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箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

学校給食の完全無償化

2025年04月17日 07時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ
学校給食の無償化の進み具合は、都道府県によりまちまちです。
東京都は2025年1月に無償化を実現しました。

青森県では2024年10月から、県の財政支援により全小中学校で無償化されました。都道府県単位で無償化されるのは全国初で初めてでした。


現状では、全国の公立小中学校の97%超でパンか米飯、おかず、牛乳を提供する「完全給食」が実施されています。

それに関して、全面的な無償化は1794自治体のうち約3割の547自治体にとどまっています。


2017年度から7倍に増えたものの、財政負担の大きさなどから無償化をやめる自治体もあります。

実際、2023年度に何らかの形で無償化を実施していた自治体の中で82自治体が2024年度以降は中止しました。



自治体が無償化を進めるおもな理由としては、保護者の経済的負担を軽減するという子育て支援の一環です。


一方、無償化がスムーズに進まないのはなぜでしょうか。

東京都のように財政豊かな自治体ばかりではない中、負担が大きいことに加え、今般の物価高で、食材費が高騰しているからです。

給食の食材費の月額平均は小学校で4688円、中学校で5367円。ここ10年で約10パーセントをこえて上がっています。


また、都道府県によって食材費に最大1・4倍弱の開きがあり、小学校では最も低い滋賀県の3933円に対し、最も高い福島県は5314円でした。

中学校は最も低い滋賀県が4493円、最も高いのが富山県の6282円でし



そんな事情で、自治体からは国の支援を求める要望があがっています。



国は

・給食食未実施校や実施校でも喫食しない児童・生徒には恩恵が及ばないといった公平性の点からの課題


・低所得世帯の児童・生徒は既に無償化されているのに、全員無償化にする妥当性があるかどうかという課題

を挙げています。


そのような整理すべき課題はあるものの、国では2026年度からまず小学校から実施の運びとなりました。






崩れてしまった「一億総中流」社会

2025年04月16日 06時03分00秒 | 教育・子育てあれこれ

かつて日本社会は「一億総中流」と言われました。バブル景気を迎えた1980年代の頃でした。

 

第二次世界大戦後、多くの国民が豊かになり、経済の発展と安定を支えてきたのでした。

 

でも、いまは中間層が細くなってしまいまた。所得の水準は著しく下がり、貧富の格差が広がりました。

 

 

中間層とは、収入の中央値の75%から200%までです。

日本は高度経済成長期以降は、全体の6割前後で推移してきましたが、今は年収300万円台の厳しい世帯も含まれます。

 

その原因には、バブル崩壊後の長期不況に加え、経済のグローバル化で新興国の安い製品との競争が激しくなり、企業が賃金の低い非正規雇用を増やしてきたことにあります。

 

また、中間層が担ってきた事務作業がデジタル化され、低貨金の仕事に就く人が多くなったことも関係しています。

 

格差拡大する影響はさまざまな面に及びます。

消費が低逃し、景気停滞が長引ことになります。

 

子どもを持たない人がさらに増え、少子化が進む心配もあります。高所得者だけが子どもの教育に十分なお金を使える社会になれば、格差は連鎖し固定されてしまいます。

 

いままでは高度成長と人口増加を背景に、日本企業は主要な働き手を日本人男性に限り、長期の雇用を保障してきました。

 

正社員の夫と専業主婦の妻が標準世帯とされ、均質な製品を大量生産し、どの世帯も同じように消費できるという点で平等な社会が実現できて来たのです。

 

だが低成長や少子高齢化でその平等社会は揺らだし単身高齢者やひとり親世帯、非正規雇用や外国人の労働者が増え、低所得層が拡大しました

それにもかかわらず、雇用や社会保障は旧来型の標進世帯を前提とした制度が依然として残っているのが現状です。外国人を社会の一員として受け入れる体制も整ってません

 

この現状を打開するには、世帯よりも個人に視点を当て、同質性よりも多様性を尊重する社会への変革が差し迫っています。

 

さまざまな人たちが個々の能力を発揮できる環境が整えば、社会全体としての創造力や技術革新の力も高まり、所得底上げすることも可能になります

 

 

 




転勤があるなら、会社をやめます

2025年04月15日 07時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ
共働き世帯が増え、以前のように転勤が当たり前といった働き方を考え直してほしという意識が、働き手のなかで高まってきています。

「転勤は受けません。地方への転勤を命じられたら転職します」

ネット上の転職サイトに登録すると、自分にあいそうな職種は求人がたくさんあり、地方へ行くよりは自分を生かすことができそう。

地方と会社を行ったり来たりする転勤族になると、家族がバラバラになる。

そのような考えで、転勤を良しとしない人が増えてきています。

それを、最近の若い人はわがままとか要求が高い、転勤を命じれば言うことを聞くだろうなどととらえれば、時代の変化を読んでいないということになります。

共働きするのが普通になり、子育てや家族の介護をしてバランスをなんとか保っているところに、転勤命令は現実的ではないのです。

本人が同意していないが、転居を伴う勤務地の変更の業務命令は世界でも日本がいちばん多いようです。

紙一枚で異動させる戦後の日本の雇用上の慣行は、いまや時代遅れとなっています。

そこで、企業のほうもいろいろと手を尽くし始めました。

転勤転居のための手当を支給し、引っ越し費用は会社が負担する。また家族を連れての場合は一時金を出します。

できる限り離職していく人を食い止めたいという企業側の雇用保障です。

また、転勤することで新しいポストや役割を経験することができるという「収穫」は実際にあります。それは、その人のキャリア形成になるという前向きな考えもあります。

ですから、金銭面だけのサポートではなく、社員のキャリア形成の意義についても雇用側から打ち出していくべきでしょう。

働きやすい職場、転勤するなら希望の地域への移動が実現する、転勤先での仕事が本人のキャリア形成に役立つ内容になるなど、金銭面を離れたところでの手厚いサポートを実現するのが、「選ばれる企業」になるポイントになります。

障害の社会モデル

2025年04月14日 06時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ


障害者との共生について、「障害の社会モデル」という考え方があります。


障害の原因は当事者の心身機能だけではなく、社会の環境にあるとするものです。


この考え方が社会全体で、まだまだ理解されていません。


たとえば車いすに乗った人が、スロープやエレベーターがない駅のホームにまで上がれないとします。


それは、駅にスロープやエレベーターが未整備であるという環境があるからです。


飲食店や小売店、交通機関、金融機関などのさまざまな場所でICT化や無人化が進んでいます。


飲食店では、人件費を節約するため、食事の配達はロボットが導入されるレストランが増えています。


タッチパネルに手が届かず、低い位置から画面が見えない。障害者が使えない状況が見過ごされています。


人手不足を背景に、「人がいないので、障害者は待っていてください」というのがあたり前になってしまっています。


でも障害者たちにも生活があります。毎日待たされるのは苦痛です。


交通模関でも、出かけるたびに事前連絡を求められます。何時何分発、と伝えて、その時間に遅れないようにに行く。


こういうのはすごくたいへんだともっと、まわりの人が理解しなければなりません。


「できない方が悪い」という考え方は、「しくみの枠からはみ出しているあなたたちが問題なのてすよ」という主張につながります。


「助けて」、「私たちもここで生きている」という障害者の声に、敏感になりたいと思います。



人間の仕業を超越する大自然の営み

2025年04月13日 06時34分00秒 | 教育・子育てあれこれ
大阪府・兵庫県にまたがる霊山・能勢妙見山のケーブル、リフトは一昨年、すでに廃線になりました。

しかし、廃線には関係なく山桜は今「山笑う」がごとく満開を迎えています。

廃線にしたのは人間の仕業(しわざ)ですが、自然の木々はそのような人為的な仕業があろうとも、毎年春になると花を咲かせるのです。

想えば、福島県富岡町でも、原発事故の放射能被爆とは関係なく、桜のトンネルと言われる桜の花は咲き誇っています。

たしか地震はに人間の仕業ではなく、自然災害と言われるものです。

しかし原発をつくったのは人間の仕業です。

地震の原発事故で、富岡町は放射能で汚染され、一度は「帰還困難区域」に指定され、人が住めなくなりました。

人間の仕業・所為とは関係なく、自然の木々は今年も立派に花を咲かせ、いのちをたくましく育んでいるのです。

自然の営みというものは、人間の都合とは無関係に四季の移り変わりを感じ取り、四季に彩りを添えるのだと、あらためて思います。

そう考えると、大自然の営みとは偉大なものだと思い、わたしは感動さえも覚えます。

今日も陽は沈み、また明日昇ります。それを何百年、何千年と繰り返してきたことか。