評価点:7点/2002年/日本
原作:宮部みゆき
監督・脚本:森田芳光
どっかぁぁぁ~~~~~~ん!!!
有馬義男(山崎努)が営む豆腐屋の孫娘、鞠子(伊東美咲)が行方不明になって10ヶ月が経つ。
「すぐに帰る」そう連絡があって以来、鞠子は音信不通になってしまった。
そんなある日、近くの公園で腕とショルダーバッグが発見される。
発見されたショルダーバッグは、行方不明になっていた鞠子のものだった。
その第一発見者は、一家殺人事件のただひとりの生き残りの少年だった。
そのルポを書いていた前畑滋子が、この女性バラバラ事件を追うことになる。
テレビ番組で、犯人と名乗る男から電話があり、腕の主人とバッグの主人は別の人物だと告げる。
そして困惑する有馬義男のもとにも、犯人からの電話が鳴る……。
売れっ子作家・宮部みゆきのベストセラーの映画化。
その主演(犯人役)に、SMAPの仲居君が演じたことで話題になった作品でもある。
僕は、残念ながら、宮部みゆきの作品は読んだことがない。(当時。このとき以降に「火車」は読んだ)
よって、この映画を、原作と比べることも、原作で補完することもできなかったことをまず述べておきたい。
しかし、見終わった今から考えても、それはあまりどうでも良かった気がする。
▼以下はネタバレあり▼
これを見るきっかけとなったのは、知人にすすめられたため。
もともと、原作を読んだこともなかったし、巨人ファンである仲居君の作品を見たいとも思わなかった。
だから、原作ファンや仲居君ファンなら、もしかしたら楽しめるかもしれない。
原作にもキャストにも、監督にもまったく思い入れのない僕にとっては、苦痛の2時間であったことは、拭いようのない事実である。
なぜ、知人にすすめられたかと言うと(その知人の名誉のために言うと)、ラストが衝撃的だからとにかく観てくれ、ということだった。
間違いなく、衝撃的だったことは確かだ。
しかし、ここまで衝撃的だとは、思いもよらなかった。
世の中いろんな映画があって、世界は広い、と思わせてくれる。
前置きがいつになく長くなった。
長くなった理由は単純である。
「この映画を俺が語る必要ありますか?」
「MOONCHILD」という映画で、僕はこんな言い方をした。
「これがどんな映画であるかどうかを問うよりも前に、これが映画であるかを問うべきだ」と。
この「模倣犯」は、それと全く同じ問いを立てる必要がある。
さらに言えば、<問い>としてではなく、僕はこう断言したい。
「これは映画じゃない!」
原作を読んでいないので、この映画で語るしかないが、この映画のジャンルなるものはなんだろうか。
サスペンスか、人間ドラマか、スリラー(ホラー)か……。
そのどれに当てはめたとしても、失敗しているとしか言えないだろう。
作品は、大きく三つに別れる構成になっている。
一つは、有馬義男から描いた序盤。
次に、それをピース(仲居正広)側から描き直した中盤。
最後に、物語の収束点である終盤。
映画を観る前に誰もがたいてい分かっているのは、犯人は何らかの犯罪を模倣した、「模倣犯」であろうということ。
そして、その犯人は「仲居正広」であるということである。
この二つの情報を遮断しては、この映画を映画館やビデオ(DVD・テレビ)で観ることはまずできないだろう。
それが見所でもあるし、テレビをつけたらたまたまやっていた、という状況でなければ、まずこの情報から免れない。
要するに、この映画は、はじめから犯人が分かっているという、倒叙ミステリーであるということだ。
「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」、最近では「青の炎」などのミステリーものの、一つの典型である。
ということは、ミステリーやサスペンスとして撮るなら、いかに犯人が犯罪を犯すか、いかに犯人が追い込まれるか、という映画になる。
多かれ少なかれ、これはしかたがない。
だが、「模倣犯」にはそれが全くない。
どのように、なぜ、ピースが犯罪を犯していくのか、という点について、全く明かされていかないのである。
確かに、劇中、さんざんピースは、犯罪論を相方に語る。
犯罪者は、こうだ。
メディアはこうだ。
人間の弱さはここにある。
俺は全く新しい犯罪をしてやるんだ。
しかし、それらは、内面を描くのに役立っていない。
口数が多いだけで、そのキャラクターがまったくつかめないのである。
そして、致命的なのは、彼が全然追い込まれないことだ。
警察にも、記者にも、豆腐屋にも、誰にも追い込まれない。
彼は自分の考えたとおりの行動をただ実行に移していくことしかしない。
だから、観客に彼のギリギリの葛藤やピンチを、一緒に切り抜ける余地がなくなってしまう。
犯人とそれを追い込む人々を平等に描いておきながら、それが効果的な緊張感や緊迫感を演出できていない。
このように、起伏のない展開であるためサスペンスとしては失敗である。
だからと言っても、人間ドラマとしても失敗である。
先ほども言ったように、ピースの内面がまったく掴めないのだ。
最後に記者と警察が、彼の過去の暗さについて説明するシーンがある。
しかし、それまでのキャラクターがあまりに希薄なため、その謎の解明が、ピースの人間像を照射しない。
ただ、そういう設定だったんですよ、という公開にしかなっていない。
口数が多いだけで、キャラクターが掴めないのは、彼が感情をあらわにしないことが、一つの原因となっている。
クールな犯罪者でも構わない。
しかし、これだけは許せない、これだけは嫌だ、というトラウマや逆鱗を描いておかなければ、キャラクターが見えてこない。
ずっとクールでは、非人間的であり、感情移入さえ許さない。
これでは、人間ドラマの映画として成立するはずがない。
では、レクター・シリーズをはじめとする猟奇的な殺人をモティーフとする、スリラー(ホラー)ものとしてはどうか。
これも残念ながら、破綻しているとしか言えない。
何人もの女性を監禁するところが「コレクター」を髣髴とさせながら、そのグロさが見えてこない。
その理由は、死体がないことである。
死体を本編でほとんど見せない。
鞠子の腕も、死体も、共犯であった浩美(津田寛治)の死体も、情報だけが与えられるだけで、死体そのものは見せないのだ。
だから、全然怖くない。
犯罪の大きさも、ほとんど伝わらない。
事件の大きさは、メディアの話題になっていることを、ニュース番組や、ネットのチャットをテロップで見せることで示している。
しかし、それは「怖さ」や「気持ち悪さ」を演出するものではない。
ただヤフーの宣伝にしかなっていない。
警察も実際に捜査しているシーンが皆無である。
ただ情報を操って、映画の世界観が撮れるほど、甘くはない。
また、口数が無駄に多すぎるピースのキャラクターも、怖さを解体してしまう。
ミステリアスな部分が消えてしまい、ただのバカに見えてしまうのである。
演出も同様に、怖さを演出するにはあまりにも力不足だ。
ずっと同じ色で撮られ続ける画面は、不気味さよりも不快感が募ってくる。
それも一つの効果といえばそうかもしれないが、その演出がまったく必要でないと感じるシーンも、ずっと同じ演出なのだ。
画面にも表情がないのであれば、ストーリーに起伏ができるはずもない。
このように、「模倣犯」は映画としての条件を何一つ満たしていない映画となっている。
だが、それでもピースの最期については語らなければなるまい。
テレビ番組中、ピースは、自分の犯罪が模倣であることを告げられ、爆発してしまう。
言葉の綾としてではなく、本当に爆発してしまうのだ。
それはあたかも、この映画をつくることにサジを投げている様子にさえ見える。
これを好意的に解釈するとすれば、そうとしかとれないだろう。
「マルホランド・ドライブ」は確かに理不尽な映画であった。
しかし、そこには無限に解釈が可能なほど、面白味があった。
だが、「模倣犯」にそれはない。
ただ混沌とした2時間があるだけだ。
そこには何もない。
あまりに酷くて、けなすことばも見つからない。。。
こんな映画で邦画離れが進んでいくんだよ、と実感する映画だった。
(2005/1/19執筆)
原作:宮部みゆき
監督・脚本:森田芳光
どっかぁぁぁ~~~~~~ん!!!
有馬義男(山崎努)が営む豆腐屋の孫娘、鞠子(伊東美咲)が行方不明になって10ヶ月が経つ。
「すぐに帰る」そう連絡があって以来、鞠子は音信不通になってしまった。
そんなある日、近くの公園で腕とショルダーバッグが発見される。
発見されたショルダーバッグは、行方不明になっていた鞠子のものだった。
その第一発見者は、一家殺人事件のただひとりの生き残りの少年だった。
そのルポを書いていた前畑滋子が、この女性バラバラ事件を追うことになる。
テレビ番組で、犯人と名乗る男から電話があり、腕の主人とバッグの主人は別の人物だと告げる。
そして困惑する有馬義男のもとにも、犯人からの電話が鳴る……。
売れっ子作家・宮部みゆきのベストセラーの映画化。
その主演(犯人役)に、SMAPの仲居君が演じたことで話題になった作品でもある。
僕は、残念ながら、宮部みゆきの作品は読んだことがない。(当時。このとき以降に「火車」は読んだ)
よって、この映画を、原作と比べることも、原作で補完することもできなかったことをまず述べておきたい。
しかし、見終わった今から考えても、それはあまりどうでも良かった気がする。
▼以下はネタバレあり▼
これを見るきっかけとなったのは、知人にすすめられたため。
もともと、原作を読んだこともなかったし、巨人ファンである仲居君の作品を見たいとも思わなかった。
だから、原作ファンや仲居君ファンなら、もしかしたら楽しめるかもしれない。
原作にもキャストにも、監督にもまったく思い入れのない僕にとっては、苦痛の2時間であったことは、拭いようのない事実である。
なぜ、知人にすすめられたかと言うと(その知人の名誉のために言うと)、ラストが衝撃的だからとにかく観てくれ、ということだった。
間違いなく、衝撃的だったことは確かだ。
しかし、ここまで衝撃的だとは、思いもよらなかった。
世の中いろんな映画があって、世界は広い、と思わせてくれる。
前置きがいつになく長くなった。
長くなった理由は単純である。
「この映画を俺が語る必要ありますか?」
「MOONCHILD」という映画で、僕はこんな言い方をした。
「これがどんな映画であるかどうかを問うよりも前に、これが映画であるかを問うべきだ」と。
この「模倣犯」は、それと全く同じ問いを立てる必要がある。
さらに言えば、<問い>としてではなく、僕はこう断言したい。
「これは映画じゃない!」
原作を読んでいないので、この映画で語るしかないが、この映画のジャンルなるものはなんだろうか。
サスペンスか、人間ドラマか、スリラー(ホラー)か……。
そのどれに当てはめたとしても、失敗しているとしか言えないだろう。
作品は、大きく三つに別れる構成になっている。
一つは、有馬義男から描いた序盤。
次に、それをピース(仲居正広)側から描き直した中盤。
最後に、物語の収束点である終盤。
映画を観る前に誰もがたいてい分かっているのは、犯人は何らかの犯罪を模倣した、「模倣犯」であろうということ。
そして、その犯人は「仲居正広」であるということである。
この二つの情報を遮断しては、この映画を映画館やビデオ(DVD・テレビ)で観ることはまずできないだろう。
それが見所でもあるし、テレビをつけたらたまたまやっていた、という状況でなければ、まずこの情報から免れない。
要するに、この映画は、はじめから犯人が分かっているという、倒叙ミステリーであるということだ。
「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」、最近では「青の炎」などのミステリーものの、一つの典型である。
ということは、ミステリーやサスペンスとして撮るなら、いかに犯人が犯罪を犯すか、いかに犯人が追い込まれるか、という映画になる。
多かれ少なかれ、これはしかたがない。
だが、「模倣犯」にはそれが全くない。
どのように、なぜ、ピースが犯罪を犯していくのか、という点について、全く明かされていかないのである。
確かに、劇中、さんざんピースは、犯罪論を相方に語る。
犯罪者は、こうだ。
メディアはこうだ。
人間の弱さはここにある。
俺は全く新しい犯罪をしてやるんだ。
しかし、それらは、内面を描くのに役立っていない。
口数が多いだけで、そのキャラクターがまったくつかめないのである。
そして、致命的なのは、彼が全然追い込まれないことだ。
警察にも、記者にも、豆腐屋にも、誰にも追い込まれない。
彼は自分の考えたとおりの行動をただ実行に移していくことしかしない。
だから、観客に彼のギリギリの葛藤やピンチを、一緒に切り抜ける余地がなくなってしまう。
犯人とそれを追い込む人々を平等に描いておきながら、それが効果的な緊張感や緊迫感を演出できていない。
このように、起伏のない展開であるためサスペンスとしては失敗である。
だからと言っても、人間ドラマとしても失敗である。
先ほども言ったように、ピースの内面がまったく掴めないのだ。
最後に記者と警察が、彼の過去の暗さについて説明するシーンがある。
しかし、それまでのキャラクターがあまりに希薄なため、その謎の解明が、ピースの人間像を照射しない。
ただ、そういう設定だったんですよ、という公開にしかなっていない。
口数が多いだけで、キャラクターが掴めないのは、彼が感情をあらわにしないことが、一つの原因となっている。
クールな犯罪者でも構わない。
しかし、これだけは許せない、これだけは嫌だ、というトラウマや逆鱗を描いておかなければ、キャラクターが見えてこない。
ずっとクールでは、非人間的であり、感情移入さえ許さない。
これでは、人間ドラマの映画として成立するはずがない。
では、レクター・シリーズをはじめとする猟奇的な殺人をモティーフとする、スリラー(ホラー)ものとしてはどうか。
これも残念ながら、破綻しているとしか言えない。
何人もの女性を監禁するところが「コレクター」を髣髴とさせながら、そのグロさが見えてこない。
その理由は、死体がないことである。
死体を本編でほとんど見せない。
鞠子の腕も、死体も、共犯であった浩美(津田寛治)の死体も、情報だけが与えられるだけで、死体そのものは見せないのだ。
だから、全然怖くない。
犯罪の大きさも、ほとんど伝わらない。
事件の大きさは、メディアの話題になっていることを、ニュース番組や、ネットのチャットをテロップで見せることで示している。
しかし、それは「怖さ」や「気持ち悪さ」を演出するものではない。
ただヤフーの宣伝にしかなっていない。
警察も実際に捜査しているシーンが皆無である。
ただ情報を操って、映画の世界観が撮れるほど、甘くはない。
また、口数が無駄に多すぎるピースのキャラクターも、怖さを解体してしまう。
ミステリアスな部分が消えてしまい、ただのバカに見えてしまうのである。
演出も同様に、怖さを演出するにはあまりにも力不足だ。
ずっと同じ色で撮られ続ける画面は、不気味さよりも不快感が募ってくる。
それも一つの効果といえばそうかもしれないが、その演出がまったく必要でないと感じるシーンも、ずっと同じ演出なのだ。
画面にも表情がないのであれば、ストーリーに起伏ができるはずもない。
このように、「模倣犯」は映画としての条件を何一つ満たしていない映画となっている。
だが、それでもピースの最期については語らなければなるまい。
テレビ番組中、ピースは、自分の犯罪が模倣であることを告げられ、爆発してしまう。
言葉の綾としてではなく、本当に爆発してしまうのだ。
それはあたかも、この映画をつくることにサジを投げている様子にさえ見える。
これを好意的に解釈するとすれば、そうとしかとれないだろう。
「マルホランド・ドライブ」は確かに理不尽な映画であった。
しかし、そこには無限に解釈が可能なほど、面白味があった。
だが、「模倣犯」にそれはない。
ただ混沌とした2時間があるだけだ。
そこには何もない。
あまりに酷くて、けなすことばも見つからない。。。
こんな映画で邦画離れが進んでいくんだよ、と実感する映画だった。
(2005/1/19執筆)
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