評価点:45点/2019年/日本/114分
監督・原案:新海誠
あんたは何がしたいんや。
島で過ごした家出少年の帆高(声:醍醐虎汰朗)は行く当てもなく東京に出てきた。
雨続きの東京を歩き回ったが働かせてくれるところもなく、船で助けられた男に名刺をもらったことをきっかけに男のオフィスの扉を叩いた。
男の須賀圭介(声:小栗旬)は、ライターをしていて、そのアシスタントとして雇われることになった。
須賀はきな臭い都市伝説などを取材して原稿にしていた。
取材として「100%の晴れ女」を調べ始めるが……。
「君の名は」でブレイクした新海誠の最新作である。
あれだけ売れてしまったことで、大きな責任を担ってしまったわけだが、今後の日本アニメ界の期待を一身に背負うだろう。
それは表現者としての責任でもあり、経済的な意味での責任でもある。
その次回作に注目が集まるのは仕方がない。
そして、見事に私の期待通りの作品となったわけだ。
どれだけ注目集まっても、新開監督のスタンスは「秒速5センチメートル」から何ら変わっていない。
それは一つの賞賛に値する。
私はただ好きじゃないだけだ。
(ただ、「君の名は」のキャラクターを本作でオメガ出演させてしまうあたりが彼の「弱気」をうかがわせるが。)
好きな人はこれ以上この記事を読む必要はない。
申し訳ないが他の絶賛している深読みサイトに行ってほしい。
私はこの映画が好きな人と対立したいとは思っていない。
ただ、私の感想を、私の感性に従って下に書き記そう。
▼以下はネタバレあり▼
見に行くのを迷っていた。
他の映画を見たかったからだ。
しかし、どの映画も吹き替えなる、私に言わせれば邪道なるものしか上映していなかったので、仕方なくこの映画を選んだ。
選んだのは、やはり気になっていたからに他ならない。
気になるほどの知名度、期待度を持たせた時点で、この映画は成功している。
とはいえ、出来がよいかどうかはまた別の話だ。
私にとってはあまり面白いとは言えない映画だったことは先にも述べた。
帆高は家出少年で、東京で生きるための場所を探している。
そこで、流れ着いたのは名刺をもらった須賀という男の元だった。
彼の生業であるライターの仕事を手伝うと同時に、東京で初めて助けてもらった女の子と再び再会し、彼女がどんな雨でも晴れにしてしまう「天気の子」だった。
彼女は1年ほど前に、東京で見つけた廃ビルで、鳥居をくぐることで天気を自在に操れるというチカラを手に入れた。
弟二人暮らしでお金がないという彼女・陽菜(声:森七菜)と、雨続きの東京で晴れさせようと考えた帆高は、ホームページを開設する。
二人は晴れを望む人々に、晴天をもたらすことで、生活を見つけていく。
しかし、須賀の取材によると、天気をコントロールすることは人柱となることであり、その存在と引き換えに晴天をもたらすという伝説を聞く。
そして、陽菜は次第に身体が透けるようになっていく。
映画鑑賞中、物語がずっと解決されないまま進む(終わる)、という印象がずっとつきまとっていた。
引っ込み事案で行動がなく、自己主張に乏しい帆高は、東京に行くという一大決心で家出する。
その設定が最後まで生きてこない。
だから、彼の課題が解決されないまま、「世界の形を変えてしまう」のだ。
「秒速5センチ」も、「君の名は」でも同じだが、自分自身の課題を自分自身に向けずに終わってしまう。
だから、結局何がしたいのかわからない。
かれの「居場所がない」という課題は、東京に行っても同じだ。
東京にかわいい彼女がいるから、居場所があるというのなら、それは単なる10代の淡い恋でしかない。
その世界は「狭すぎる」世界であり、いつまでもその世界にかじりついていられるほど(それを映画として楽しめるほど)甘くはない。
明確にすべきだった(明示でも暗示でも)のは、彼の課題であり、その課題の解決が天気でなければ物語が浮いてしまう。
「君の名は」がそれでも鑑賞に堪えうるのは、時間が過去と現在、未来という三種類で一定、閉じられていることにある。
だから、組紐でつながる前の二人の様子はそれほど問題にされない。
(就活に落ちまくる「いま」の瀧はだからこそ浮いてしまうわけだが)
一方、この「天気の子」では、家出という非日常的行動に伴う動機がない。
いや、別に家出をしたらだめだと言うことではない。
あの帆高の性格で家出をするくらいなら、よほどの決心がなければだめなはずだ。
しかも彼は働こうとするほど、「家に帰りたくない」わけだ。
そこまでの強い動機がありながら、その行動を裏付けるものがなにも示されない。
島では主体的に生きられなかった、というようなありきたりなものでもかまわない。
けれども、それが明確でなければ、彼の行動はことごとく「嘘くさく」なってしまう。
天気の子になって、そして消えていこうとする陽菜の課題も不明瞭だ。
彼女がなぜ天気の子に選ばれたのだろうか。
だれでも彼女のように願って鳥居をくぐれば天気の子になるのだろうか。
料理上手で、弟思いで、機転が利き、気立てが良く、観察眼もある。
ただそれだけで天気の子に選ばれたとしたら、それは男性からの趣味のレベルだ。
こうあって欲しいというヒロインの理想にすぎない。
アイドルが少女コミック原作の実写化する映画と大差ない。
帆高の銃、陽菜の天気のチカラともに言えることだが、それは他から何の前触れもなしに与えられたものにすぎない。
それを使って物語を展開されても、結局彼、彼女の解決にはならない。
人柱になってしまった陽菜を取り戻そうと銃を片手に奔走する場面がその典型だと思う。
社会(警察)と恋愛(陽菜と帆高)は、全くの齟齬を起こしている。
それは純真な心を大人がわかってくれない、といったレベルの話ではなく、物語が解決するべき方法と目的を見失ってしまったことから起こっている。
結局陽菜と帆高は「二人ばかりの世界」を築きたかっただけだ。
それは、誰かのために自分が犠牲になるべきか否かといったレベルでさえない。
そこには自分に対する客観視する目もなければ、自分を乗り越えたいという意欲もない。
隕石から町を救おうが、雨から東京を救おうがどちらでもいい。
大切なのは、個の問題であり、描くべき何かがあるかどうかだ。
恋愛至上主義の人にとってはよい映画なのかもしれない。
(後ろの人は泣いていたらしいし。)
私の映画に求めるものがなかった、ということだと思う。
監督・原案:新海誠
あんたは何がしたいんや。
島で過ごした家出少年の帆高(声:醍醐虎汰朗)は行く当てもなく東京に出てきた。
雨続きの東京を歩き回ったが働かせてくれるところもなく、船で助けられた男に名刺をもらったことをきっかけに男のオフィスの扉を叩いた。
男の須賀圭介(声:小栗旬)は、ライターをしていて、そのアシスタントとして雇われることになった。
須賀はきな臭い都市伝説などを取材して原稿にしていた。
取材として「100%の晴れ女」を調べ始めるが……。
「君の名は」でブレイクした新海誠の最新作である。
あれだけ売れてしまったことで、大きな責任を担ってしまったわけだが、今後の日本アニメ界の期待を一身に背負うだろう。
それは表現者としての責任でもあり、経済的な意味での責任でもある。
その次回作に注目が集まるのは仕方がない。
そして、見事に私の期待通りの作品となったわけだ。
どれだけ注目集まっても、新開監督のスタンスは「秒速5センチメートル」から何ら変わっていない。
それは一つの賞賛に値する。
私はただ好きじゃないだけだ。
(ただ、「君の名は」のキャラクターを本作でオメガ出演させてしまうあたりが彼の「弱気」をうかがわせるが。)
好きな人はこれ以上この記事を読む必要はない。
申し訳ないが他の絶賛している深読みサイトに行ってほしい。
私はこの映画が好きな人と対立したいとは思っていない。
ただ、私の感想を、私の感性に従って下に書き記そう。
▼以下はネタバレあり▼
見に行くのを迷っていた。
他の映画を見たかったからだ。
しかし、どの映画も吹き替えなる、私に言わせれば邪道なるものしか上映していなかったので、仕方なくこの映画を選んだ。
選んだのは、やはり気になっていたからに他ならない。
気になるほどの知名度、期待度を持たせた時点で、この映画は成功している。
とはいえ、出来がよいかどうかはまた別の話だ。
私にとってはあまり面白いとは言えない映画だったことは先にも述べた。
帆高は家出少年で、東京で生きるための場所を探している。
そこで、流れ着いたのは名刺をもらった須賀という男の元だった。
彼の生業であるライターの仕事を手伝うと同時に、東京で初めて助けてもらった女の子と再び再会し、彼女がどんな雨でも晴れにしてしまう「天気の子」だった。
彼女は1年ほど前に、東京で見つけた廃ビルで、鳥居をくぐることで天気を自在に操れるというチカラを手に入れた。
弟二人暮らしでお金がないという彼女・陽菜(声:森七菜)と、雨続きの東京で晴れさせようと考えた帆高は、ホームページを開設する。
二人は晴れを望む人々に、晴天をもたらすことで、生活を見つけていく。
しかし、須賀の取材によると、天気をコントロールすることは人柱となることであり、その存在と引き換えに晴天をもたらすという伝説を聞く。
そして、陽菜は次第に身体が透けるようになっていく。
映画鑑賞中、物語がずっと解決されないまま進む(終わる)、という印象がずっとつきまとっていた。
引っ込み事案で行動がなく、自己主張に乏しい帆高は、東京に行くという一大決心で家出する。
その設定が最後まで生きてこない。
だから、彼の課題が解決されないまま、「世界の形を変えてしまう」のだ。
「秒速5センチ」も、「君の名は」でも同じだが、自分自身の課題を自分自身に向けずに終わってしまう。
だから、結局何がしたいのかわからない。
かれの「居場所がない」という課題は、東京に行っても同じだ。
東京にかわいい彼女がいるから、居場所があるというのなら、それは単なる10代の淡い恋でしかない。
その世界は「狭すぎる」世界であり、いつまでもその世界にかじりついていられるほど(それを映画として楽しめるほど)甘くはない。
明確にすべきだった(明示でも暗示でも)のは、彼の課題であり、その課題の解決が天気でなければ物語が浮いてしまう。
「君の名は」がそれでも鑑賞に堪えうるのは、時間が過去と現在、未来という三種類で一定、閉じられていることにある。
だから、組紐でつながる前の二人の様子はそれほど問題にされない。
(就活に落ちまくる「いま」の瀧はだからこそ浮いてしまうわけだが)
一方、この「天気の子」では、家出という非日常的行動に伴う動機がない。
いや、別に家出をしたらだめだと言うことではない。
あの帆高の性格で家出をするくらいなら、よほどの決心がなければだめなはずだ。
しかも彼は働こうとするほど、「家に帰りたくない」わけだ。
そこまでの強い動機がありながら、その行動を裏付けるものがなにも示されない。
島では主体的に生きられなかった、というようなありきたりなものでもかまわない。
けれども、それが明確でなければ、彼の行動はことごとく「嘘くさく」なってしまう。
天気の子になって、そして消えていこうとする陽菜の課題も不明瞭だ。
彼女がなぜ天気の子に選ばれたのだろうか。
だれでも彼女のように願って鳥居をくぐれば天気の子になるのだろうか。
料理上手で、弟思いで、機転が利き、気立てが良く、観察眼もある。
ただそれだけで天気の子に選ばれたとしたら、それは男性からの趣味のレベルだ。
こうあって欲しいというヒロインの理想にすぎない。
アイドルが少女コミック原作の実写化する映画と大差ない。
帆高の銃、陽菜の天気のチカラともに言えることだが、それは他から何の前触れもなしに与えられたものにすぎない。
それを使って物語を展開されても、結局彼、彼女の解決にはならない。
人柱になってしまった陽菜を取り戻そうと銃を片手に奔走する場面がその典型だと思う。
社会(警察)と恋愛(陽菜と帆高)は、全くの齟齬を起こしている。
それは純真な心を大人がわかってくれない、といったレベルの話ではなく、物語が解決するべき方法と目的を見失ってしまったことから起こっている。
結局陽菜と帆高は「二人ばかりの世界」を築きたかっただけだ。
それは、誰かのために自分が犠牲になるべきか否かといったレベルでさえない。
そこには自分に対する客観視する目もなければ、自分を乗り越えたいという意欲もない。
隕石から町を救おうが、雨から東京を救おうがどちらでもいい。
大切なのは、個の問題であり、描くべき何かがあるかどうかだ。
恋愛至上主義の人にとってはよい映画なのかもしれない。
(後ろの人は泣いていたらしいし。)
私の映画に求めるものがなかった、ということだと思う。
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