SNSというメディアは、人々の生き方や生活を大きく変えてきた。
人間関係をネット上に持ち込んだ、という言い方はすでに生ぬるい。
むしろ、SNSは新たなる人間関係を作る場所になり、自分の考えや思いを一方的に吐露し合う、現実とはかけ離れた場所になっている。
私は「いいね!」というボタンは、SNSというコミュニケーションの場を根本的に決定づける流れを作ってしまったと考えている。
人間関係や自分の発言や写真(動画・音声)を数値化して可視化することで、承認されているという実感を得る装置である。
自分を支持するフォロワー数も、可視化されることで、自分が「がんばった証拠」として捉えることができるようになった。
だが、もちろん、この数と自分という存在の価値はまったく関係がない。
どれだけ読者が少なくとも貴重な書籍が存在するのと同じで、「いいね」の数が少ないからといって、価値がないというわけではない。
それでも、それを〈いちおう〉無視できるくらいに、数値のインパクトは強い。
この「いいね」は、要するに特定多数あるいは不特定多数からどれだけたくさんの指示を得られるかということを示している。
いや、それだけを示している。
深く共感している「いいね」もあれば、ほとんど発信者の名前やタイトルだけをみて押された「いいね」もある。
しかし、すべてを平板化して「1票」として数えるわけだから、その多寡によって記事の善し悪しやその人の人間性を反映するわけではまったくない。
もっとはっきり言えば、「いいね」が多い場合、その発信内容がマジョリティに属している、ということを示すだけである。
だから、SNSはマジョリティを高揚させ、マイノリティを無視ししていく装置として機能する側面が少なからずある。
人間関係を、あるいは発言や「作品」を、支持が多いかどうかという経済的な側面から〈ふるい〉にかけているわけだ。
だからSNSは経済的な活動と結びつきやすい。
私たちが日々囚われているのは、承認欲求ではなく、経済的価値観に人間関係まで覆い尽くされているという絶望的な事実である。
人間関係をネット上に持ち込んだ、という言い方はすでに生ぬるい。
むしろ、SNSは新たなる人間関係を作る場所になり、自分の考えや思いを一方的に吐露し合う、現実とはかけ離れた場所になっている。
私は「いいね!」というボタンは、SNSというコミュニケーションの場を根本的に決定づける流れを作ってしまったと考えている。
人間関係や自分の発言や写真(動画・音声)を数値化して可視化することで、承認されているという実感を得る装置である。
自分を支持するフォロワー数も、可視化されることで、自分が「がんばった証拠」として捉えることができるようになった。
だが、もちろん、この数と自分という存在の価値はまったく関係がない。
どれだけ読者が少なくとも貴重な書籍が存在するのと同じで、「いいね」の数が少ないからといって、価値がないというわけではない。
それでも、それを〈いちおう〉無視できるくらいに、数値のインパクトは強い。
この「いいね」は、要するに特定多数あるいは不特定多数からどれだけたくさんの指示を得られるかということを示している。
いや、それだけを示している。
深く共感している「いいね」もあれば、ほとんど発信者の名前やタイトルだけをみて押された「いいね」もある。
しかし、すべてを平板化して「1票」として数えるわけだから、その多寡によって記事の善し悪しやその人の人間性を反映するわけではまったくない。
もっとはっきり言えば、「いいね」が多い場合、その発信内容がマジョリティに属している、ということを示すだけである。
だから、SNSはマジョリティを高揚させ、マイノリティを無視ししていく装置として機能する側面が少なからずある。
人間関係を、あるいは発言や「作品」を、支持が多いかどうかという経済的な側面から〈ふるい〉にかけているわけだ。
だからSNSは経済的な活動と結びつきやすい。
私たちが日々囚われているのは、承認欲求ではなく、経済的価値観に人間関係まで覆い尽くされているという絶望的な事実である。
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