評価点:65点/2002年/アメリカ
監督:マイケル・ケイトン・ジョーンズ
邦題があまりにも陳腐。なお、東野圭吾の原作ではありません。
署内一優秀な刑事ビンセント・ラマーカ(ロバート・デ・ニーロ)は、離婚し、一人暮らしをしていた。
ある日、その息子ジョーイは、ヤクに溺れ売人のピカソを殺してしまう。
翌日、ピカソの死体が上がり、その殺人の場にいたスネークは、怖くなり警察に自首する。
殺人を犯したのが息子であるというスネークの証言に、ビンセントは愕然とする。
▼以下はネタバレあり▼
ロバート・デ・ニーロがシリアスな映画に出ると、周りの雰囲気まで飲み込んでしまうから不思議だ。
あるいは、周りの雰囲気まで変えてしまう。
刑事の息子が殺人犯。
この設定は、目を引くほど斬新さを感じない。
しかし、この映画は、複雑な親子関係に大きなプロットとして支えられている。
冒頭の二つの楽曲がうまい。
この二つの楽曲の落差が、この映画の全てだと言っていい。
「ロングビーチ」というかつて楽園のような街が、今は若者の溜まり場となり、荒れている。
この変貌は、ラマーカ親子の過去と現在を象徴している。
ビンセントとその息子、ジョーイの半生を整理してみよう。
ビンセントの父親は彼が八歳のとき、誘拐事件を起し、子どもを殺してしまう。
父親はその事件で死刑になり、彼は父親を逮捕したラマーカ警部に育てられる。
ここに第一の悲劇がある。
彼は、育ての親の愛情を受けて育ったが、実の父親の死刑という十字架を背負って生きていく事になる。
それは、決定的な「父親の不在」である。
また、この誘拐事件は、「ロングビーチ」の最初の殺人事件であり、その後の荒廃を予感させる事件でもあった。
そしてビンセントは「正しく生きる」と心に誓う。
彼は、警察官になり、正義を貫こうとする。
結婚し、子どもができるが、彼は息子とどう接すればいいかわからない。
やがて彼は妻に暴力を振るようになり、離婚してしまう。
家族を忘れ、仕事に生きるという割り切った考えをもつことで彼は「親としての自分」から放棄し、そして八歳の父親の死刑を乗り越えようとする。
一方、息子ジョーイも、父親の家庭内暴力という、大きな負い目を背負って生きていくことになる。
彼もまた、「父親の不在」の中で育てられる。
彼は父親に自分の立派な姿を知らせようと、アメフト選手として優勝を果たす。
おそらく、彼はその姿をみせることで、父親に自分の存在を認知させたかったのだろう。
ずっと優勝の指輪を手にしていたのは、彼の、父親としての証しであり、また、息子としての証しでもあったのである。
しかし、父親はその存在に気づいてくれはしない。
彼は孤独になり、不安になり、クスリに手を出す。
その後の彼は、クスリに逃げ続けることで生きていく。
ジョーイは、やがて恋人との間に子どもをもうけるが、やはりどういう父親であるべきか、全くわからずまた逃げてしまう。
ジョーイとビンセント、クスリと仕事という両極ではあるにせよ、父親としての自分、息子としての自分から逃げるという意味では同じである。
これは、父親の不在がもたらした不幸の連鎖ともいえるだろう。
彼らは、どうしても自分に向き合う事ができない。
ビンセントが「父親」になったのは、ジョーイが生まれたときではない。
警察バッヂを置いたときでもない。
ジョーイと抱き合い、無意識に彼を銃弾から守ったときである。
彼は初めて息子を受け止め、守ったのである。
「ロングビーチ」は、彼らにとって理想郷だった。
まさに理想の親子像そのものだったのである。
しかし、それは過去の話であり、観念的な理想郷にすぎない。
今の荒廃した「ロングビーチ」を見つめなければ、現実の親子像を捉える事はできない。
「ロングビーチ」は、彼らを象徴しているのである。
邦題は「容疑者」となっている。
しかし、この映画の真のタイトルは、原題の「CITY BY THE SEA」でなければならない。
そのあたりをきちんと配給会社がわかってくれていないのは、非常に残念である。
残念といえば、「母親」という存在が希薄であることだ。
この映画の女性は逃げてばかりだ。
父親以上に逃げている。
ジョーイの母親は、ビンセントに「今度こそは力になって」とすがるのみで、それまでのビンセントへの批判的な態度を一変させている。
ジョーイの恋人も、ジョーイに対して不満を提出するが、やはり「頑張ったけど駄目だった」と姿を消してしまう。
ビンセントの恋人、ミッシェル(フランシス・マクドーマンド)も、例外ではない。
孫を引き取ることが選択でしょ、とビンセントに突きつけるが、やはり彼の前から消える。
その前の、彼の重い過去を打ち明けられたとき、関係を終らせようとする態度もやはり「逃げ」である。
彼女たちは、展開上、そうなるのは理解できる。
しかし、なぜ結末に彼女たちを登場させなかったのか。
その点が残念でならない。
結末で、ビンセントと孫のアンジェロが海辺でたたずんでいる。
しかし、彼らの周りには女性=母親の姿は全くない。
少なくとも、ミッシェルとアンジェロの母親をそこに登場させて、物語を収束させる必要があったのではないか。
そうでなければ、アンジェロが今度は「母親の不在」で苦しまなければならない。
連鎖は続くのである。
物語のテーマは、「父親の不在」であることは確かだ。
だが、母親の、その不在が問題にされないのは、いかがなものか。
ビンセントの実の母親が問題にされないところにもそれは言える。
母親の存在があまりに軽い扱いなのである。
居るかいないかさえ問題にされないのである。
僕はここに大きな疑問が残った。
息子として、父親として、という問題に向き合った。
しかし、夫として、母親として、妻として、という問題には向き合っていない。
ラストのシーンで彼女たちを登場させることで、それはある程度完遂されたはずだ。
ヨリを戻せば都合がよすぎるのは確かだが、おじいちゃん一人で孫を育てていこうとすることのほうが、僕は都合がよすぎると思う。
全体の雰囲気はとても好感がもてる。
廃頽的な世界観が、よく表れていたと思う。
(2004/4/11執筆)
監督:マイケル・ケイトン・ジョーンズ
邦題があまりにも陳腐。なお、東野圭吾の原作ではありません。
署内一優秀な刑事ビンセント・ラマーカ(ロバート・デ・ニーロ)は、離婚し、一人暮らしをしていた。
ある日、その息子ジョーイは、ヤクに溺れ売人のピカソを殺してしまう。
翌日、ピカソの死体が上がり、その殺人の場にいたスネークは、怖くなり警察に自首する。
殺人を犯したのが息子であるというスネークの証言に、ビンセントは愕然とする。
▼以下はネタバレあり▼
ロバート・デ・ニーロがシリアスな映画に出ると、周りの雰囲気まで飲み込んでしまうから不思議だ。
あるいは、周りの雰囲気まで変えてしまう。
刑事の息子が殺人犯。
この設定は、目を引くほど斬新さを感じない。
しかし、この映画は、複雑な親子関係に大きなプロットとして支えられている。
冒頭の二つの楽曲がうまい。
この二つの楽曲の落差が、この映画の全てだと言っていい。
「ロングビーチ」というかつて楽園のような街が、今は若者の溜まり場となり、荒れている。
この変貌は、ラマーカ親子の過去と現在を象徴している。
ビンセントとその息子、ジョーイの半生を整理してみよう。
ビンセントの父親は彼が八歳のとき、誘拐事件を起し、子どもを殺してしまう。
父親はその事件で死刑になり、彼は父親を逮捕したラマーカ警部に育てられる。
ここに第一の悲劇がある。
彼は、育ての親の愛情を受けて育ったが、実の父親の死刑という十字架を背負って生きていく事になる。
それは、決定的な「父親の不在」である。
また、この誘拐事件は、「ロングビーチ」の最初の殺人事件であり、その後の荒廃を予感させる事件でもあった。
そしてビンセントは「正しく生きる」と心に誓う。
彼は、警察官になり、正義を貫こうとする。
結婚し、子どもができるが、彼は息子とどう接すればいいかわからない。
やがて彼は妻に暴力を振るようになり、離婚してしまう。
家族を忘れ、仕事に生きるという割り切った考えをもつことで彼は「親としての自分」から放棄し、そして八歳の父親の死刑を乗り越えようとする。
一方、息子ジョーイも、父親の家庭内暴力という、大きな負い目を背負って生きていくことになる。
彼もまた、「父親の不在」の中で育てられる。
彼は父親に自分の立派な姿を知らせようと、アメフト選手として優勝を果たす。
おそらく、彼はその姿をみせることで、父親に自分の存在を認知させたかったのだろう。
ずっと優勝の指輪を手にしていたのは、彼の、父親としての証しであり、また、息子としての証しでもあったのである。
しかし、父親はその存在に気づいてくれはしない。
彼は孤独になり、不安になり、クスリに手を出す。
その後の彼は、クスリに逃げ続けることで生きていく。
ジョーイは、やがて恋人との間に子どもをもうけるが、やはりどういう父親であるべきか、全くわからずまた逃げてしまう。
ジョーイとビンセント、クスリと仕事という両極ではあるにせよ、父親としての自分、息子としての自分から逃げるという意味では同じである。
これは、父親の不在がもたらした不幸の連鎖ともいえるだろう。
彼らは、どうしても自分に向き合う事ができない。
ビンセントが「父親」になったのは、ジョーイが生まれたときではない。
警察バッヂを置いたときでもない。
ジョーイと抱き合い、無意識に彼を銃弾から守ったときである。
彼は初めて息子を受け止め、守ったのである。
「ロングビーチ」は、彼らにとって理想郷だった。
まさに理想の親子像そのものだったのである。
しかし、それは過去の話であり、観念的な理想郷にすぎない。
今の荒廃した「ロングビーチ」を見つめなければ、現実の親子像を捉える事はできない。
「ロングビーチ」は、彼らを象徴しているのである。
邦題は「容疑者」となっている。
しかし、この映画の真のタイトルは、原題の「CITY BY THE SEA」でなければならない。
そのあたりをきちんと配給会社がわかってくれていないのは、非常に残念である。
残念といえば、「母親」という存在が希薄であることだ。
この映画の女性は逃げてばかりだ。
父親以上に逃げている。
ジョーイの母親は、ビンセントに「今度こそは力になって」とすがるのみで、それまでのビンセントへの批判的な態度を一変させている。
ジョーイの恋人も、ジョーイに対して不満を提出するが、やはり「頑張ったけど駄目だった」と姿を消してしまう。
ビンセントの恋人、ミッシェル(フランシス・マクドーマンド)も、例外ではない。
孫を引き取ることが選択でしょ、とビンセントに突きつけるが、やはり彼の前から消える。
その前の、彼の重い過去を打ち明けられたとき、関係を終らせようとする態度もやはり「逃げ」である。
彼女たちは、展開上、そうなるのは理解できる。
しかし、なぜ結末に彼女たちを登場させなかったのか。
その点が残念でならない。
結末で、ビンセントと孫のアンジェロが海辺でたたずんでいる。
しかし、彼らの周りには女性=母親の姿は全くない。
少なくとも、ミッシェルとアンジェロの母親をそこに登場させて、物語を収束させる必要があったのではないか。
そうでなければ、アンジェロが今度は「母親の不在」で苦しまなければならない。
連鎖は続くのである。
物語のテーマは、「父親の不在」であることは確かだ。
だが、母親の、その不在が問題にされないのは、いかがなものか。
ビンセントの実の母親が問題にされないところにもそれは言える。
母親の存在があまりに軽い扱いなのである。
居るかいないかさえ問題にされないのである。
僕はここに大きな疑問が残った。
息子として、父親として、という問題に向き合った。
しかし、夫として、母親として、妻として、という問題には向き合っていない。
ラストのシーンで彼女たちを登場させることで、それはある程度完遂されたはずだ。
ヨリを戻せば都合がよすぎるのは確かだが、おじいちゃん一人で孫を育てていこうとすることのほうが、僕は都合がよすぎると思う。
全体の雰囲気はとても好感がもてる。
廃頽的な世界観が、よく表れていたと思う。
(2004/4/11執筆)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます