♪ぼくが尊敬し、理想とする先生のひとり、「ギターを弾く提督」こと、元海軍大将井上成美氏。井上氏の本質は軍人ではなく、教育者ではないでしょうか。
ぼくの周りには、ジャズを教えている人が何人もいます。(この場合、自ら積極的に「生徒」を集めようとしているか、または単なる助言にとどまらずより積極的に「教えてやろう」としている人のことを指します)
こういう先生たちには、「教えることがうまい人」と「教えることが好きな人」のふた通りのタイプがあるようです。
そして「教えることがうまい人」が教え好きとは限りませんし、「教えることが好きな人」は必ずしも教えることが上手ではありません。
前者には実害()はありませんね。先生自身の教え方が上手いのだから、「先生は教えることが好きかどうか」は、生徒にしてみれば問題ではないわけです。どちらであろうと、自分を伸ばしてくれる力を持っているのですから。
ぼくの周りで多く見かけるのが、後者の「教えることが上手いとは言えないが、教えるのは好き」というタイプです。
さらに言うと、「教えることが好き」なのではなくて、実は単に「中心的存在でいたい」とか、「『先生』でいたい」とか、「教えることで人を従えたい」だけな場合が多いようです。つまりこれらの人たちは、音楽を手段として、「お山の大将」になろうとしているだけなのです。
こういう先生の存在、困ったものです。初心者は先生を信じるしかないのですから。
「教えること自体が好きな困った先生」は、欠点の指摘が大好きです。自分の見解だけを延々と語るのが好きです。自分と同じ狭い枠にはめようとします。自分の見解とは違う他人の見解にはまず否定的です。あれ、こんなタイプの先生、学生時代にも何人かいたような・・・。しかし、実は、ぼく自身が、型にはめられるのがすごくイヤなワガママ者だったりするだけなのかも。
例えば、「1+1=3」という命題は否定することができますね。しかし、「リンゴについて説明せよ」というように、答えがいく通りも考えられる問題に対しても、自分の持つ答え以外は間違いだとしてしまう、視野の狭いタイプの人もいます。
これらのタイプに共通して言えること、それは生徒のやる気をそぐ、生徒の視野を狭くする、生徒を信頼していない、そして、「育てるという視点」に欠けているということです。
ぼくは、自分がリーダーでライブをする場合、集めたメンバーに対して「して欲しいこと」は言いますが、あれこれ教えたりはしません。それよりも、自分で学び取ろうとする姿勢が見たいのです。
また、原則として、「してはいけないこと」も言いません。言う必要がある時もありますが、その時は「何がダメなのか」「それはどうしてなのか」を明確にさせるようにしています。(「それはダメ」と言うより、「○○して」という方が、指示としては分かりやすい場合が多いように思います)
ぼくは、「自分が集めたメンバーだから心配いらん!」、と開き直って(笑)いるのです。メンバーには自分の持つ力を出し尽くしてもらうだけです。自分が信頼して集まって貰ったメンバーだから、出た音が悪けりゃ自分の責任、良ければみんなのおかげ、ってわけです。
一概に「先生」であることと、「リーダー」であることを同列に考えることはできません。しかし相手を信頼すること、相手に信頼されなければならないこと、自分の人間性・音楽性が相手に影響を及ぼすこと、など、共通項は多いと思います。
メンバーの人選もリーダー次第、バンドというものは、リーダーの器と同じ程度のものにしかならない、と思うのです。
そして、理論や知識を振りかざす前に、メンバーに音楽をもっと好きになってもらうこと、やる気を引き出してあげられるような人間に自分が成長してゆくことが重要だと思っています。この「メンバー」という言葉を、「生徒」に置き換えることもできるのではないでしょうか。
良い先生になるには知識も必要ですが、まず「良き心理学者」であらねばならず、次に「信念」を持つべきではないのだろうか、と思う今日この頃です。
良い先生といえる人のやり方は、教えることが育てることにつながっているように思います。そして、生徒を育てようとすることで、その先生自身も成長してゆこうとしているのではないでしょうか。
そういう「先生としての器」の大きい人の元からは、やはり多くの素晴らしい生徒さん達が育っているように思うのです。
これから音楽を習ってみたい人たちに、良い先生との出会いがありますように。
なんだか堅苦しくて批判がましい「教育論」になっちゃいましたね。「まずは隗より始めよ」です。ぼくももっと成長しなければ。
※「教える」ということ(1)
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ぼくの周りには、ジャズを教えている人が何人もいます。(この場合、自ら積極的に「生徒」を集めようとしているか、または単なる助言にとどまらずより積極的に「教えてやろう」としている人のことを指します)
こういう先生たちには、「教えることがうまい人」と「教えることが好きな人」のふた通りのタイプがあるようです。
そして「教えることがうまい人」が教え好きとは限りませんし、「教えることが好きな人」は必ずしも教えることが上手ではありません。
前者には実害()はありませんね。先生自身の教え方が上手いのだから、「先生は教えることが好きかどうか」は、生徒にしてみれば問題ではないわけです。どちらであろうと、自分を伸ばしてくれる力を持っているのですから。
ぼくの周りで多く見かけるのが、後者の「教えることが上手いとは言えないが、教えるのは好き」というタイプです。
さらに言うと、「教えることが好き」なのではなくて、実は単に「中心的存在でいたい」とか、「『先生』でいたい」とか、「教えることで人を従えたい」だけな場合が多いようです。つまりこれらの人たちは、音楽を手段として、「お山の大将」になろうとしているだけなのです。
こういう先生の存在、困ったものです。初心者は先生を信じるしかないのですから。
「教えること自体が好きな困った先生」は、欠点の指摘が大好きです。自分の見解だけを延々と語るのが好きです。自分と同じ狭い枠にはめようとします。自分の見解とは違う他人の見解にはまず否定的です。あれ、こんなタイプの先生、学生時代にも何人かいたような・・・。しかし、実は、ぼく自身が、型にはめられるのがすごくイヤなワガママ者だったりするだけなのかも。
例えば、「1+1=3」という命題は否定することができますね。しかし、「リンゴについて説明せよ」というように、答えがいく通りも考えられる問題に対しても、自分の持つ答え以外は間違いだとしてしまう、視野の狭いタイプの人もいます。
これらのタイプに共通して言えること、それは生徒のやる気をそぐ、生徒の視野を狭くする、生徒を信頼していない、そして、「育てるという視点」に欠けているということです。
ぼくは、自分がリーダーでライブをする場合、集めたメンバーに対して「して欲しいこと」は言いますが、あれこれ教えたりはしません。それよりも、自分で学び取ろうとする姿勢が見たいのです。
また、原則として、「してはいけないこと」も言いません。言う必要がある時もありますが、その時は「何がダメなのか」「それはどうしてなのか」を明確にさせるようにしています。(「それはダメ」と言うより、「○○して」という方が、指示としては分かりやすい場合が多いように思います)
ぼくは、「自分が集めたメンバーだから心配いらん!」、と開き直って(笑)いるのです。メンバーには自分の持つ力を出し尽くしてもらうだけです。自分が信頼して集まって貰ったメンバーだから、出た音が悪けりゃ自分の責任、良ければみんなのおかげ、ってわけです。
一概に「先生」であることと、「リーダー」であることを同列に考えることはできません。しかし相手を信頼すること、相手に信頼されなければならないこと、自分の人間性・音楽性が相手に影響を及ぼすこと、など、共通項は多いと思います。
メンバーの人選もリーダー次第、バンドというものは、リーダーの器と同じ程度のものにしかならない、と思うのです。
そして、理論や知識を振りかざす前に、メンバーに音楽をもっと好きになってもらうこと、やる気を引き出してあげられるような人間に自分が成長してゆくことが重要だと思っています。この「メンバー」という言葉を、「生徒」に置き換えることもできるのではないでしょうか。
良い先生になるには知識も必要ですが、まず「良き心理学者」であらねばならず、次に「信念」を持つべきではないのだろうか、と思う今日この頃です。
良い先生といえる人のやり方は、教えることが育てることにつながっているように思います。そして、生徒を育てようとすることで、その先生自身も成長してゆこうとしているのではないでしょうか。
そういう「先生としての器」の大きい人の元からは、やはり多くの素晴らしい生徒さん達が育っているように思うのです。
これから音楽を習ってみたい人たちに、良い先生との出会いがありますように。
なんだか堅苦しくて批判がましい「教育論」になっちゃいましたね。「まずは隗より始めよ」です。ぼくももっと成長しなければ。
※「教える」ということ(1)
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