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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

重層的な子どものことば

2023-12-04 18:35:31 | 表現を考える
兄弟のやりとりがたまらなく面白い。
言葉の発達が早かった私の子どもは、周りの同級生の言葉の発達をも促進させるほど、しゃべくりに育った。
うえの子は特に、知的好奇心が強く読書が大好きなので、大人もびっくりするような言葉遣いをしてくる。
下の子はそれに釣られてどんどん言葉を覚えて、大人の矛盾点を鋭く突いてくる。

そんな2人のやり取りを見ていると、言葉が実に多様であり、そして多層であることに気付かされる。
いわゆるおままごとをしている時、下の子から頻繁に、遊びを訂正していく言葉が入る。
「これは、ドーナツ屋さんってことな」
「今帰ってきたところ、っていうことにして」
時には、相手のセリフを指定しながら、自分のイメージした場面設定を要求する。
上の子は、気を遣って、その通り演じてくれる。

演じられている閉じられた役のセリフと、その場面を調節した説明の言葉が重曹的に織りなしている。
もちろん、ぬいぐるみが発したはずのセリフが突如として入ることもある。
それはまるで小説のようであり、語り部のようであり、演劇や戯曲のようでもある。

二人のやりとりは、語り手としてのことば(=表現世界)と、登場人物としてのことば(=物語世界)が複雑に絡み合っていることを示唆している。
その表現世界からのことばが、遊びそのものをコントロールし、メタレベルで作用している。
たとえるなら、プレイヤーとレフェリーが切り替わりながらゲームを進行していく。
その違いを意識しながら、そして無意識に(当たり前のように)遊びが継続されていく。

幼い二人なのに、かなり高度なことをやっているぞ、と私は観察している。
その中で、突然うまくいかなかったことに対して、感情的になって泣き出してしまう、「自分」が登場することもある。

私はこういうやりとりの中に、演劇や物語の原型を見いだす。
もしかしたら、演劇や物語、小説、映画、そういった表現は非常にプリミティヴなものなのかもしれない。
歌舞伎、能、狂言、オペラやミュージカルなどを、非常に高度な芸術的文化であると私たちは錯覚しているが、むしろ原始的なものなのかもしれない。

そして、様々なレベルでのことばが、私たちの日常を作り出している。
それは本音と建前、内と外といった二項対立でもない、もっとグラデーションが複雑なものだろう。
豊かな、といえば手垢が付きすぎているかもしれないが、ことばの重層性、多相性が、一人の人間の多様性をもたらす。

そこにはアイデンティティといった確固たるもの、統一された完結したものというような自己のあり方とはまったく違うものだろう。
アメーバのように、形を変える、それでいて一つの自分である。
それはその人の言葉の多様性がよく示しているはずのものだ。
逆に、一つのことば、画一的なことばしか持たない人は、どこかいびつな人間ではないか。

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