secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

インファナル・アフェア(V)

2008-10-19 11:50:20 | 映画(あ)
評価点:88点/2002年/香港

「ディパーテッド」の原作、香港発の秀逸サスペンス。

警察学校でヤン(トニー・レオン)は、その才能を見出され潜入捜査官になることを命じられる。
一方、マフィアのボス・サムは、その警察学校にマフィアのスパイとして部下を送り込む。
そして、10年後、サムが麻薬取引する情報をヤンから得た捜査当局は、その現場を押さえようと、取引現場に警官を配置する。
その捜査本部にいたマフィアのスパイ・ラウ(アンディ・ラウ)は、何者かがマフィア内部から情報を流していることに気づき、取引中止をサムに知らせる。
そのため、すんでのところで逮捕には至らず、警察、マフィア互いが、内部にいるスパイを捜し始める。

ブラッド・ピットがこの映画をみてすぐに、リメイク権を購入したという。
ブラッド・ピット主演でリメイクされるかどうかはわからないが、この映画は、彼にそう思わせるだけの脚本になっている。

結局ディカプリオ主演で「ディパーテッド」になったわけだ。
オスカーを射止めるほどのポテンシャルを秘めている作品だ。
僕はやはり原作の方が、出来が良かったように思う。

▼以下はネタバレあり▼

これはおもしろい。
マフィアに送りこまれた囮捜査官ヤン。
一方、警察に送りこまれたマフィアのスパイ、ラウ。
ありがちと言えばありがちだけど、その両者の邂逅と、そして対立をうまく描いている。

冒頭の30分は、展開がはやく、緊迫する状況の中、その設定を理解しなければいけないので、観客にとっては負担となる。
しかし、その設定さえ理解できれば、あとは単純に楽しめる作品になっている。
この30分で、警察学校からの過去を点で見せることによって、麻薬取引へと、それまでの時間を一気に線で捉えさえる展開である。
そして、互いの行動が筒抜けである事を、二人のスパイから気づく、という大きな緊張のなかで物語が幕を開ける。

これだけの情報なら、もっと時間をかけてもよかったかもしれないが、あえて短い時間で展開させた事によって、それ以降のヤンとラウのやりとりに物語の軸が置かれ、おもしろくなった。

それ以降の展開も、おもしろい。
二人のスパイに、両者の内部を探らせるというのは、うまい。
ばれないように「自分を探しているように」思わせながら、相手の存在を明らかにしなければならない、という状況は、大きな事件が起こらなくても、その状況だけですでに緊迫感があり、観客をひきつける。
しかし、この状況をうまく活かしていることも、この映画の脚本のすばらしい点である。

お互いのボスが死んでしまう、という二つの死を、大きな岐路にしているのである。
特に、早い段階で警察のボス、ウォン警部が殺されてしまう、というのは良かった。
これによって、ヤンのほうは大きな罪悪感にとらわれるとともに、自分の身元保証者が居なくなってしまうという絶対絶命に陥ってしまうのだ。
トニー・レオン演じるヤンの悲壮な表情は、印象に残る。
脚本だけでなく、主役二人の役者が、この映画を支えているといっても過言ではない。
あのヤンの表情は、トニー・レオンでないとできないだろう。

もう一つの岐路、マフィアのボス・サムが殺されてしまったあと、マフィアのスパイを見つけようとするヤンの心理が、よく分かるのは、それまでにヤンの心理をうまく描いていたからに他ならない。
また、一方のラウは、警察官として生きていこうとする姿も、よくわかる。

ヤンは、自分を最後までかばってくれたウォン警部の復讐を果たしたい。
また、自分の感じた恐怖や悔しさを晴らすためにも、マフィアを許すことはできない。
途中、結婚したと言う女性がヤンの前に現れる。
あの女性はおそらく、ヤンの恋人だった人であり、マフィアに潜入捜査をしていなければ結婚していたはずだった相手であろう。
彼は自分の思いを押し殺してまで、潜入捜査を続けていたのである。
(また、彼女の子どもはおそらくはヤンの子どもだろう。
彼女の表情や、逢ったときの演出、ラストの葬儀での様子がそう告げている。
これが次回作への伏線だろうか。)

一方のラウは、恋人のやりとりや、ウォン警部とのやりとりによって、また、それ以上にそれまでの長い警察官としての人生から、世界観や人生観が変化していく。
それが決定的に崩壊したのが、やはりウォン警部の死だろう。
彼の死によって、ラウは、「自分の居る場所」が大きく揺らいだのである。
だからサムの死をきっかけに、演じ続けてでも警察に居よう、と決めるのである。

その両者の考えや望みは、一致しない。
やがて、両者は邂逅を果たす事になるのである。

ラウが最終的に生き残った。
これは、僕としては読めた感はある。
トニー・レオン演じるヤンが、あまりに悲壮的な展開であったことで、僕は、生き残れないだろう、と思った。
また、ヤンの内面を描きすぎることから、ヤンを最終的に殺すことで、観客へのある種の問いかけを行いたいのだろうと読んだのである。

また、このオチを説明するのに、もうひとつの観点が立てられるだろう。
演じ続けて生きなければならない、という「無間道=無限回廊」は、悪者であるラウでなければならないのである。
ラウは一見、もう安全だ、もう警察官として生きればいい、という結末のように見える。
しかし、ラウは永遠に悩まなければならない。
自分は何者なのか、自分は「本当に」警察官なのか、と。
また、いつその身元がばれるのか、ずっとびくびくし続けなければならないのである。
それが、「無間道」であり、永遠に続く地獄なのである。
自分の存在を決定できない、という不安。
それは、地獄でしかない。

この映画が、非常に特殊であり、一般人に縁遠い世界でありながら、一方で多くの人に共感を持って支持されるのは、ここに理由がある。
現代の人たちも、これと同じように、自分の存在を決定できない不安の中にいるからだ。
オリジナリティや個性、自分らしさを追求し続ける現代人は、やはり自分の確固たる存在を決定しかねている。
その感覚は、誰にでもあるだろう。
その現代病ともいえる不安は、ここに描かれているラウやヤンの不安に通ずるものがある。
それは、「CUBE」にも、エヴァにもある不安なのである。

自分を演じ続ける、と言えば「フェイス/オフ」にも共通してる部分があるだろう。
しかし、この映画は、派手さを消し去り、演出を抑えた点に成功の理由がある。
この抑えた男くさい演出が、マフィアと警察という世界を作り上げているのである。
ただ、逆にこの抑えすぎた演出のために、人の心を烈しく感動させたり、動揺させたりすることがなかったというのは言えるだろう。
ハリウッド映画なら、ここまで素朴に描く事ができなかっただろう。
どうしても過剰な演出を入れて盛り上げたくなる、それがハリウッドの病気である。

惜しい点もある。
その意味では完璧とは言いがたい。
例えば、10分間で警部を殺してしまったというマフィア。
もちろん、警察が取り囲んでいたということで、急いで「吐かせる」必要があったのだろうが、それでも短すぎる。
そもそも、このマフィアの「怖さ」が足りなかった。
それは演出の怖さではなく、「どこまでもやるよ」という徹底した態度がなかった、という意味である。
例えば、組織の裏切り者を登場させて、セメントに埋めてしまうというような「怖さ」である(「リーサル・ウェポン3」)。
また、マフィアの組織体制が巨大であることをあらわすようなシーンもほしかった。
そのようなシーンがあれば、スパイを警察に送り込む(しかも警察学校)というのに説得力が生まれただろう。

ラウの恋人がその後、どうなったかもみせてほしかった。
彼女だけが、唯一サムとの関係を知っているわけだから。

キャスティングも、非常によかったと思う。
特に女性陣のキャスティングはよかった。
ケリー・チャンといった綺麗な女性を起用する事で、彼らが直面している現実世界(アンダーグラウンド)と、光溢れる世界(表の世界)とのギャップを、彼らにとっての「理想」を、視覚的に描けていた。

次回作の公開が決定しているそうだ。僕は、作らないほうがいいと思うんだけど。
(現時点で、まだ見ていません。)

(2004/4/17執筆)

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