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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ジョーカー フォリ・ア・ドゥ

2024-11-02 20:19:58 | 映画(さ)
評価点:53点/2024年/アメリカ/138分

監督:トッド・フィリップス

芥川「トロッコ」を思わせる。

ジョーカーとしてテレビ中継中に人気司会者を射殺した伝説の男、アーサー(ホアキン・フェニックス)はアーカムの精神病院で裁判を待っていた。
ジョークで看守たちを笑わせていた男も、いつしか無口な模範囚となっていた。
看守たちは面白がって、アーサーを賛美歌のセミナーに参加させることにした。
そこで出会ったのは、リー(レディ・ガガ)と名乗る強制入院させられている女性だった。
あなたの映画を20回は見た、と共感を寄せるリーに、アーサーは心を寄せていく。
そして、いよいよ前代未聞の事件を起こしたアーサーの公判が始まった。

前作が非常に大きな話題になり大ヒットした。
当然そのことを受けて続編が作られることになった。
しかし、アメリカや日本ではかなりの酷評を受けて、興行的にも大失敗に陥っている。
「こんなのは嫌だ」というような感想が寄せられて、賛否を呼んでいる。

私はちょっとこの3ヶ月ほどがほとんど人間らしい生活が送れなかったので、どうしようか迷ったが、たまたま時間が作れたので、期待せずに映画館に行った。
時間や期間を考えても、予想以上に観客は入っていたように思う。

ネタバレはよくないので、話題作の出来は各人で確認するしかない。
前作を見ていない人は見る価値のない映画になっているので、前作を必ず鑑賞してからにいしよう。
まあ、見ていなくてもわかるが、一本の映画としての自律性は低い。

▼以下はネタバレあり▼

どれくらい伝わるか分からないが、芥川の「トロッコ」を思い出した。
土工たちにトロッコに乗せられて、いい気になっていた幼い少年が、夕方になって突然「おまえは一人で帰れ」と言われて泣きながら帰る、あれだ。
悪のヒーローとして君臨するかに思えたジョーカーが、ラストで「いややっぱ無理やったわ」と告白する姿は、それまでおだてられてジョーカーを支持していた民衆たちを、どん底にたたき落とす。
もちろん、その民衆は私たち観客とどこか重なっているわけで、私たちの憤懣ややるせなさ、どうしようもない哀しみを背負ってくれるはずの対象をいきなり失う。
まさに、唐突に。
その衝撃は、幼い少年が一人で泣きながら家路に向かう、「トロッコ」にそっくりだ。

この映画に賛否があるのも無理はない。
この展開は、観客を二重の意味で裏切っている。
一つは、それまで現在の私たち(アメリカ国民)の、〈分断〉された世界を象徴する人物だと祭り上げたジョーカーというキャラクターが、単なる承認欲求のなれの果てだったと告白するからだ。

俺はみんなの夢を投影するような人物になりたかった、でもなりきれなかった。
そこには、社会に抑圧されたことで本心を表したジョーカーではなく、ジョーカーとして祭り上げられたことによって本心を抑圧されてしまったアーサー・フレックが暴かれている。
これは衝撃的な告白だった。
本当は素朴で弱い、善良な市民だったはずの男が、周りの不満を浴びることでむしろジョーカーになってしまう。
それは、私たちがリッチマンから剥奪されているはずの自由や権利を、私たちがさらに弱いものを担ぎ上げて、加害者になっていたということを示しているからだ。
ジョーカーは、むしろ自分で何を決めることもできない、大衆そのものだったわけだ。

社会やリッチマン、権力者、あるいは政治家が悪いんじゃないぜ、他ならぬ弱者を演じているおまえが悪いんだぜ、というテーマは、私たちの期待を見事に打ち砕いてしまう。

さらに良くなかったのは、その直接のきっかけは、看守の暴力だったということだ。
彼が心変わりしていく、本心に気づいていく過程は劇中丁寧に描かれているものの、直接的なきっかけとなっているのは、看守による復讐だった。
暴力に簡単に屈してしまったジョーカーは、そこに自身を投影していた私たちの中身が空っぽであることを示すのに十分で、そしてまた唐突すぎた。

だから、私たちは、なんだ、こんなジョーカーを見たかったわけではない、と失望することになる。
就中、前作の「ジョーカー」を愛していた観客の失望は極めて大きい。

しかし、それもまた仕方がなかった。
ジョーカーの生き方を肯定するわけにはいかない、という倫理が監督たちや制作会社にはあっただろう。
破壊的な行為、破滅的な思想を肯定した前作がことのほか支持されたことは、ある意味では危険すぎる。
それほどまでに社会が〈分断〉していることを結果的に示したことになるわけだが、そこからの揺り戻しが当然必要だった。

だが、予告なくこの本心が打ち明けられたとき、観客は戸惑うしかない。

もう一つ、この作品の裏切りはもっと深刻だったと、思う。
それは、ミュージカル映画で、丹念にこの作品を追っていた者にとって、あの歌唱はすべて本心ではなく祭り上げられた偽りの自分である、という吐露になっていることだ。

私はあの最後の陳述で衝撃だったのは、「え? じゃあ今までのあの歌はすべてウソだったということ?」という事実が突きつけられたからだ。
私はジョーカー、私は本当の愛を見つけた、私を理解してくれているのはあなただけだ。
こうした歌唱はすべて、周りから生み出された熱意であって、実は自分は無理をしていたのだ。
けれどそうはなれなかったのだ。

その告白は、これまで作品に付き合ってきた者たちへの強烈なカウンターパンチになる。
もっと言えば、リーとアーサーの歌唱はすべて、偽りの「無理をしていた幻想の私」であったという告白だった。
それは、ミュージカル映画は、どれだけ抑圧されていても歌だけは自分を表現する方法だ、というテーゼに真っ向から裏切ることになる。

これは「やっちゃあいけない裏切り」だった。
これをやってしまうと、観客と制作者たちとの信頼関係さえも奪ってしまう。
それまで真剣に物語に没頭していた観客が馬鹿にされてしまったように感じてしまうのも無理がない。
この作品がおもしろくない、と感じてしまうのは、そういうこれまで話に没頭していればいるほど、大きな徒労感としてカウンターを食らってしまうところに所以がありそうだ。

反社会的なダークヒーローのジョーカーを単純に崇めるようなメッセージはやはり出せないだろう。
故に作品のメッセージがまずかったとは思わない。
けれども、もっとアーサーを掘り下げる二時間であれば、ラストの独白も受け入れられた。
しかし、前半の二時間と、唐突に明かされる20分があまりに落差が大きい。

ラストで丸裸になったアーサーは、信奉者に殺される。
彼は結局自分自身を理解してくれる人を誰一人もたずに逝く。
私たちの孤独、孤立をますます深めることになるだろう。
自分を救うのは、自分だけなのか。
あるいは、自分を自分でコントロールすることなんて本当にできるのだろうか。

土工に「一人で帰れ」と言われても、私たちは帰る場所も行きたい先も見えないのだ。
その問いに、何らかの形で答えるための映画であってほしかった。
それもまた大衆、観客の一つの願いであっただろう。

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