評価点:78点/2011年/フランス/100分
監督:ミシェル・アザナヴィシウス
懐古主義のきわみ、だが。
サイレント映画全盛期、売れっ子俳優のジョージ(ジャン・デュジャルダン)は劇場を沸かせていた。
そんな時、映画の試写会の後たまたまであったペティ(ベレニス・ベジョ)とツーショットを撮られる。
翌日オーディションに出かけたペティはダンスを披露し端役をもらう。
次第にペティはスターへの階段を上り始める。
そんなころ、トーキー映画が登場し始める。
トーキーなんて面白くないと突っぱねるジョージはサイレント映画を自主制作しはじめる。
一方、トーキー映画に主演することになったペティは飛ぶ鳥を落とす勢いで人気を集める。
言わずもがな、2012年度のアカデミー賞作品賞を受賞した作品である。
昨年が「英国王」、「ハートロッカー」、「スラムドッグ・ミリオネア」、「ノーカントリー」と最近の作品賞はすべて劇場で鑑賞している。
今年も見ようと思っていたのに、全く時間がとれず、結局単館上映でやっているのを見つけてみることができた。
「英国王」があまりにも僕と合わなかったこと、そして今年度拮抗しているといわれた「ヒューゴ」も面白くなかったことがあって気後れしていたのも事実だ。
サイレント映画自体、ほとんど見たことがない。
モノクロ映画は昨年「白いリボン」で見ていたし、何度か劇場でも経験があるが、サイレントはほとんど覚えがない。
その意味でも、期待と不安が強い作品だった。
もうこれを読んでいる人は、懐かしいくらいに思っているかもしれないが、批評してみよう。
▼以下はネタバレあり▼
見る前から分かっていることは、この映画がアカデミー賞会員の大いなる「思い出」であるということだ。
CG技術が自明のものとなり、3D映画さえも当たり前になりつつある昨今において、この映画が映画たるゆえんは、「映画の興隆期を描いているから」に他ならない。
このサイレント、モノクロ、という手法が新しい「選択」になることはもうないだろう。
その「思い出」に浸るための映画であることは見る前から分かっていたことだ。
その意味ではこの映画が評価されている理由は、映画そのものの完成度がもちろん高いこともあるだろうが、社会的な歴史的な意味あいが強い。
もともとアカデミー賞が評価するのはそういう視点が強いのだから仕方がない。
だから、僕のようにトーキーという言葉さえも死語になり、当たり前の時代に生きてきた人たちにとってはそれほど強烈な印象は受けないだろう。
また、この時代の映画をもろに鑑賞していない僕は、この批評を書く人間として適切ではないかもしれない。
オマージュにあふれたこの映画の元ねたをほとんど知らないからだ。
ただ、昔をほとんど知らないものの一人として、この映画を切ってみよう。
映画のすばらしさは、緻密なCGやデジタルで管理された音響や、ましてめがねをかけての3Dではない。
そこに演じる「人間」がいるからなのだ、ということを強く印象付ける。
そこに演じる「人間」がいるからなのだ、というテーゼに対して強く共感する人間たちがやはりいる。
だから、この映画は非常に評価されるのだ。
つまり、今、ここで生きるものたちはどこか疎外されている閉塞感を持っている。
機械に仕事を奪われ、システムに人間性を奪われ、やり場のない悲しみと、時に追われる日々を送っている。
人間の表現力を遺憾なく発揮している、そしてそれがわかりやすい形で提示されていることに、この映画の最大の魅力がある。
CGで奪われた人間性は、トーキーに奪われたサイレント映画の「動き」に似ている。
本来の映画は「アバター」のようなものではなかったはずだ。
そういう悲鳴にも近いことばを形にしたのだ。
だが、この映画のすごいところはそうした現代の流れをとらえながらも、そこから一歩踏み出していく力強さもあるという点だ。
それがサイレントからトーキーという見事な演出によって描き出される。
世界に音が満ちあふれているという事実にジョージが気づくシーンは、非常におもしろい。
彼はサイレント映画で生きながら自らの世界を「音のない世界」と認識していた。
しかし、トーキー映画が世の中に表れると、自分を取り巻く世界が「音に満ちあふれた世界」であると再認識する。
それは、僕たちが3D映画を観たときに「現実は3Dだったのだ」と認識を新たにしたことよりも、さらに大きな衝撃だったはずだ。
それがやがてジョージにとっての「恐怖」になるのも、先に述べたとおりだ。
自分の人間性のすべてであった「うごき」が否定されたとき、アイデンティティを失う。
この映画は絶望では終わらない。
ラストに2人でタップダンスを披露するとき、初めてこの映画が「トーキー映画」となる。
それは新しい時代でも生きる覚悟を決めるというジョージの決意でもある。
頑固さや恐怖、不安を捨てて自分が勝負できるところで勝負していく。
単なる懐古主義ではない、メッセージ性あるラストである。
あの「カット!」という一連のシークエンスは、まさにその開かれた世界を暗示する。
ジョージと同じように、僕たちも自分の「声」をやっと手に入れるのだ。
すさまじく大きなカタルシスを得るのはそのためだ。
王道中の王道のラストといえる。
トーキーが当たり前だからこそ、その当たり前を逆手にとった映画なのだ。
アカデミー賞会員が喜びそうな、粋な演出に満ちている。
3D映画の台頭がめざましいからこそ、この映画が成立している、そんな映画だ。
まあ、僕にとっては懐古でもなんでもなかったわけだが。
監督:ミシェル・アザナヴィシウス
懐古主義のきわみ、だが。
サイレント映画全盛期、売れっ子俳優のジョージ(ジャン・デュジャルダン)は劇場を沸かせていた。
そんな時、映画の試写会の後たまたまであったペティ(ベレニス・ベジョ)とツーショットを撮られる。
翌日オーディションに出かけたペティはダンスを披露し端役をもらう。
次第にペティはスターへの階段を上り始める。
そんなころ、トーキー映画が登場し始める。
トーキーなんて面白くないと突っぱねるジョージはサイレント映画を自主制作しはじめる。
一方、トーキー映画に主演することになったペティは飛ぶ鳥を落とす勢いで人気を集める。
言わずもがな、2012年度のアカデミー賞作品賞を受賞した作品である。
昨年が「英国王」、「ハートロッカー」、「スラムドッグ・ミリオネア」、「ノーカントリー」と最近の作品賞はすべて劇場で鑑賞している。
今年も見ようと思っていたのに、全く時間がとれず、結局単館上映でやっているのを見つけてみることができた。
「英国王」があまりにも僕と合わなかったこと、そして今年度拮抗しているといわれた「ヒューゴ」も面白くなかったことがあって気後れしていたのも事実だ。
サイレント映画自体、ほとんど見たことがない。
モノクロ映画は昨年「白いリボン」で見ていたし、何度か劇場でも経験があるが、サイレントはほとんど覚えがない。
その意味でも、期待と不安が強い作品だった。
もうこれを読んでいる人は、懐かしいくらいに思っているかもしれないが、批評してみよう。
▼以下はネタバレあり▼
見る前から分かっていることは、この映画がアカデミー賞会員の大いなる「思い出」であるということだ。
CG技術が自明のものとなり、3D映画さえも当たり前になりつつある昨今において、この映画が映画たるゆえんは、「映画の興隆期を描いているから」に他ならない。
このサイレント、モノクロ、という手法が新しい「選択」になることはもうないだろう。
その「思い出」に浸るための映画であることは見る前から分かっていたことだ。
その意味ではこの映画が評価されている理由は、映画そのものの完成度がもちろん高いこともあるだろうが、社会的な歴史的な意味あいが強い。
もともとアカデミー賞が評価するのはそういう視点が強いのだから仕方がない。
だから、僕のようにトーキーという言葉さえも死語になり、当たり前の時代に生きてきた人たちにとってはそれほど強烈な印象は受けないだろう。
また、この時代の映画をもろに鑑賞していない僕は、この批評を書く人間として適切ではないかもしれない。
オマージュにあふれたこの映画の元ねたをほとんど知らないからだ。
ただ、昔をほとんど知らないものの一人として、この映画を切ってみよう。
映画のすばらしさは、緻密なCGやデジタルで管理された音響や、ましてめがねをかけての3Dではない。
そこに演じる「人間」がいるからなのだ、ということを強く印象付ける。
そこに演じる「人間」がいるからなのだ、というテーゼに対して強く共感する人間たちがやはりいる。
だから、この映画は非常に評価されるのだ。
つまり、今、ここで生きるものたちはどこか疎外されている閉塞感を持っている。
機械に仕事を奪われ、システムに人間性を奪われ、やり場のない悲しみと、時に追われる日々を送っている。
人間の表現力を遺憾なく発揮している、そしてそれがわかりやすい形で提示されていることに、この映画の最大の魅力がある。
CGで奪われた人間性は、トーキーに奪われたサイレント映画の「動き」に似ている。
本来の映画は「アバター」のようなものではなかったはずだ。
そういう悲鳴にも近いことばを形にしたのだ。
だが、この映画のすごいところはそうした現代の流れをとらえながらも、そこから一歩踏み出していく力強さもあるという点だ。
それがサイレントからトーキーという見事な演出によって描き出される。
世界に音が満ちあふれているという事実にジョージが気づくシーンは、非常におもしろい。
彼はサイレント映画で生きながら自らの世界を「音のない世界」と認識していた。
しかし、トーキー映画が世の中に表れると、自分を取り巻く世界が「音に満ちあふれた世界」であると再認識する。
それは、僕たちが3D映画を観たときに「現実は3Dだったのだ」と認識を新たにしたことよりも、さらに大きな衝撃だったはずだ。
それがやがてジョージにとっての「恐怖」になるのも、先に述べたとおりだ。
自分の人間性のすべてであった「うごき」が否定されたとき、アイデンティティを失う。
この映画は絶望では終わらない。
ラストに2人でタップダンスを披露するとき、初めてこの映画が「トーキー映画」となる。
それは新しい時代でも生きる覚悟を決めるというジョージの決意でもある。
頑固さや恐怖、不安を捨てて自分が勝負できるところで勝負していく。
単なる懐古主義ではない、メッセージ性あるラストである。
あの「カット!」という一連のシークエンスは、まさにその開かれた世界を暗示する。
ジョージと同じように、僕たちも自分の「声」をやっと手に入れるのだ。
すさまじく大きなカタルシスを得るのはそのためだ。
王道中の王道のラストといえる。
トーキーが当たり前だからこそ、その当たり前を逆手にとった映画なのだ。
アカデミー賞会員が喜びそうな、粋な演出に満ちている。
3D映画の台頭がめざましいからこそ、この映画が成立している、そんな映画だ。
まあ、僕にとっては懐古でもなんでもなかったわけだが。
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