評価点:78点/2003年/アメリカ
監督:ボアズ・イェーキン
オトナ子どもと、コドモ大人との交流。
ロックバンドの父親を持つモリー(ブリタニー・マーフィー)は、彼の遺産によって贅沢三昧を送っていた。
22歳の誕生日に出会った歌手を目指すニールと恋に落ちる。
しかし、あまりの自堕落な生活に絶えられなくなったニールは家を飛び出してしまう。
残されたモリーは悲しみのあまり、ふせってしまう。
友人が家に訪れると、電気が止まり、電話も止まっている。
なんと、遺産管理人だったボブという男が、遺産を持ち逃げ、これから入るであろう、印税も前借りで持ち逃げしてしまった。
一切の財産がなくなってしまったモリーは、敏腕プロデューサーのローマ(へザー・ロックリア)の子ども・レイ(ダコタ・ファニング)のベビーシッターをすることになった。
しかし、レイは、とんでもないマセたガキだったのである。
「アイ・アム・サム」で一躍天才子役のリストに載るようになった、ダコタ・ファニングのラヴ・コメディ。
主役は、「17歳のカルテ」や「サウンド・オブ・サイレンス」のブリタニー・マーフィーなのだが、もはやどちらが「主役」かわからないほどの存在感をかもし出している。
彼女の完璧な演技を観るだけでも、この映画を観る価値はあると断言できる。
▼以下はネタバレあり▼
映画の内容もかなり楽しめるものとなっている。
物語の大枠としては、「プリティー・ウーマン」の逆バージョン、あるいは、「大逆転」の女バージョンといった趣だろうか。
ものすごく金持ちだった女性が、ある日突然無一文になってしまう。
我儘な女の子が、次第に自分の生き方を見つめるようになっていく…といういかにもおバカなアメリカ人や、僕が好きそうな設定である。
話のリアリティを問題にしてしまうと、いっきに瓦解するような映画だが、それでも、コメディとしては良い出来になっている。
父親が伝説的ロックバンドだったモリーは、父親の遺産だけで生きている。
よって冒頭で、破産してしまうと、無一文になってしまう。
それまで、勝ち組だったのが、いきなり負け組へと転じてしまうのである。
また、仕事のため小生意気なレイの子守役をすることになったため、人を使う者から、使われる者、雇う者から雇われる者へと、立場が一気に逆転してしまう。
この逆転が、みごとに描かれているという点だけでも、この映画の描きたかったことの半分は成功していると言える。
それまで、我儘で男をとっかえひっかえしていたモリー、
非現実的なお嬢様で、メイドが全て世話をしてくれていたモリー、
アゴで人を使うことが当たり前だったモリー。
この逆転前の「勝ち組」モリーをきちんと眼に見える形で描いていることが、この映画で最も重要なことなのである。
それでいて、どこかピュアで、父親の不在という悲しい一面を示すなど、観客の感情移入するポイントも提示している。
それまでのあまりの我儘ぶりに、多少の怒りをもちつつ、逆転した生活とのギャップを笑い飛ばすことができる。
だが、もう半分の成功は、何と言ってもレイの存在である。
かわいらしいレイが、とんでもなく潔癖症で、「大人な子ども」であるため、幼すぎる22歳のモリーとの対比が痛快で面白い。
また、そのきつい性格の少女を完璧とも思えるほど繊細に、そして大胆に演じてくれるダコタ・ファニングによって、物語は安定した笑いを生み出すことになる。
さらに、この設定が単なる偶然ではなく、物語的必然に仕立て上げたこともまたたくみであった。
8歳という設定は、22歳のモリーにとって父親を亡くした歳と同じであり、モリーの性格を決定付けた時期でもあったのである。
一方、レイも、昏睡状態にある父親とどう接するべきなのかわからない。
得意のバレエに対して情熱を傾けるが、誰も褒めてくれる者はない。
内的な必然によって、大人子どもになったのではなく、外的な要因によって、大人として振舞うことを要求され続けてきたのである。
物的には満たされていたものの、何もかも一人でやり遂げなければ、生きていけないというような、精神的な貧困にあったのである。
その貧困に眼を向けさせたのが、同じように父親不在に悩み続けてきた、真逆の子ども大人の22歳のモリーだったというわけだ。
二人の内面を互いに補完しあい、そして照射しあう関係は、やはり見事な設定と言わなければならないだろう。
単なる逆転の面白さだけではなく、互いの内面に踏み込ませたことは、単なるコメディとしての面白さだけではなく、ドラマとしての完成度まで高めることになったのである。
だが、それだけに残念なのは、余計なエピソードの存在である。
ルームメイトとのやりとりや、恋人ニールとレイの母親が不倫していたことなど、問題を徒に複雑に仕立てようとしすぎた。
ルームメイトとのやりとりは、おそらくそれまでのモリーへの嫉妬が、彼女を「モリーの支配」へと駆り立てていったのであろう。
しかし、それがきちんと提示されないから、
ルームメイトの悲しみや葛藤や、苛立ち、嫉妬心などが分かりづらい。
一歩間違えば、嫌な友達というふうに受けとられかねない。
もっといただけないのは、ニールとレイの母親ローマの不倫である。
これは、せっかくここまで積み上げてきた巧みな設定を全て崩壊させかねないほど、複雑な問題をはらんでいる。
単に、「モリーの恋敵」という意味だけではない。
ニールに実は才能がなくプロデューサーと寝ることで契約を取ったのか、とか、
娘レイにとってそれがどのような意味をもつのか、とか、
家にニールがいるほど男の行き来が激しかったのか、とか、
様々な問題を内包している。
恐らく、母親であったローマも、また夫の昏睡状態に悩みを抱いていたということなのだろうが、そうであるなら、もっと彼女の悩みを吐露するような場面がほしい。
それぞれの内面を描こうという努力は認めるが、それが、きちんと問題→解決という呼応関係を示さなければ、問題を複雑化させるだけになってしまう。
「アイ・アム・サム」のような見事な脚本とまではいかなかったようだ。
もう一つ。
ラストの終わり方についてだが、これは賛否両論分かれるところではないだろうか。
コメディのセオリーとしては、もう一度モリーが富豪に戻るのが王道だろう。
未来への希望が示されているため、また下積みから上を目指すのも、もちろん悪くはない。
だが、終幕のカタルシスとしては、多少無理やりな形ではあっても、モリーを富豪に戻す方が大きかったに違いない。
少なくとも、それが今までのハリウッド映画の王道だっただろう。
個人的には、その王道をあえてはずしたところが、この映画の重さであり、ドラマ部分を重要視しようとした、制作陣の考えが表われている部分であろうと思うのだが。
カメラ・ワークが、さりげなく「しりとり」のように前、後に連続性があるように撮られている。
このようなコメディでは、テンポや雰囲気が重要になる。
その意味で、実はカメラワークの連続性が一役買っている。
このあたりの丁寧さが、映画の面白さを支えているとも言えるだろう。
それにしても、ヒューイ役の黒人。
彼はかつてパルマにいたアドリアーノに似ている。
いや、別にそれだけだけれど。
(2004/12/24執筆)
監督:ボアズ・イェーキン
オトナ子どもと、コドモ大人との交流。
ロックバンドの父親を持つモリー(ブリタニー・マーフィー)は、彼の遺産によって贅沢三昧を送っていた。
22歳の誕生日に出会った歌手を目指すニールと恋に落ちる。
しかし、あまりの自堕落な生活に絶えられなくなったニールは家を飛び出してしまう。
残されたモリーは悲しみのあまり、ふせってしまう。
友人が家に訪れると、電気が止まり、電話も止まっている。
なんと、遺産管理人だったボブという男が、遺産を持ち逃げ、これから入るであろう、印税も前借りで持ち逃げしてしまった。
一切の財産がなくなってしまったモリーは、敏腕プロデューサーのローマ(へザー・ロックリア)の子ども・レイ(ダコタ・ファニング)のベビーシッターをすることになった。
しかし、レイは、とんでもないマセたガキだったのである。
「アイ・アム・サム」で一躍天才子役のリストに載るようになった、ダコタ・ファニングのラヴ・コメディ。
主役は、「17歳のカルテ」や「サウンド・オブ・サイレンス」のブリタニー・マーフィーなのだが、もはやどちらが「主役」かわからないほどの存在感をかもし出している。
彼女の完璧な演技を観るだけでも、この映画を観る価値はあると断言できる。
▼以下はネタバレあり▼
映画の内容もかなり楽しめるものとなっている。
物語の大枠としては、「プリティー・ウーマン」の逆バージョン、あるいは、「大逆転」の女バージョンといった趣だろうか。
ものすごく金持ちだった女性が、ある日突然無一文になってしまう。
我儘な女の子が、次第に自分の生き方を見つめるようになっていく…といういかにもおバカなアメリカ人や、僕が好きそうな設定である。
話のリアリティを問題にしてしまうと、いっきに瓦解するような映画だが、それでも、コメディとしては良い出来になっている。
父親が伝説的ロックバンドだったモリーは、父親の遺産だけで生きている。
よって冒頭で、破産してしまうと、無一文になってしまう。
それまで、勝ち組だったのが、いきなり負け組へと転じてしまうのである。
また、仕事のため小生意気なレイの子守役をすることになったため、人を使う者から、使われる者、雇う者から雇われる者へと、立場が一気に逆転してしまう。
この逆転が、みごとに描かれているという点だけでも、この映画の描きたかったことの半分は成功していると言える。
それまで、我儘で男をとっかえひっかえしていたモリー、
非現実的なお嬢様で、メイドが全て世話をしてくれていたモリー、
アゴで人を使うことが当たり前だったモリー。
この逆転前の「勝ち組」モリーをきちんと眼に見える形で描いていることが、この映画で最も重要なことなのである。
それでいて、どこかピュアで、父親の不在という悲しい一面を示すなど、観客の感情移入するポイントも提示している。
それまでのあまりの我儘ぶりに、多少の怒りをもちつつ、逆転した生活とのギャップを笑い飛ばすことができる。
だが、もう半分の成功は、何と言ってもレイの存在である。
かわいらしいレイが、とんでもなく潔癖症で、「大人な子ども」であるため、幼すぎる22歳のモリーとの対比が痛快で面白い。
また、そのきつい性格の少女を完璧とも思えるほど繊細に、そして大胆に演じてくれるダコタ・ファニングによって、物語は安定した笑いを生み出すことになる。
さらに、この設定が単なる偶然ではなく、物語的必然に仕立て上げたこともまたたくみであった。
8歳という設定は、22歳のモリーにとって父親を亡くした歳と同じであり、モリーの性格を決定付けた時期でもあったのである。
一方、レイも、昏睡状態にある父親とどう接するべきなのかわからない。
得意のバレエに対して情熱を傾けるが、誰も褒めてくれる者はない。
内的な必然によって、大人子どもになったのではなく、外的な要因によって、大人として振舞うことを要求され続けてきたのである。
物的には満たされていたものの、何もかも一人でやり遂げなければ、生きていけないというような、精神的な貧困にあったのである。
その貧困に眼を向けさせたのが、同じように父親不在に悩み続けてきた、真逆の子ども大人の22歳のモリーだったというわけだ。
二人の内面を互いに補完しあい、そして照射しあう関係は、やはり見事な設定と言わなければならないだろう。
単なる逆転の面白さだけではなく、互いの内面に踏み込ませたことは、単なるコメディとしての面白さだけではなく、ドラマとしての完成度まで高めることになったのである。
だが、それだけに残念なのは、余計なエピソードの存在である。
ルームメイトとのやりとりや、恋人ニールとレイの母親が不倫していたことなど、問題を徒に複雑に仕立てようとしすぎた。
ルームメイトとのやりとりは、おそらくそれまでのモリーへの嫉妬が、彼女を「モリーの支配」へと駆り立てていったのであろう。
しかし、それがきちんと提示されないから、
ルームメイトの悲しみや葛藤や、苛立ち、嫉妬心などが分かりづらい。
一歩間違えば、嫌な友達というふうに受けとられかねない。
もっといただけないのは、ニールとレイの母親ローマの不倫である。
これは、せっかくここまで積み上げてきた巧みな設定を全て崩壊させかねないほど、複雑な問題をはらんでいる。
単に、「モリーの恋敵」という意味だけではない。
ニールに実は才能がなくプロデューサーと寝ることで契約を取ったのか、とか、
娘レイにとってそれがどのような意味をもつのか、とか、
家にニールがいるほど男の行き来が激しかったのか、とか、
様々な問題を内包している。
恐らく、母親であったローマも、また夫の昏睡状態に悩みを抱いていたということなのだろうが、そうであるなら、もっと彼女の悩みを吐露するような場面がほしい。
それぞれの内面を描こうという努力は認めるが、それが、きちんと問題→解決という呼応関係を示さなければ、問題を複雑化させるだけになってしまう。
「アイ・アム・サム」のような見事な脚本とまではいかなかったようだ。
もう一つ。
ラストの終わり方についてだが、これは賛否両論分かれるところではないだろうか。
コメディのセオリーとしては、もう一度モリーが富豪に戻るのが王道だろう。
未来への希望が示されているため、また下積みから上を目指すのも、もちろん悪くはない。
だが、終幕のカタルシスとしては、多少無理やりな形ではあっても、モリーを富豪に戻す方が大きかったに違いない。
少なくとも、それが今までのハリウッド映画の王道だっただろう。
個人的には、その王道をあえてはずしたところが、この映画の重さであり、ドラマ部分を重要視しようとした、制作陣の考えが表われている部分であろうと思うのだが。
カメラ・ワークが、さりげなく「しりとり」のように前、後に連続性があるように撮られている。
このようなコメディでは、テンポや雰囲気が重要になる。
その意味で、実はカメラワークの連続性が一役買っている。
このあたりの丁寧さが、映画の面白さを支えているとも言えるだろう。
それにしても、ヒューイ役の黒人。
彼はかつてパルマにいたアドリアーノに似ている。
いや、別にそれだけだけれど。
(2004/12/24執筆)
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