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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

すずめの戸締まり

2022-12-13 20:12:10 | 映画(さ)
評価点:63点/2022年/日本/124分

監督:新海誠

入口と出口が違う。

すずめ(声:原菜乃華)は熊本に住む女子高生。
ある日通りがかった男(声:松村北斗)から、この辺りに廃墟はないかと尋ねられる。
咄嗟に忘れられた集落を答えた。
気になるすずめは授業を抜け出してその廃棄を訪れる。
そこで不思議な扉をみつけ、そばにあった石を引っこ抜く。
それが物語の始まりとなった。

新海誠の待望の新作。
相性の悪い私は今回も期待せずに映画館に向かった。
さきに見に行った周りに聞けば賛否両論で、「君の名は」には劣る、という話が多かった。
それを聞いて一縷の望みを抱いて開幕を待った。

▼以下はネタバレあり▼

遠いところで起こった地震だったので3.11は私にとって身近な出来事ではないと感じていたが、この映画をみて、やはりそうではなかったのだ、と感じさせられた。
それだけでもこの映画は私にとって価値がある。

あれから11年が経ち、ようやく物語にできるようになったのかもしれない。
これがエンドロールをむかえた、私の最初の読後感だ。

さて、この映画は典型的なロードムービーで、いわゆる往還の物語だ。
すずめは閉じ師に導かれて各地の後ろ戸を閉めて回る。
そして気づけばかつて自分が経験した東日本大地震の地に行きつき、過去の自分と対峙する。
そして熊本にまた戻るという話だ。

日常-非日常-日常という往還といってもいい。
すずめはこちら側の扉から、向こう側の扉を開き、そしてまたこちら側に帰ってくる。
その時に、かつて自分が迷い込んだ幼い自分に気づく。
そこで「不安でもいいから前に進め」という肯定的な思いを伝える。
東日本大震災で母親を失った悲しみを、はっきりと見つめて、そのうえでこれからの生きていこうという決意を新にする。

言葉にしてしまえばすごくありきたりだが、この震災を経験している人にとってはいやおうなしに突き立てられる。
11年という歳月がたったが、それでもなお私には深く刻まれていたことに気づいた。
私たちの琴線に触れるモティーフであることは間違いないだろう。

さて、それでも私はこの映画がかなりゆるゆるだな、という印象を受けてしまった。
残念だな、と思った点が大きくは二つある。
一つは人物のキャラクター設定だ。

すずめにしても、育ての親である岩戸環(声:深津絵里)も、どういう人物なのかいまいちわからない。
環はまだいい。
しっかりと吐露してくれるセリフもあって、苦しいながら熊本で生きてきたのだな、というのは少しはわかる。
すずめはほとんどつかめない。
東日本大震災で家族を失った。
しかし、それ以降どういう人物なのかわからない。
なぜ授業を抜け出してしまったのか。
かっこいいとしてもなぜ知らない青年についていってしまったのか。
勢いとはいえ、その男を、自分の家に上げてしまう。
母親が看護師だったから、といいながら包帯を巻くが、やはりちょっと無理がある。
看護師を目指しているとしても、いきなり居間ではなく自室に上げてしまったのは、パーソナルスペースがガバガバすぎる。
(もちろんそういうキャラクターでもいい。それならそれを示唆する描写がほしい)

巻き込まれる形で猫を追い、四国、神戸、東京へと赴く。
その時に出会っていく人と付き合っていくことになるが、その時の様子もやはりあいまいで不自然だ。
やはり「女子高生はこうあってほしい」という理想的で抽象的な人物像しか与えられておらず、これだけの行動力と日常からの逸脱は、不自然にしか思えない。

しかしそれでもまだ彼女は「深海ワールドはそういうものかな」とも思える。
が、草太くんのほうはさらに謎めいている。
閉じ師であるのはいいとして、なぜ教師を目指しているのか、なぜ閉じ師に目覚めたのか。
そういう設定や描写がすっぽりと抜けている。
はっきりいえば、過去をえぐられるすずめに対して、薄っぺらすぎるのだ。
氷漬けにされて落ちていく彼には、生きたいという思いしかない。
閉じ師であるリスクや覚悟もあまりないように思われる。
彼には過去がなく、張りぼてのように薄っぺらいキャラクターしかつかめない。

だから、彼にひかれるすずめもまた、薄っぺらい印象を受けてしまう。
その友達芹澤君も、なぜこれほどすずめに付き合ってくれるのかもわからない。
もう少し彼に語らせて、閉じ師である草太君の過去や日常がわかるような話をさせればよかったのに。

重厚な描写に対して、人物があまりにも薄っぺらい。
物語を3.11につなげようとしたこと、それをみみずとして具体化したことなどは面白いアイデアだった。
しかし、それが実際に人間を動かしていくとなると不自然さが伴ってしまう。
もちろん、アニメ画として緻密な書き込みがあるからこそ、かえって物語のクオリティが気になるかもしれない。
だからこれは単なる瑕疵とも言えないだろう。
他のアニメなら、気にならないことも気になってしまうのは、そこにしっかりとした世界が描かれているからに他ならない。

もう一つは、みみずと扉の設定が、一貫性に欠けるということだ。
冒頭では草太くんは、人がいないところ、人の残っているところにみみずは現れて理由もなく暴れ出すのだ、と教えてくれる。
熊本も、神戸も確かに人がいないところでみみずが発生する。
もちろん、猫のダイジン(声:山根あん)が解放して回っていたとしても。

しかし、ラストの3.11の遺構では、因果関係が逆になってしまう。
人がいなくなったから震災が起こったのか、震災が起こったから人がいなくなったのか。
冒頭では震災はわけもなく起こされる人間には理解を超えたものだったのが、氷漬けにされたあたりから必然の人為的な出来事に変換されていく。
だから、ダイジンによって起こされた後戸を閉めることになる。

小説などを読む気もないので、裏の設定などを知りたくもない。
私の解釈に間違いがある可能性はもちろんある。
それでも、やはりこの違和感は、震災に対して非常にデリケートになっているからこそ、私は気になるのだ。
どちらでもいい。
けれども、人がいなくなったところでみみずが現れて、あの東日本大震災が起こったのだとしたら、どういう「救い」があるだろう。
逆に、人の営為とは関係ないところで起こるのが震災だとすれば、私たちがあの震災で感じた不条理は、また一つの「救い」になりうるだろう。
わたしはすずめの物語を追体験しながら、その震災の不条理に対する救いを求めていたのだろう。
しかし、物語の冒頭で説明されていたみみずのあり方と、ダイジンと草太が繰り広げるダイナミックな見せ場とは大きな齟齬があるように感じられた。

私は何を見せられているのか。
震災のあの大地のうねりと、人々の情念は、犬や竜が喧嘩をするようなものではなかったはずだ。

だから「入口」と「出口」が違うように感じてしまうのだ。
たとえば、ダイジンはなぜ要石の役割から逃れようとしたのだろう。
そしてまた要石に戻ろうとしたのはなぜだろう。
猫という都合の良い外見によって、その本質をはぐらかされている。
ダイジンには意志があるのか。(石だけに)
さらに、能力を移すとはどういうことで、元々はダイジンも人間だったのか。

このあたりの「わからなさ」が、震災をどう描きたいのかということと、真っ向から向き合う真摯さの欠如に映ってしまう。

アイデアはおもしろかったし、メッセージ性は心を打つものがある。
けれども、3.11を題材にするのなら、覚悟が必要だ。
それは物語として描くことで、震災を〈過去〉にしてしまう覚悟だし、私たちの悲しみと向き合う覚悟であり、未来への志向に必要な覚悟だ。

もちろん、私は関西に住んでいて、震災の後を直接に目にすることは少ない。
そんな私ですら、私はまざまざと震災の悲しみを感じた。
その読後感は、おそらくこの作品の、こういうところからくるものだ。

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