17歳だった私は、16歳の少女と運命的な出会いをする。
少女は今ここにいるのは自分の影であり、本当の自分は街の中の図書館にいるのだ、と話した。
しかし、その少女は突然私の前からいなくなり、私はその街にいるはずの本当の少女を捜し求める……。
村上春樹の新作長編小説。
村上春樹にしては大変珍しく、最後に「あとがき」を残している。
しかし、その「あとがき」を読めば、彼が生涯を通して描こうとしている喪失がこの作品のテーマであることがうかがい知れる。
「風の歌を聴け」「ノルウェイの森」を読んできた読者なら、おそらく、すんなりと理解できる物語だろう。
村上春樹を読んだことがない人でも、もちろん読んで理解はできるだろう。
ただ、この本を春樹の最初の読書体験とするには、いささか話はわかりにくいかもしれない。
ご存じだろうけれど、この書き方がもはや村上春樹なのだけれど。
▼以下はネタバレあり▼
ということで、過去に失われた恋について描く、というのは一貫している。
「あとがき」にも書かれていたように、彼はそれを一生を通じて描こうとしているようだ。
十代のころの恋を、四十代になっても忘れられない、というのはいかにも気持ち悪い。
しかし、人生は往々にしてそういうものだ、といわれれば、その通りだと首肯するしかないだろう。
多くの人は、その劇的な出会いをしていても、気づかないか、記憶に埋もれるかしてしまうのだろう。
どんな時期であれ、どんな年齢であれ、劇的な出会いができるというのは、それだけで幸せなのかもしれない。
タイトルにある街は現実の世界なのか。
しかし、現実かどうかということを問うこと自体がやはり無意味であり、形而上学的な世界を否定しないことがまさに文学や春樹がしようとしている仕事なのだろう。
あり得るかあり得ないか。
これだけ動画や映像が氾濫する世界で、文学が描ける世界は、どこまでも言葉の世界であり、現実と地続きの「なにか」だ。
現実そのものであれば、映画でよいわけだし、ファンタジーでしかなければ、またそれもCGやアニメで描けば良い。
やたらと長い作品になったが、その街を説得力あるように、ありのままに描こうとするとどうしてもそれだけの長さが必要だったのだろう。
影、街、門衛、イエローサブマリンの少年。
すべてが記号的でありながら、そして謎解きを要求しながら、テーマは喪失と再生だ。
そして他者と自己との重なりである。
街の外で、コーヒーショップの名もなき女性と、私は再会するのだろうか。
どれだけ16歳の少女を愛していたとしても、彼女自身に成り代わることはできない。
他者は他者であり、自己が代替するわけにはいかない。
けれども、同時に自己は他者との関わりの中で生成されて、形作られていく。
愛や喪失と一言で言えるほど、物事はわかりやすくはない。
人生の不可解さ、物事の不透明さこそが、春樹がたどり着こうとしている「何か」なのかもしれない。
余談だが、春樹が好きではない妻が「どうせまたパスタをゆでて女の子とイチャイチャするんやろ」と揶揄していた。
読み始めて「今回はパスタゆでないし!」と言い返していたが、後半にパスタをゆでていて、「あ、やっぱりゆでるんや」となった。
とりあえず、今晩パスタをゆでようかと思う。
少女は今ここにいるのは自分の影であり、本当の自分は街の中の図書館にいるのだ、と話した。
しかし、その少女は突然私の前からいなくなり、私はその街にいるはずの本当の少女を捜し求める……。
村上春樹の新作長編小説。
村上春樹にしては大変珍しく、最後に「あとがき」を残している。
しかし、その「あとがき」を読めば、彼が生涯を通して描こうとしている喪失がこの作品のテーマであることがうかがい知れる。
「風の歌を聴け」「ノルウェイの森」を読んできた読者なら、おそらく、すんなりと理解できる物語だろう。
村上春樹を読んだことがない人でも、もちろん読んで理解はできるだろう。
ただ、この本を春樹の最初の読書体験とするには、いささか話はわかりにくいかもしれない。
ご存じだろうけれど、この書き方がもはや村上春樹なのだけれど。
▼以下はネタバレあり▼
ということで、過去に失われた恋について描く、というのは一貫している。
「あとがき」にも書かれていたように、彼はそれを一生を通じて描こうとしているようだ。
十代のころの恋を、四十代になっても忘れられない、というのはいかにも気持ち悪い。
しかし、人生は往々にしてそういうものだ、といわれれば、その通りだと首肯するしかないだろう。
多くの人は、その劇的な出会いをしていても、気づかないか、記憶に埋もれるかしてしまうのだろう。
どんな時期であれ、どんな年齢であれ、劇的な出会いができるというのは、それだけで幸せなのかもしれない。
タイトルにある街は現実の世界なのか。
しかし、現実かどうかということを問うこと自体がやはり無意味であり、形而上学的な世界を否定しないことがまさに文学や春樹がしようとしている仕事なのだろう。
あり得るかあり得ないか。
これだけ動画や映像が氾濫する世界で、文学が描ける世界は、どこまでも言葉の世界であり、現実と地続きの「なにか」だ。
現実そのものであれば、映画でよいわけだし、ファンタジーでしかなければ、またそれもCGやアニメで描けば良い。
やたらと長い作品になったが、その街を説得力あるように、ありのままに描こうとするとどうしてもそれだけの長さが必要だったのだろう。
影、街、門衛、イエローサブマリンの少年。
すべてが記号的でありながら、そして謎解きを要求しながら、テーマは喪失と再生だ。
そして他者と自己との重なりである。
街の外で、コーヒーショップの名もなき女性と、私は再会するのだろうか。
どれだけ16歳の少女を愛していたとしても、彼女自身に成り代わることはできない。
他者は他者であり、自己が代替するわけにはいかない。
けれども、同時に自己は他者との関わりの中で生成されて、形作られていく。
愛や喪失と一言で言えるほど、物事はわかりやすくはない。
人生の不可解さ、物事の不透明さこそが、春樹がたどり着こうとしている「何か」なのかもしれない。
余談だが、春樹が好きではない妻が「どうせまたパスタをゆでて女の子とイチャイチャするんやろ」と揶揄していた。
読み始めて「今回はパスタゆでないし!」と言い返していたが、後半にパスタをゆでていて、「あ、やっぱりゆでるんや」となった。
とりあえず、今晩パスタをゆでようかと思う。
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