ただ、時代が変わっても、体育館に響きわたる歌が違っても、これまでの学校生活での人への感謝は変わらないです。
また、次への一歩を踏み出す希望と覚悟・決意を教えてくれる式としての意味は変わりません。
卒業式は、学校での「最後の授業」なのです。
ただ、時代が変わっても、体育館に響きわたる歌が違っても、これまでの学校生活での人への感謝は変わらないです。
また、次への一歩を踏み出す希望と覚悟・決意を教えてくれる式としての意味は変わりません。
卒業式は、学校での「最後の授業」なのです。
ところが、このたび給与特別措置法(給特法)の改正が決まりました。
教職調整額の支給率は4%から2026年1月に5%とします。その後も年1%ずつ引き上げて2031年1月に10%となります。
そして、一方では教員の時間外勤務の縮減をはかるというのが、国の方針です。
すべての教育委員会に対し、所管する学校の時間外勤務の縮減に向けた計画を作成し、公表することを義務づけます。
計画には、時間外勤務縮減の目標や達成のための取り組みを入れ込むことが考えられます。
各教育委員会は計画の実施状況も毎年確認して公表することになります。
この計画作成と公表の義務づけは、教員の働き方改革の一層の推進がねらいです。
もともと、この法改正の論議の頃から、教職調整額のアップと時間外勤務の縮減の関連は薄いという話は出ていました。
教員の意識としては、これだけ時間外勤務をしたから、いくらの手当という感覚に乏しく、多くの教員は「子どものため」と思い勤務時間を過ぎても仕事をしています。
今回の教職調整手当の段階的引き上げは、時間外勤務と手当と関連していると教員は捉え直すという点では一定の意味はあるかもしれません。
わたしも山間部に住んでいますので、山火事の怖さはよく知っています。
山火事が出て、消防が消火にあたっていると、その地点からかなり離れた、火の気のなかったはずの山林から煙が上がり燃えだすことがあります。
いわゆる「飛び火」というものです。
今回の山火事も、そのようにして広がっていったのではないかと思います。
それ以外にも、山林火災の面積が広がりやすい要因があると、わたしは考えています。
わたしの地域にも同じ傾向がありますが、農業や林業に従事する人が高齢化し、後継者が見つかりにくいという問題が顕在化しています。
今の日本では、耕作放棄農地や整備放棄山林が増えているのです。
そうなると、農地には雑草が生い茂り荒地になります。山林は下草が伸び放題になり、その上に落葉した枯葉がかぶさります。
そうなると、当然火災が広がりやすくなるのです。
近年の山林火災の増加には、日本の農業・林業の構造的な課題が横たわっているように思います。
反論として、「肘かけがあったほうが、腰や膝が楽だ」という主張もありますが、幅の狭いパイプ状のものもあり、それがいったい何の役に立つというのでしょう。
公共の場にあるベンチは、高齢者や障害を持つ人、野宿生活者も、子どもたちも、誰もを包摂する(include)ベンチであるべきです。
「ホームレスが寝ていると不快だ」という一部の人たちの感情を受けて、行政や公園管理者は肘かけを取り付けるべきものではないはずです。
野宿生活者・ホームレスに対しては、「なまけている」という印象をもつ人が、世間には多いです。
しかし、野宿生活者・ホームレスの人は、日本の産業構造の変化の中で生じた社会のしくみの問題なのです。
必要なのは当事者に支援が届くようにすることであり、ベンチで寝ざるを得ない状況こそが問題視されるべきなのです。
ところが、その後は、世界情勢の変化とともに、地球温暖化防止に世界が取り組みだすと、日本は遅れを取り出しました。世界の潮の流れが変わってきていることに鈍感でした。
つまり、世界の冷戦構造が終わると、環境悪化による紛争を回避する方向に、時代の流れが変化しました。
地球温暖化防止に取り組まないと、海面上昇で国土が水没する、食料不足になると、人の生存を脅かし、紛争のもとになるからです。
つまり、先進国は、地球温暖化や生態系破壊を政治の課題として捉え出したと理解することができます。
「京都議定書」では、先進国にCO2の排出削減が初めて義務づけられ、途上国の取り組みを支援することが義務づけられました。
ところが、過去の実績にあぐらをかいた日本はCO2削減が厳しすぎると、ともすれば消極的に取り組んできたのでした。
そして、日本のエネルギー政策はいま、行き詰っています。
太陽光パネルの普及を促す国の補助金は打ち切られました。再生エネルギー活用に陰りが見えはじめました。
福島原発事故後に、火力発電を増やしていると、脱炭素に賛同しない国という非難を受けます。
しかし、いまや企業でも、環境対策に消極的な企業は投資家の支持をもらえず、供給網から外される時代です。
経済成長か環境保全かという二者択一ではなく、両立をめざす取り組みを進めるべきなのです。
人類が生み出した負の遺産をそのままにするではなく、短期的な利益を優先し、長期的な危機から目をそらしてはならないのです。
第二次世界戦後の日本は、戦後復興と経済成長を追う中で、大量生産・大量消費・大量廃棄のしくみを生み出しました。
そのぶん環境対策は軽視され、工場などから有害物質が垂れ流されていました。工場から出る煤煙は大気の色が濁るほどの有害物質を含んだ排気ガスを放出していました。
たとえば神通川流域には、カドミウムの排水が垂れ流され、その川から魚をとって食用にしていた人びとに、イタイイタイ病が広がりました。
ちなみに、わたしは中学生のとき、学習発表会のクラス発表で、イタイイタイ病を取り上げた創作劇を演じました。
そのほかにも、熊本県水俣市では水俣病、四日市では四日市ぜんそくが、公害病として人びとの健康に深刻な影響を与えました。
そのように各地で健康被害が相次ぎ、政府は大気汚染防止法を制定して、環境推進国として舵を切り始めました。
1971年には公害行政を一本化した環境庁を発足させました。その後、1973年には第一次石油ショックが起こりました。
中東諸国によるOPECが原油の価格を大きく引き上げたのでした。日本の経済、社会は大混乱しましたが、オイルショックは、日本に対して、省エネや環境対策の取り組みを推進させる契機となったのでした。
国内自動車メーカーは努力の末、自動車の燃費を大きく向上改善させました。1980年ごろには、アメリカの自動車は依然として大型車がリッター4kmほどで、ガソリンを撒いて走ると揶揄される中、コンパクトで高燃費の日本製の自動車は好調な売れ行きでした。
日本の商品は、国際競争力を高め、経済は新たな成長期を迎えました。
それとともに、国家プロジェクトとして再生可能エネルギーの研究開発も進められ、太陽光パネルの生産は世界有数になりました。
そのように、人びとの省エネ意識の高まりが技術開発を促し、日本は環境先進国となりました。
(次号に続く)
経済成長をしただけで幸せになれるわけでもないということが、だんだんわかってきたのでした。
生活にゆとりが出るとともに、物質文化より心の文化を必要とするように変わってきました。
文化の価値は経済だけではなく、文化芸術は精神を豊かにします。
しかし、国の文化予算は予算全体からみると、0.1%程度にしかすぎません。
さらなる文化芸術の振興が、いま強く求められます。
それも似たような報道ばかりで「もうたくさん」と感じました。
もちろんわたしは大谷選手が嫌いではありません。「もうたくさん」と思ったのは、大谷選手でなくメディアの取り上げ方です。
2024年は大谷選手の結婚に始まりました。
元通訳の違法賭博事件
史上初の「50ー50(50本塁打、50盗塁)」達成
さらにワールドシリーズ (NS)制覇と、連日のように報道が続きました。
それも、どのメディアも同じ内容でほかに報道するべきことがないのかといえば、そうでもなかったように感じました。
大谷選手のメディアの異常なほどの取り上げ方は、「オオタニすごい、日本はすごい」を知らせたいという意思の表れでないかと思います。
かつて日本はJapan as No.1として世界で絶賛された自動車産業や電化製品、製造業を中心に経済を誇っていました。『メイド・イン・ジャパン』が世界に誇る自信となっていたのです。
ところが、経済が失速し、デジタル産業では世界の動きに遅れてしまい、自信を失っているのがいまです。
インバウンドが日本文化に惹かれて大挙して押し寄せても、それは観光業など一部の日本人の自信に限られるのです。
オオタニ騒ぎは、世界に認められたいという自信のなさの裏返しとも思えます。
この10年余り、「世界が驚いた」というフレーズが目立ちます。
大谷選手に大騒ぎする人びとも、「オオタニはメイド・イン・ジャパンだ。どうだすごいだろう」と認められたい気持ちがあるのかもしれません。
メディアの態度もなっていないのです。
TV番組では、大谷選手の結婚を番組の最初から20分以上報道しました。
一方、同日パレスチナ紛争はガザで死者が3万人をこえたという節目のときなのに、「死者が3万人をこえました」と番組の最後で伝えるだけでした。
「人のいのちを軽視しています」と言わんばかりでした。
メディアの本来の役割が何であるかを考えたいところです。
子どもが私立高校に通う世帯へ支援金を出すにあたっての保護者の所得制限が2026年度から撤廃されます。また、支給額の上限を45万円程度に引き上げます。公立高校の場合は、2025年度から所得制限がなくなるのです。
これにより、高校生のいる家庭の経済的負担はもちろを軽くなります。
今では高校進学率が100%近くになっているなかで、家庭の経済事情にかかわらず進学先を選べる環境を整備する施策が必要だというのは、むろんわかります。
しかし、わたしはこの施策には疑問をもたざるをえません。それは、私立の進学校が集中する首都圏をはじめとする都市部では公立高校離れが進む可能性があるからです。
大阪府は歴史的にも公立高校志向が強い地域性がありました。
そこに、ここ10年間ほど全国に先立って私立高校の授業料無償化を進めてきました。
その結果、2024年には府立全日制高校の約半数が定員割れとなりました。このまま私立高校を選択する生徒が増えたなら、私立高校の財政が潤い、教育環境をさらに整備が進みます。
そして、公立高校と私立高校の差がさらに広がることが懸念されるのです。
大阪府の場合、今でも公立高校と私立高校の設備上の差は歴然としています。
たとえば私立高校の教室の扉はスチール製が当たり前ですが、公立高校の場合は木製の合板のはりあわせが残存している場合もあります。
そのようなことは、現場の教育関係者しか知らない場合が多々あるのです。
また、タブレットの導入についても、潤沢な財政の私立高校ではいち早く高価なiPadを採用しましたが、財産上の制限がある公立高校では価格が低めのAndroid版のタブレットの導入が多かったのです。
教育環境整備上の差がある中で、授業料無償化を進めていけば、生徒や保護者は私立高校進学を希望しても不思議ではありません。
このままいけば、大阪府で残るのは、歴史のある名門の超進学校だけになってしまうのではないかと思います。
さらに、所得制限の撤廃によっていちばん恩恵を受けるのは高所得層の保護者です。
無償化で浮いた費用を学習塾に回すことが加速され、経済格差は広がり、貧困層の富裕層の学力格差は今以上に広がります。
つまり、公立高校と私立高校を同列に扱い、授業料無償化という「大なたを振る」ことに問題があるのです。
学校教育関係者を交えて、議論を進めていくことなく、分野違いの現場の実態を知らない政治家が、保護者向けにウケのいい施策を考案しているように、わたしには思えます。
すべての子どもには等しく教育を受ける権利があるのが公教育の大原則です。
家計の負担軽減ばかりに焦点が当たり、教育の抱える問題を直視せずして、本当に必要な事業施策は見つからないのです。
わたしは60歳で校長を定年退職をしましたが、その後も学校教育関係の仕事をして、今は教員志望の大学生に授業をしています。
教員採用試験に合格できるように、サポートをする役割です。
大学生は、おしなべて熱心に授業に臨んでくれます。
ただし、わたしはただ合格するための「教職教養」の知識学習をしたり、面接試験のテクニックを身につけてもらうだけを目的にはしていません。
合格すれば翌年は教諭として教壇に立つわけですから、採用試験のための知識が現場でどう反映されているか、つまり知識と現場での実践の間をつなぐように腐心しています。
その意図に応えて、熱心に学習してくれる大学生を相手にするのは、とてもモチベーションが上がります。
考えてみれば、人間は歳を重ねても好奇心を失わないことが必要なのだと思います。
ひとりでいるときも、他者と関わるときも、好奇心がないと何もやる気が起きなくなってしまいます。
たとえば定年退職したり、子育てが終了したりすると、人間はすることがなくて無気力になってしまう人もいるでしょう。
教員を定年退職した先輩の方から聞いたことがあります。
退職教員がずっと元気でいる秘訣は「きょういく」と「きょうよう」であると。
今日行くところがある。
今日用事がある。
うまく言い当てていると思います。
好奇心を失わない人の気持ちは若く、活力を保つことができるのだと思います。
かりにひとり暮らしになったとしても、ひとりの時間を充実あるものにできると思います。
さらに、親自身に子どもの頃の体験の有無を聞くと、親がゼロでその子どももゼロだった割合は5割を超えています。
つまり親の所得の格差は世代間で連鎖するのです。
体験の格差は連鎖し固定化していく傾向があるのです。
習いごとをやってみたい子には、チャレンジできる補助やサポートの充実が望まれます。
ただ、体験に関心が高まるのはいいですが、その意味をとりちがえて、「そうなのか、うちの子にも体験をさせないと」と慌てる親もいるようです。
子どもの意思を尊重することがいちばんです
体験を押し付けてしまってはいけないのです。
大学にとっては、研究活動の充実だけでなく、学生の就活へのサポートも大きな教育課題です。
そこで、大学教員等が委員となり構成している「就活ハラスメント検討会」は、就活環境の整備のための活動を行なっています。
その検討会の調査によると、2022年・2023年に実施した調査では、インターンシップを含む就活体験者のおよそ4割がハラスメント、ハラスメントにつながる言動を受けたと回答しています。
ハラスメントを受けた人のおよそ3割が就活意欲をなくした、自尊感情や自己肯定感などが下がる影響があったと感じていました。
病院に通院したという回答もありました。
実態は深刻です。セクハラ・パワハラが起こる就活はぜったいに許されません。
男女雇用機会均等法改正案が通常国会に提出されます。
この改正案では、就活の学生たちへのセクシュアルハラスメントを防ぐため、企業に対策を義務づけることも含めています。
ただし規制の対象になるのは、セクハラだけです。
パワハラは基準が難しいとして見送られています。
しかし、パワハラを受け、傷つく学生は決して少なくないのです。
パワハラも対象にするべきです。
企業の採用担当が、優越的な立場をつかい面接で人格を否定する、しつこく食事に誘うなどケースが該当します。
学生の人間としての尊厳を守り、あらゆるハラスメントを根絶するため、対策を講じなければなりません。
過去の災害には、未来へと警鐘を鳴らすできごとが含まれています。
被災者への対応も含めて、歴史を学び直し、現代に置き換えて考えることは重要です。
30年前、阪神大震災のとき、兵庫県のボランティアは1年間に延べ137万人で、そのほとんどは初心者でした。
それが1994年がボランティア元年と言われるゆえんです。
ポランティア元年は、制度化の発達によって当時の硬直化した社会・行政のしくみの「すきま」を行動することで埋めたり、縫い直したりし始めたのです。
阪神大震災の時は行政の管理、制約が緩かったため、柔軟な助けあいが各地でありました。
しかし近年、自然災害が頻発し、各被災地で活動をするボランティア数は減少傾向にあります。
阪神大震災の教訓が十分に検証され、リアルな形で地域住民や政治、行政に組み込まれてきたのかという課題が浮かびます。
被災者に対して、みんなで他者のいのちを考え、「自分ごと」として寄り添う姿勢がボランティアの基本です。
ボランティアが被災者の声をすくい上げて専門家へとつないでいくのです。
その過程で、その人のもっている潜在的な力がふっと出てくる。
誰かが「黙ってそばにいる」ことがどれほど大切なのかを考えさせられます。
人が生きていく上で、ひとりでいることと他者と交流することは、どちらも必要なものです。
そして、ひとりの時間を充実させるためには、ひとりでいないときの環境を整えることが重要です。
しかし、とかく日本の学校教育では、「みんなで」という言葉に代表されるように、友だちは多いほどいいと教わりがちです。
「個」の確立が充実できる環境にはなっていない場合が多いのです。
そのようにして育ってきた人にとって、ひとりでいることはマイナスにとらえられるかもしれません。
だからこそ、社会で人間関係をつくる大切さだけでなく、ひとりでいることの大切さも、学校では教えるべきです。
地縁や血縁が強く、そこに参加しない選挑肢がなかった時代とは異なり、現代では選択の自由があります。
「この人とはこれ以上の深いつきあいはできない」とわかったら、その関係を断ち切ることもできます。
自分で心地よい関係を求めやすい時代だと言えるでしょう。
ただ、そのためには条件があります。
それは、自分自身の人間関係に対する考え方が確立されていることです。
自分の考えがしっかりしていないと、人間関係を選ぶ勇気や自信が持てません。
「この関係を切ってしまったら、自分は何もかも失うのではないか」
「ぼっちになってしまうのでは」
「あとでとんでもない目にあうんじゃないか」と、リスクばかりを考えてしまうからです。
大切なのは、ひとりの時間とそうでない時間のバランスをとるのです。
それをくり返すうちに、他人とのちょうどいい距離を見つけていけると思います。