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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

料理という営み

2023-12-23 15:01:27 | 毎日コラム
料理が私の習慣の一部になって、久しくなった。
「男子たる者厨房に入るべからず」と訴えたのもむなしく、早く帰れた日は台所で簡単な夕飯を作る。
私の方が早く家を出るので、時間があれば弁当も作る。
だが、料理の本質は、「食事」にあるのではないということを、何度もフライパンを振ることで見えてきた。
それは、経験が先であり、意味づけは後から行われるという典型的な〈気づき〉である。
それは、だから行為の前に開示されているものではなく、行為の事後に気づかされるものである。

料理は、調理は、自分が食べるための栄養を摂取するための営みではない。
料理をするということは、誰かのために作るということであり、生存のためではない。
料理を一切作らなくて良くなった現代において、人間関係が希薄になっていることはそのことと無関係ではあるまい。
手軽に、簡単に、手早く、食べられるということと、料理を経てから食卓を囲むというのは大きな違いがある。

コロナが収まってから飲み会がなくなったことは、喜ばしい一面もありながら、人間関係はますます希薄になっていくことを示唆している。
それは、むしろ集団の結束を弱め、仕事はあくまでも生きるための手段である、業務はあくまで全体の一部であるという機械的な人間観を推し進めることになるだろう。
果たしてそれは、幸せな生き方、幸せな職場なのだろうか。

いや、そんなことはどうでもいい。
少なくとも、料理は誰かのために作る。
そのことが重要なのであり、栄養摂取はその結果でしかない。
誰かと囲む食卓が楽しみだから、料理をしなければならないと思う。
「おいしい」と言わせたいから、手をかける。

毎日、心を込めて、なんていう余裕はもてないかもしれない。
けれども、ちょっとした機会に手をかけることが、結果自分を支える場所を作っていくことになるのだろう。

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