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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

バットマン ビギンズ(V)

2009-04-19 20:48:19 | 映画(は)
評価点:83点/2005年/アメリカ

監督・脚本:クリストファー・ノーラン

「礼? 必要ない」

大富豪の息子ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベイル)は幼いとき両親を賊に殺されてしまう。
自分の生き方を見つけられない彼はその殺人犯が捜査協力のために恩赦を受けるという公聴会に出席し旅に出ることを決意する。
さ迷ったあげくアジアの刑務所にたどり着く。
そこで現れたラーズ・アル・グールの使いと名乗る男(リーアム・ニーソン)に会い、生きる術を学ぶ。
しかし彼等の考えは生まれ育ったゴッサムシティを破壊するというものだった。
ブルースは協力できないとつげ、七年ぶりにゴッサムに戻り街の腐敗を目の当たりにする。

メメント」「プレステージ」などのクリストファー・ノーラン監督の「バットマン」シリーズの第1弾となった作品だ。
主演は「ターミネーター4」でジョン・コナーを演じるクリスチャン・ベイルである。

日本では渡辺兼が出演したことで話題になった。
僕はアメコミにあまり興味もなかったため敬遠していたが、「ダークナイト」によって考えがかわり、見ることにした。
鉄は熱いうちに打て、である。
そろそろ僕もバットマンになれないかと真剣に勘違いしている今日この頃である。
言うまでもなく、ひいき目があるので、評価が高いのは仕方がない。

ちなみに、一週間レンタルで二回みた。
その間に「ダークナイト」をもう一回はさみ、五時間連続で「バットマン」三昧を楽しんだ。
それでもまったく飽きなく観られたのが自分でも驚きだ。

本作も、「ダークナイト」をまだ観ていないのなら、「ビギンズ」→「ダークナイト」という順序で観ることをお勧めする。
どちらも単体で楽しめる映画だが、連続で観るとよりその世界が味わえるように撮られているからだ。

▼以下はネタバレあり▼

哲学は正当に次回作に継承されたと言っていい。
この作品の根本的なテーマは続編にも完全に受け継がれている。

これはヒーローが誕生するまでの物語である。
ブルース・ウェインがバットマンとして覚悟を決める物語である。
それは「ダークナイト」に継承される流れなのだ。

僕がこのバットマンが好きで憧れさえ抱くのは、戦いを自分という〈他者〉を相手にしているからだ。
また機会を改めるつもりでいるが、アメリカ映画における悪は常に外部に置かれる。
端的なのは、原作が同じ時期に発表された「ウォッチメン」だろう。
ウォッチメン」では〈敵〉=〈他者〉を外側に作ること、それがヒーローの誕生であると結論づける。
それは聖書で悪のすべてを「サタン」という外部に敵を設定するのに似ている。
おそらく聖書を既定に置くアメリカでは、象徴的にではあれ、外部の〈他者〉と向き合うことが、〈自己〉、あるいは〈自我〉を見いだす絶対条件なのである。
それはディザスター映画が、自然という〈他者〉が出現するために、人類が一致団結するという話のパターン(話型)をもっていることとも同じことだ。

だが、この「バットマン」シリーズで一貫していることは、〈他者〉は内部に存在している。
ダークナイト」では人々の内部に、「ビギンズ」ではブルース・ウェインの内部に〈他者〉がいる。
敵は己なのだ。

バットマンがバットマンたる所以は、それが自分の恐怖の元凶だからだ。
子どもの頃落ちた井戸にいたこうもりがトラウマとして根付き、それが元で両親を殺されてしまう。
しかもその復讐は遂げられることなく、ちゅうぶらりんのまま「解決」してしまう。
彼が自暴自棄になり、それを救うのがラーズ・アル・グール(渡辺謙)である。
彼に青い花を持ってくるように課し、それは実は自分の恐怖を映し出す麻薬だった。
彼は恐怖を克服するように迫られ、復讐するように教育される。
だが、復讐ではなく正義を貫くという精神を捨てなかったブルースは結局、彼らと仲違いしてしまう。

ラーズが実はリーアム・ニーソンであり、渡辺謙が影武者だったことは物語の後半に明かされる。
このことが明かされた時、物語がラーズ・アル・グールに育てられ、克服する物語であることがわかる。
両者の考えは全く対照的だ。
ラーズは世界を救うためには現在の腐敗した世界を一度破壊するべきだと考える。
だからゴッサムシティは不況に陥り、自壊していくように仕組む。
良心のある有力者であったウェイン一族は、それを阻むように慈善事業に取り組んでいた。
だが、そのウェイン夫婦が賊に殺されたことを契機に再びゴッサムに闇が訪れる。
その闇を決定的にするために、青い花から抽出した麻薬によって人々を恐怖に陥れようとしたのだ。
これはあきらかにテロリズムであり、独りよがりの理想である。
それを一蹴するほど、理想を述べることができるアメリカ人はいない。
なぜなら、これまで行ってきたアメリカの現実は、イラク戦争にしろ、なんにしろ、このテロリズムとあまり変わらないように見えるからだ。
共産主義を壊すことで、民主主義が保証され、果たしてそれが真の平和と言えるのか。
誰もが傷口に塩を塗られるがごとき痛みを感じるはずだ。
ウォッチメン」も少なからず彼らの考えに近い気がする。

一方、ウェインは自分の恐怖を身にまとうことで、正義を貫こうとする。
壊すためにではなく、救うためにその力を発揮しようとする。
毒をかけられ、克服する姿は、ラーズ一味と決定的に違っていることを示すかのようだ。
彼らに教わった術で、彼らを倒すと言うことは、〈父殺し〉の物語のように独り立ちすることを意味している。
それはウェインにしかできないヒーローを描き出すということに他ならないのだ。
物語としても、はじめと終わりが見事に呼応しているのである。

内部の恐怖に負けた人々が次々と襲いかかる中、正気のゴードン(ゲイリー・オールドマン)たちが必死になって彼らを正気に戻そうと、戦う。
これは物語の中心的テーマと見事に一致する。
戦っている相手は、ラーズ一味という敵なのかもしれない。
だが、本当の敵は、民衆の恐怖や怠惰であるということを示している。

東洋の技術だけでなく、東洋の内面に対する自己反省という哲学までも取り入れている。
それは単なる偶然じゃないだろう。
ノーラン監督は、そこまで見越してこの映画を描いたに違いない。
だからこそ、この映画は希有な映画なのだ。

随所に、ありえんだろう、という気持ちの良い金持ちぶりを描いているのも、ファンにはうれしいところだろう。
ホテルを丸ごと買ったり、バットマンの顔を作るために一万個の部品を購入したり、戦車のようなバットモービルを備えたり。

それだけではない。彼の哲学は非常に気持ちが良い。
失うものだらけの彼にとって、ヒーローであることは並大抵のことではない。
けれども、ゴードンにこう言い放つ。
「礼など必要ない」

アメリカはこう言い残して各国から立ち去れるだろうか。
オイルのためでもなく、お金のためでもなく、自国の影響力のためでもなく、「礼など要らない」と言えるだろうか。

ノーランは、良い映画を撮ったね。


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