズは訓練中二度任務に失敗しているのである
(女を口説けなかったこと、自白してしまったこと)。
なぜ、訓練であれほど厳しい拷問をしたのか。
要するに、拷問して他の訓練生に見せ付けるためだった。
その餌食になるのは、落ちこぼれのジェームズだったのだ。
だから、ジェームズは本当に首にされたところを、バークが仕事の斡旋をしに行くという名目で、彼を偽の「任務」につかせたのである。
よって、明確に示されてはいないが、ザックとレイラは本当に任務についていたのだろうと予測できる。
ザックのデータをジェームズに奪わせようとしたのは、バークが単なる教育係であり、それを受け取ることはできなかったのだろう。
しかし、このように整理したところで、CIAの実態はよくわからない。
どのように任務がおりてきて、仕事に就くのか、クビにされたジェームズの視点からしか描かれないため、CIAという組織の見取り図がよくわからないのだ。
だから、なぞが解けたというカタルシスが非常に弱い。
無駄にかき回されたという印象しかないのだ。
CIAという組織がどのような組織なのか、ということを、映画的にでもいいから説明する必要があった。
CIAがどんな組織であるのか、すでに観客は知っているものとして映画が成り立ってしまっている。
CIAという組織を知らなければ、良くわからない映画になっているのだ。
だが、その「知識」というのも、多くの人が描く単なる「イメージ」にすぎず、あまりにも信憑性に欠けるのだ。
だから、CIAに関する新たな知識への驚きよりも、やっぱりCIAって怖いな~程度の驚きしか感じられないのだ。
あるいは、それは元々あったイメージを膨らませただけのものだ。
あれだけ丁寧に訓練の様子を見せておきながら、結局どういった組織なのか、具体的にはわからない。
これでは、CIAから全面協力をうけたところで、あまり意味がない。
だますだまされるというミスディレクション映画としても、CIAの実態を暴こうという意欲作としても失敗してしまったこの映画は、
ただ映画としての見せ場を、無理に取り繕うためだけの映画になっている。
(2005/1/4執筆)
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