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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

200本のたばこ(V)

2010-01-28 10:19:31 | 映画(な)
評価点:65点/1999年/アメリカ

監督:リサ・ブラモン・ガルシア

やっぱり大晦日には何かが起こる?!

新年を恋人と過ごしたいと思う男女は、最後の望みをかけた大晦日、街に繰り出してどんでん返しの恋を狙っていた。
大晦日が誕生日という不運(?)なケビンは恋人と別れたばかり。
腐れ縁となってしまった女友達とぐちりながら若者が集まるバーで、シングルの女の子を探していた。
また昨日知り合った恋人の初デートを楽しみにタクシーに乗ったシンディ(ケイト・ハドスン)は、おっちょこちょいな面があり失敗しないかとビクビクしている。
まだ高校生のヴァル(クリスティーナ・リッチ)たちは、叔母のモニカのところでパーティーがあるため、訪れようとしていたが、住所がわからず夜の街にさまようことになる。

大晦日から新年にかけての群像劇だ。
久しぶりに群像劇をみた気がする。
まったく予備知識なしで見たので最初は戸惑った。
もっとスタイリッシュな映画だと勝手に想像していて、びっくりした。

ジャンルとしては恋愛ドラマにあたるはずだ。
だが、「ラブ・アクチュアリー」などを想像して観るときっとがっかりすることになるだろう。
もう少しシニカルに、もう少しブラックに、もう少しプラグマティックなドラマだ。
人間関係が微妙に絡み合いながら進むものの、映画によくあるような、説明的な台詞が少ないため、言葉の裏をとりながら観ていかなければ状況を把握するのも難しいだろう。
上映時間はそれほど長くないが、群像劇が苦手な人は、ちょっと難しく感じるかもしれない。
もっとも、「マグノリア」みたいなことはないけれども。
 
▼以下はネタバレあり▼

聖夜を祝うためのパートナーを探す、という共通点が、この群像劇の軸であるだろう。
パーティーの主催者の女は、誰も来ないパーティーにうんざりしているが、この映画はパーティーそのものを描いた作品ではない。
パーティーは後日談にすぎず、彼らがどのようにしてそのパーティーに参加するようになるか、という過程にこそ、映画のテーマがあるはずだ。

彼ら、彼女らは、みなパートナーを求めながら、出会うことができない。
いや、出会うことができないのではなく、理想とかけ離れた相手と、結ばれることを躊躇している。
結果的に結ばれる相手が実は身近な人であったり、偶然であった人であったりするが、その「出会い」に至るまでに、彼・彼女らは非常に遠回りさせられるように見える。
パーティーで収束しながらも、何時間も遠回りさせられる、それこそがこの映画で描きたかった部分であるはずだ。

聖なる夜、人は皆穢れを振り払うという。
それは日本でもアメリカ(西欧)でも同じことだろう。
根本的な思想や文化が違うため、全くのイコールではないにしても、神(GOD)に対して“年またぎ”は特別な意味合いがある時間・空間であるだろう。
そして一年の終わりと始まりで、前年と新年との境で、人は何か「変わろう」とするものだ。
「今年の目標」などを掲げるのもそうした「リセット」の意味合いが強い。
大晦日という時間設定は、「変化」であり「境」であるという記号性を持つ。

モニカが開催しようとしたパーティーは、「神聖な場所」として設定されている。
いわば新年を迎えるに当たって特別な場所であり空間なのだ。
だからパーティーに参加したものは皆(ではないにしても)何かを手に入れる。
パーティーにいつまでも遠回りして参加できないのは、「参加するための資格」がないからだ。
つまり、パーティーに至るまでの物語を描くということは、「パーティーに参加するための資格を得る物語」という言い方もできる。

では、どうすればパーティーに参加できるようになるのか。
それはやはり一年(あるいはこれまで)の〈穢れ〉を落としてしまうことだろう。
たとえば五年間つきあってきたルーシー(コートニー・ラヴ)とケビン。
「あのバーテンをものにするわ」
「もしも、誰もあなたの相手が見つからなかったら私とセックスしない?」
という女の言動から彼女はケビンのことが好きだったことがわかる。
元彼女に対して浮気していたと嘘をつくのも同じ理由だろう。
彼女は何とかケビンに自分の想いを伝えたいと思っているのだ。
そもそも、大晦日という重要な日にケビンとつきあってバーに行く必要もなかったはずだ。
彼女の〈穢れ〉はいわば彼への想いである。

男の方は全くそれに気づかない。
ただ大晦日、しかも誕生日に相手を見つけることができればいいと思っている。

しかし、お互いの“利害”が一致して、トイレで抱くという段になって、彼女は「やっぱりやめよう」と言い出す。
男にとっては理解できない状況だが、ルーシーにとっては、彼が全く自分に気持ちがなく、肉体関係だけを持とうとしていることを表情などで知ってしまったからだろう。
彼を愛している彼女にとって、肉体だけの関係では〈穢れ〉は落とせない。
それこそ、彼女にとって、もっとも惨めな関係になってしまう。
それだから、彼女は一線を越えることができないわけだ。

画家のエリック(ブライアン・マッカーディ)も〈穢れ〉を落とす。
人間的な魅力は悪くない(?)彼も、ベッドの中が最悪という汚点を持っている。
だが、彼はなぜ自分からパートナーが離れていくのかわからない。
ふられてしまった彼は、元彼女のもとへいき、理由を質す。
彼女は絶叫混じりにベッドが最悪だと告げる。
一夜でそれが解決するわけではないが、画家は気づくことで〈穢れ〉を落とすのだ。
彼がエロティックな抽象画を描いていることは、おそらく彼の欲望の裏返しなのだ、というアイロニーだろう。

全員を紹介するのはやめておこう。
このように、多かれ少なかれ、年齢や性別、置かれた状況は違えども、彼ら・彼女らは聖夜にふさわしい一年の〈穢れ〉を落として、パーティに向かうのだ。
〈穢れ〉を落とした人々は、それぞれのパートナーを見つけてめでたく結ばれる。
タイトルの「200本のたばこ」は、もちろん、この〈穢れ〉の状態を示し、いらだちや不安、孤独の記号である。
ラストでケビンの台詞でそれもわかるはずだ。

だが、本当にその関係がずっと続くかは不透明だ。
(個人的にはケビンとルーシーは続いてほしいが。)
アメリカはこのようにして毎年多くの出会いと別れを演出して一年が巡るのだ。
「よくある話」でありながら、どこにもない悲しみを抱えた人々、をうまく描き出しているわけだ。

彼らにはみな抱える悲しみがある、というスタンスはどこまでも徹底されている。
タクシー運転手にさえも、「人を運ぶ」という物語的記号だけではなく、キャラクターを設けている。
ここには、誰もが人生(大晦日)の主人公であり、誰もが恋や愛を手に入れる聖夜なのだという温かいスタンスがある。
この映画はどこまでもシニカルで、プラグマティックだ。
下手な恋愛ドラマよりも、よほど勉強(?)になる。
それは、誰もが「自分」という主観性を持ちながら、恋に没頭しているのだという、観る人全員へ訴えかける仕掛けがあるからだろう。
群像劇として「何も描いていない」ようにみえながら、ぐいぐいラストまで引っ張られていくのは、うなずける。

僕の唯一の失敗は、この映画をめったに映画を観ない家族と観てしまったことだ。
「なんや、おまえ。こんな映画ばっかり観てんのか」
(いや、そういうわけではないんですけどね……)
 
(2008/2/16執筆)

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