評価点:69点/2007年/アメリカ
監督:フランシス・ローレンス
CMの売り方が上手すぎたことで、ハードルを不用意に上げてしまった好例。
2012年。地球上の人類の人口は激減。数えるほどしかいなくなっていた。
ニューヨークという大都市も同様で、ただ一人、軍の医療研究者であるロバート・ネビル博士(ウィル・スミス)のみが、生存者として研究を続けていた。
朝は運動し、日が暮れるまでには帰宅し、夜は絶対に外出しない。
昼間でも暗がりにも近づこうとせずに、正午には、生存者にラジオで呼びかけていた。
愛犬サムとともに、食料の確保と研究の継続を行っていたが、ある日、サムが日が差し込まないビルの中に迷い込んでしまい……。
ネタバレは下の批評に書くとして、この映画はCMやそのほかの戦略が良かったことは間違いない。
思わせぶりな予告編は過剰に期待を高めてしまう。
もちろん、それが良い場合もあれば、良くない場合もある。
おそらく、ネタバレしてしまっていたとしたら、僕は観に行かなかったかもしれない。
「なぜ一人だけが生き残っているのか」
「人類に何が起こったのか」
その点がわからないことが、この映画の最大の魅力である。
故に、観た人は絶対にネタバレしてあげてはいけないし、観ていない人は完全に情報を遮断して観るべきだ。
出ないとおもしろさが半減以下になってしまうだろう。
その意味では商業的な戦略は間違っていなかったのかもしれない。
ただ、この映画のジャンルは、SFでもアクションでもない、ということは頭に入れておいたほうがいいだろう。
▼以下はネタバレあり▼
とはいえ、結論を書かないと批評にならないので、明かしてしまう。
結局はこの映画、NYに誰もいなくなると言う刺激的な内容であっても、「ゾンビ映画」に変わりはない。
ゾンビ映画の定義が難しいが、要は何らかの原因で、人が人を襲うようになる、ということだ。
NYに誰もいない、たった一人で生き残っている、というシチュエーションは面白いが、ネタバレしてしまうと、他のゾンビ映画となんら変わらない。
ただ、問題はそれが予告編を見る限り、わからないということだ。
もしかしたら、ホラー映画としてではなく、SF(「デイ・アフター・トゥモロー」や「ID4」など)の終末思想をモティーフにした映画と思って観に行く人がいるかもしれない。
少なくとも、誤解を与えるような予告や売り方だということは間違いない。
これが、功を奏するのか、どうかは、全て映画の完成度にかかっている。
僕としてはなぜこういった誤解を招きかねない売り方をしたのか、理解できたつもりだが、多くの人はそうはいかないだろう。
それは映画としての完成度がイマイチだからだ。
それについては後ほど触れることにしよう。
とにかく、この映画をゾンビ映画に位置づけない人がいるとすれば、それは、そうとうな頑固者か、もしくは映画を制作者の意図を酌もうと努力した人だろう。
「人類が絶滅しつつある世界」という原因は平たくいって、ウィルスだ。
医療のために開発された人口ウィルスが、人に猛威をふるい人類の九割が死滅した。
残りの一割には免疫がある人には感染しなかったが、生存者の感染者には凶暴化し、人を食うというもう一つの側面があった。
生き残った者は、感染者に喰い殺され、やがてNYには一人の生存者以外は、全て死んでしまうか、「ダークシーカー(暗闇の住人)」つまりゾンビになってしまうのだ。
このゾンビには、従来のゾンビ映画とは違う特色がいくつかある。
一つは「ヴァンパイア」と同じように、日光に弱い(紫外線)。
だから日があるうちは、外に出ることが出来ない。
ダークシーカーと呼ばれるゆえんである。
ネビル博士が日があるうちにしか行動できないのもこのためだ。
もう一つが、ゾンビ化は「死」ではなく「病気」であるということだ。
理性を失っているように見えるゾンビ化だが、ここでは、知性までは失っていない。
罠をしかけたり、動物を使ったり、統率の取れた攻撃をしかけたりと、かなり知的で、人間的な攻撃をしかけてくる。
その意味で、他の映画にあるようなゾンビ化とは少し違う。
そして、この映画のテーマに関わるのも、この部分なのだ。
制作者が単なるゾンビ映画として観てほしくなかった(だろう)という、その意図もここにある。
知性もある。集団としての統率力もある。
では何が健康な人間とウィルスに冒された人間と違いがあるのだろうか。
それは物語の終盤のシークエンスに答えがある。
研究を続けてきたネビル博士は、ようやく血清をつくることに成功する。
防弾ガラス越しに攻撃を繰り返すシーカーに対して、「俺は君たちを治したいのだ」と訴える。
理性を失ったシーカー達には当然その声は聞こえない。
やがて血清を託し、自爆してしまうことを選ぶ。
このシークエンスは、結末部分であること以上に映画としての物語的記号上、とても重要なものだ。
もう一つ。
これも物語の終盤、生存者の語る話も見逃せない。
生き残ってきた彼女はしきりに神の声が聞こえると話す。
神が導いているので、絶対に生存者の村はあるのだと。
初めは信じないネビルも、娘が話していた「ちょうちょ」の意味を、最後の最期で知ることによって、発心する。
結局ゾンビと人間との間にある一本の境界線は「信仰」だったのだ。
理性というよりも、何かを、あるいは光を必死で信じ抜こうとする信仰があるか
それとも失ってしまったのか、という点が免疫のあるなしに関わっていたのだ。
飢えに耐えきれず襲ってくるシーカーらは、あたかも飢えによって信仰を忘れてしまった社会主義国家の国民のように見える。
誤解を恐れずに、あえていうならば、アメリカ人にとってのイスラム教徒であり、日本人にとっての北朝鮮国民であり、あるいは中国国民なのかもしれない。
(これはあくまでマスコミを通して受けるイメージでの話。僕はそうは思わない)
すごい偏見だと言えばそれまでだが、ものすごい社会的な視座がここにはある。
盲目的に襲い来るシーカー達は、知性がないから恐ろしいのではなく、話も通じないし、信仰しているものが、何なのかも理解できない。
さらに言えば、交流の余地さえもない。
だから怖いのだ。
その上は、アメリカ的に言えば、自由を求める束縛されたファシズム国家だ。
この映画のシーカー、つまりゾンビ達が恐ろしいのはそこにあるだろう。
そして、そのように仕組まれている映画だ。
それが正しいかどうかは、個々の判断に任せるしかない。
ただ、この映画が単なるゾンビ映画ではなく、社会的に「生き残ってしまった男」を中心に据えて予告編を流しているところから考えても、制作者の意図するところはそこにあるだろう。
だから、ゾンビ映画、ホラー映画として予告編を編成することはできなかったのだ。
似たような映画としては「トゥモローワールド」がある。
こちらも、「何故子どもが生まれない」という問いかけを観客全体に投げかけることによって、社会を強く意識させようとしていた。
「28日後…」は同じゾンビ映画だが、こちらは生き残った側の社会をテーマにしている点で少し趣は違う。
問題は描かれているその奥を見出すことができ、それに納得できるかという点だ。
描きたい奥を見出す前に、おそらくほとんどの人が、「なぜホラー映画なのだ!」と憤慨するに違いない。
憤慨まで感じなくとも、だまされた感は否めない。
だまされたとしても、気持ちよく帰る映画はある。
「アンブレイカブル」や「サイン」などシャマラン映画は、まだ気持ちよく帰ることができる。
なぜなら、予告編では違うものを期待させるように、ちらちらさせておきながら、本編では期待するものとは違うものをみせて、見終わった後に納得させるだけの完成度があったからだ。
だが、この映画はそうではない。
この映画がシャマランの一連の作品とは全然違うのは、個を描くパワーだ。
あれだけ一人演技をさせておきながら、結局ネビル博士の個を描ききれなかった。
回想を夢というダイレクトな形で表現しておきながら、ネビルの個の問題をしっかりと捉えさせることが出来なかった。
だから、ネビルが最終的にたどり着く「解答」に感動できない。
これはかなり重要だった。
ここまで奇をてらったような商業的戦略を立てるなら、そのあと観客を必ず納得させるだけのものを用意しなければならない。
ネビルがたどり着く、信仰というファクターをもっとしっかりとつかませることができたはずだ。
もっと端的に言えば、ラストの「ちょうちょ」の気づきで観客を泣かせるべきだ。
多少強引でも、観客をあそこで泣かせなければ、きっと映画としてのカタルシスと、それまで感じてきた不安感、不信感、緊迫感を払拭しきれない。
カタルシスとそれまでの恐怖感との釣り合いがとれないのだ。
だから、観客は腹を立てないまでも、かなり期待はずれなイメージをもって映画館を後にすることになるだろう。
さらに言うならば、個を描ききれなかったことにより、タイトルの「アイ・アム・レジェンド」や、そうした積み上げてきた社会的コードがすべて目障り、耳障りに化してしまう。
説教臭く、うざったいものに感じてしまうのだ。
なぜなら、彼ら制作者が用意した解答はかなり一方的なものだからだ。
明らかにアメリカナイズされた世界観で、しかもアメリカンチックな結論で、
一方的な救いを「強制」する。
それを全世界一斉公開というのも、またアメリカのエゴイスティックさが出ている。
そもそものウィルスのはじまりがガン治療であり、人間の科学への警笛となっている。
一人だけが生き残ったという設定も、旧態依然としている。
世界の希望を描くために、人口を減らさないと人類は一つになれないのか。
希望をもてないのか。
そこまで墜ちないと、人々は自分たちの心に光を見いだせないのか。
社会的な視座を持ちながらも、すごく偏見に満ちて、普遍性にかけるよう見えてしまうのだ。
それを世界一般化、普遍化しようとしていることが、とても目障りに見えてしまう。
と、ここまでこき下ろすほど完成度が低いとは言えないが、結局はやはり個に迫る努力をすべきだったと思う。
「彼は伝説になったのだ」なんていう蛇足のナレーションを入れるくらいなら、もっとしっかりとネビルに迫ってほしかった。
制作者自身が観客を上から見下ろし、「プロパガンダ」しようとしている気がして、う~んという感じだ。
商業的にも、映画のテーマとしても、ハードルを自ら高くしてしまったのだろう。
(2008/1/13執筆)
監督:フランシス・ローレンス
CMの売り方が上手すぎたことで、ハードルを不用意に上げてしまった好例。
2012年。地球上の人類の人口は激減。数えるほどしかいなくなっていた。
ニューヨークという大都市も同様で、ただ一人、軍の医療研究者であるロバート・ネビル博士(ウィル・スミス)のみが、生存者として研究を続けていた。
朝は運動し、日が暮れるまでには帰宅し、夜は絶対に外出しない。
昼間でも暗がりにも近づこうとせずに、正午には、生存者にラジオで呼びかけていた。
愛犬サムとともに、食料の確保と研究の継続を行っていたが、ある日、サムが日が差し込まないビルの中に迷い込んでしまい……。
ネタバレは下の批評に書くとして、この映画はCMやそのほかの戦略が良かったことは間違いない。
思わせぶりな予告編は過剰に期待を高めてしまう。
もちろん、それが良い場合もあれば、良くない場合もある。
おそらく、ネタバレしてしまっていたとしたら、僕は観に行かなかったかもしれない。
「なぜ一人だけが生き残っているのか」
「人類に何が起こったのか」
その点がわからないことが、この映画の最大の魅力である。
故に、観た人は絶対にネタバレしてあげてはいけないし、観ていない人は完全に情報を遮断して観るべきだ。
出ないとおもしろさが半減以下になってしまうだろう。
その意味では商業的な戦略は間違っていなかったのかもしれない。
ただ、この映画のジャンルは、SFでもアクションでもない、ということは頭に入れておいたほうがいいだろう。
▼以下はネタバレあり▼
とはいえ、結論を書かないと批評にならないので、明かしてしまう。
結局はこの映画、NYに誰もいなくなると言う刺激的な内容であっても、「ゾンビ映画」に変わりはない。
ゾンビ映画の定義が難しいが、要は何らかの原因で、人が人を襲うようになる、ということだ。
NYに誰もいない、たった一人で生き残っている、というシチュエーションは面白いが、ネタバレしてしまうと、他のゾンビ映画となんら変わらない。
ただ、問題はそれが予告編を見る限り、わからないということだ。
もしかしたら、ホラー映画としてではなく、SF(「デイ・アフター・トゥモロー」や「ID4」など)の終末思想をモティーフにした映画と思って観に行く人がいるかもしれない。
少なくとも、誤解を与えるような予告や売り方だということは間違いない。
これが、功を奏するのか、どうかは、全て映画の完成度にかかっている。
僕としてはなぜこういった誤解を招きかねない売り方をしたのか、理解できたつもりだが、多くの人はそうはいかないだろう。
それは映画としての完成度がイマイチだからだ。
それについては後ほど触れることにしよう。
とにかく、この映画をゾンビ映画に位置づけない人がいるとすれば、それは、そうとうな頑固者か、もしくは映画を制作者の意図を酌もうと努力した人だろう。
「人類が絶滅しつつある世界」という原因は平たくいって、ウィルスだ。
医療のために開発された人口ウィルスが、人に猛威をふるい人類の九割が死滅した。
残りの一割には免疫がある人には感染しなかったが、生存者の感染者には凶暴化し、人を食うというもう一つの側面があった。
生き残った者は、感染者に喰い殺され、やがてNYには一人の生存者以外は、全て死んでしまうか、「ダークシーカー(暗闇の住人)」つまりゾンビになってしまうのだ。
このゾンビには、従来のゾンビ映画とは違う特色がいくつかある。
一つは「ヴァンパイア」と同じように、日光に弱い(紫外線)。
だから日があるうちは、外に出ることが出来ない。
ダークシーカーと呼ばれるゆえんである。
ネビル博士が日があるうちにしか行動できないのもこのためだ。
もう一つが、ゾンビ化は「死」ではなく「病気」であるということだ。
理性を失っているように見えるゾンビ化だが、ここでは、知性までは失っていない。
罠をしかけたり、動物を使ったり、統率の取れた攻撃をしかけたりと、かなり知的で、人間的な攻撃をしかけてくる。
その意味で、他の映画にあるようなゾンビ化とは少し違う。
そして、この映画のテーマに関わるのも、この部分なのだ。
制作者が単なるゾンビ映画として観てほしくなかった(だろう)という、その意図もここにある。
知性もある。集団としての統率力もある。
では何が健康な人間とウィルスに冒された人間と違いがあるのだろうか。
それは物語の終盤のシークエンスに答えがある。
研究を続けてきたネビル博士は、ようやく血清をつくることに成功する。
防弾ガラス越しに攻撃を繰り返すシーカーに対して、「俺は君たちを治したいのだ」と訴える。
理性を失ったシーカー達には当然その声は聞こえない。
やがて血清を託し、自爆してしまうことを選ぶ。
このシークエンスは、結末部分であること以上に映画としての物語的記号上、とても重要なものだ。
もう一つ。
これも物語の終盤、生存者の語る話も見逃せない。
生き残ってきた彼女はしきりに神の声が聞こえると話す。
神が導いているので、絶対に生存者の村はあるのだと。
初めは信じないネビルも、娘が話していた「ちょうちょ」の意味を、最後の最期で知ることによって、発心する。
結局ゾンビと人間との間にある一本の境界線は「信仰」だったのだ。
理性というよりも、何かを、あるいは光を必死で信じ抜こうとする信仰があるか
それとも失ってしまったのか、という点が免疫のあるなしに関わっていたのだ。
飢えに耐えきれず襲ってくるシーカーらは、あたかも飢えによって信仰を忘れてしまった社会主義国家の国民のように見える。
誤解を恐れずに、あえていうならば、アメリカ人にとってのイスラム教徒であり、日本人にとっての北朝鮮国民であり、あるいは中国国民なのかもしれない。
(これはあくまでマスコミを通して受けるイメージでの話。僕はそうは思わない)
すごい偏見だと言えばそれまでだが、ものすごい社会的な視座がここにはある。
盲目的に襲い来るシーカー達は、知性がないから恐ろしいのではなく、話も通じないし、信仰しているものが、何なのかも理解できない。
さらに言えば、交流の余地さえもない。
だから怖いのだ。
その上は、アメリカ的に言えば、自由を求める束縛されたファシズム国家だ。
この映画のシーカー、つまりゾンビ達が恐ろしいのはそこにあるだろう。
そして、そのように仕組まれている映画だ。
それが正しいかどうかは、個々の判断に任せるしかない。
ただ、この映画が単なるゾンビ映画ではなく、社会的に「生き残ってしまった男」を中心に据えて予告編を流しているところから考えても、制作者の意図するところはそこにあるだろう。
だから、ゾンビ映画、ホラー映画として予告編を編成することはできなかったのだ。
似たような映画としては「トゥモローワールド」がある。
こちらも、「何故子どもが生まれない」という問いかけを観客全体に投げかけることによって、社会を強く意識させようとしていた。
「28日後…」は同じゾンビ映画だが、こちらは生き残った側の社会をテーマにしている点で少し趣は違う。
問題は描かれているその奥を見出すことができ、それに納得できるかという点だ。
描きたい奥を見出す前に、おそらくほとんどの人が、「なぜホラー映画なのだ!」と憤慨するに違いない。
憤慨まで感じなくとも、だまされた感は否めない。
だまされたとしても、気持ちよく帰る映画はある。
「アンブレイカブル」や「サイン」などシャマラン映画は、まだ気持ちよく帰ることができる。
なぜなら、予告編では違うものを期待させるように、ちらちらさせておきながら、本編では期待するものとは違うものをみせて、見終わった後に納得させるだけの完成度があったからだ。
だが、この映画はそうではない。
この映画がシャマランの一連の作品とは全然違うのは、個を描くパワーだ。
あれだけ一人演技をさせておきながら、結局ネビル博士の個を描ききれなかった。
回想を夢というダイレクトな形で表現しておきながら、ネビルの個の問題をしっかりと捉えさせることが出来なかった。
だから、ネビルが最終的にたどり着く「解答」に感動できない。
これはかなり重要だった。
ここまで奇をてらったような商業的戦略を立てるなら、そのあと観客を必ず納得させるだけのものを用意しなければならない。
ネビルがたどり着く、信仰というファクターをもっとしっかりとつかませることができたはずだ。
もっと端的に言えば、ラストの「ちょうちょ」の気づきで観客を泣かせるべきだ。
多少強引でも、観客をあそこで泣かせなければ、きっと映画としてのカタルシスと、それまで感じてきた不安感、不信感、緊迫感を払拭しきれない。
カタルシスとそれまでの恐怖感との釣り合いがとれないのだ。
だから、観客は腹を立てないまでも、かなり期待はずれなイメージをもって映画館を後にすることになるだろう。
さらに言うならば、個を描ききれなかったことにより、タイトルの「アイ・アム・レジェンド」や、そうした積み上げてきた社会的コードがすべて目障り、耳障りに化してしまう。
説教臭く、うざったいものに感じてしまうのだ。
なぜなら、彼ら制作者が用意した解答はかなり一方的なものだからだ。
明らかにアメリカナイズされた世界観で、しかもアメリカンチックな結論で、
一方的な救いを「強制」する。
それを全世界一斉公開というのも、またアメリカのエゴイスティックさが出ている。
そもそものウィルスのはじまりがガン治療であり、人間の科学への警笛となっている。
一人だけが生き残ったという設定も、旧態依然としている。
世界の希望を描くために、人口を減らさないと人類は一つになれないのか。
希望をもてないのか。
そこまで墜ちないと、人々は自分たちの心に光を見いだせないのか。
社会的な視座を持ちながらも、すごく偏見に満ちて、普遍性にかけるよう見えてしまうのだ。
それを世界一般化、普遍化しようとしていることが、とても目障りに見えてしまう。
と、ここまでこき下ろすほど完成度が低いとは言えないが、結局はやはり個に迫る努力をすべきだったと思う。
「彼は伝説になったのだ」なんていう蛇足のナレーションを入れるくらいなら、もっとしっかりとネビルに迫ってほしかった。
制作者自身が観客を上から見下ろし、「プロパガンダ」しようとしている気がして、う~んという感じだ。
商業的にも、映画のテーマとしても、ハードルを自ら高くしてしまったのだろう。
(2008/1/13執筆)
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