本とインターネットとの違いは何か。
今回の観点は、異化と同化、というものだ。
異化と同化についてはこれまで何度か書いてきたので、そちらを読んでいただこう。
まあ、読まないだろうけれど。
結論から言えば、本を読む人は異化を求めている。
一方、インターネットを開く書き込む人は、同化を求めている。
もちろん、反対の場合もある。
けれども、多くの場合、同化と異化は棲み分けされているように感じる。
たとえばインターネットを開いていて自分と違う意見があれば見ない。
自分とは違う意見を見て、ああなるほどそういうこともあるのか、という新たな発見は、あるようでない。
「やっぱりそうやんな!」というような同意についての発見はあるにしても、刹那的に読めてしまうインターネットは、「自分と違う意見」は排除されていく。
典型的なのはポータルサイトやSNSの記事だ。
自分が見たことがある記事は、関連記事がどんどんあがってくる。
見たことがない、興味がないものはどんどん優先順位が下がってくる。
意識しないとしてもそうなっていく。
そうなると、自分の都合の良い記事ばかりで溢れてくることになる。
それは、完全に「同化」そのものである。
だが、本は自分の知りたい情報だけではない知識や情報が入ってくる。
わかりやすいのは、買ってみて、読んでみて、思っていたのと違う、という経験が少なからずある、という例だろう。
このまま読み続けるのか止めてしまうのか……。
だが、そうした相克や葛藤、逡巡があるのが本というメディアだ。
はやりの読書術などでいえば、そういう本は読むのを止めてしまうべきなのかもしれない。
その一方で、そういう〈違和感〉との出会いがあるのも本という醍醐味でもある。
すぐに更新されていく(すなわち拒否もできる)インターネットとは決定的に違う点であろう。
今回の観点は、異化と同化、というものだ。
異化と同化についてはこれまで何度か書いてきたので、そちらを読んでいただこう。
まあ、読まないだろうけれど。
結論から言えば、本を読む人は異化を求めている。
一方、インターネットを開く書き込む人は、同化を求めている。
もちろん、反対の場合もある。
けれども、多くの場合、同化と異化は棲み分けされているように感じる。
たとえばインターネットを開いていて自分と違う意見があれば見ない。
自分とは違う意見を見て、ああなるほどそういうこともあるのか、という新たな発見は、あるようでない。
「やっぱりそうやんな!」というような同意についての発見はあるにしても、刹那的に読めてしまうインターネットは、「自分と違う意見」は排除されていく。
典型的なのはポータルサイトやSNSの記事だ。
自分が見たことがある記事は、関連記事がどんどんあがってくる。
見たことがない、興味がないものはどんどん優先順位が下がってくる。
意識しないとしてもそうなっていく。
そうなると、自分の都合の良い記事ばかりで溢れてくることになる。
それは、完全に「同化」そのものである。
だが、本は自分の知りたい情報だけではない知識や情報が入ってくる。
わかりやすいのは、買ってみて、読んでみて、思っていたのと違う、という経験が少なからずある、という例だろう。
このまま読み続けるのか止めてしまうのか……。
だが、そうした相克や葛藤、逡巡があるのが本というメディアだ。
はやりの読書術などでいえば、そういう本は読むのを止めてしまうべきなのかもしれない。
その一方で、そういう〈違和感〉との出会いがあるのも本という醍醐味でもある。
すぐに更新されていく(すなわち拒否もできる)インターネットとは決定的に違う点であろう。
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