箕面三中もと校長から〜教育関係者のつぶやき〜

2015年度から2018年度に大阪府の箕面三中の校長を務めました。おもに学校教育と子育てに関する情報をのせています。

学校では、教員みんなが「先生」

2022年02月13日 07時27分00秒 | 教育・子育てあれこれ

文科省は全国の小中学校を対象に、学級担任をしている教員のうち、どの程度が「教諭」で、どの程度が「講師」(常勤講師)であるを調査しました。(2021年度の5月1日時点)

小学校は237099人(88.4%)が教諭で、30826人(11.5%)が講師でした。

中学校は101750人(90.7%)が教諭で、10402人(9.3%)が講師でした。

この結果を取り上げ、ある大手新聞は、「学級担任の1割が『臨時教員』」という見出しをつけ、「非正規教員が学級を担任している」というニュアンスで問題視するような記事を載せていました。(2月3日朝刊)

その記事によると、教諭も「臨時教員」も教員免許は持っているが、教諭は自治体の実施する教員採用試験に合格しており、「臨時教員」は合格していない人であるという説明がついています。

だから、非正規教員が1割も学級担任を務めているのは問題であるというタッチの記事の書き方になっていました。

しかし、現場の実態でいうと、そもそも正規・非正規という用語は学校や教員間では使われていません。臨時教員という言葉も使われていません。

教職員間で使われているのは、教諭、講師(常勤講師と非常勤講師)という呼称であり、児童生徒・保護者にとっては、すべての人が「先生」です。

臨時なら学級担任をするべきではないのでしょうか。

現場では、教諭であっても校内での役職・役割、本人の体調の問題、家庭の事情、授業の持ち時間数等の関係で学級担任ができない人がいます。

常勤講師であっても、教育的情熱を高くもち、優れた教育実践、学級経営をできる人がいます。

かつ常勤講師は、教諭と同じく月~金まで出勤し、勤務時間も同じで、教員定数(この児童生徒数の学校規模なら教員数は○人というきまった数)の中に含まれます。

学校は、その定数配置を受け、学級数に見合うだけの学級担任を教諭と常勤講師の中から校内人事で配置するのです。

そのあたりの事情を斟酌せず、民間と同じように正規・非正規、臨時などの区分分けを教員にも当てはめ問題視するのは、現場では違和感を覚えるのです。

子どもが正しい知識を身につけることは大切

2022年02月12日 08時12分00秒 | 教育・子育てあれこれ


日本では2000年代のはじめごろから、在日コリアンに対する差別言動がインターネット上で拡大しました。

そして、公然行動としてヘイトデモが行われるようになりました。

大阪市生野区、鶴橋駅でデモと街宣が始まり、2013年には東京の新大久保や大阪の鶴橋でヘイトスピーチデモが繰り広げられました。

このようなひどすぎる差別的言動を受け、2016年には、「ヘイトスピーチ解消法」が施行されました。

また大阪市では2016年に大阪市ヘイトスピーチ対処条例が成立・施行されました。

法の成立は当然でしたが、へイトスピーチはそれほど「韓国がきらい」という人が日本にいるという事実を表したのでした。

その一方で、日本国内では「韓流ブーム」が何度も起こっています。

2003年の「冬のソナタ」がそのブームのおこりです。ただ、この頃はとくに中年や高齢の女性のなかでの人気でした。

その後、2010年頃には、K-POPアイドルが日本でデビューすると、日本の若い人たちに支持されました。

その後、新型コロナウイルス感染防止として自宅にこもる間に、今また韓流ブームが起きています。

それだけでなく、若い人には韓国コスメ、韓国グルメはけっこうな高い好感度です。とくに女子は美容関係で韓国にあこがれる人もいます。

以上のことから、日本国内の「韓国がきらい」と「韓国が好き」は、あい矛盾するようです。

が、私見ですが、韓国に好感をもつ人は、おそらく男性よりも女性に多く、また、年齢層がさがるほど「韓国がきらい」から「韓国が好き」な人が増えるのでないかと推測します。

そして、おそらく年齢が上がるほど過去の韓国との植民地支配の歴史を知っており、韓国を下に見る意識を内在させているのではないでしょうか。

ここまで論じていくと、「若い人ほど、そのような過去の歴史を知らないのだから、このままいけば知らないまま、偏見を持たずに韓国が好きな人が増えるのでないか」

→「いまの学校で子どもたちにとりたてて、過去の歴史を教えなくてもいいのでないの?」
と考える人がいても不思議ではありません。

しかし、そうではないと私は考えます。

韓国と日本の歴史やその関係について、正しい知識をもっていないと、「韓国ぎらい」にすぐに変わります。

子どもたちは大人になっていく過程で、あるいは大人になってから、ヘイトスピーチのような言動にでくわしたとき、正しい知識をもっていないと「へー、そうだったのか」と感じ、言動を黙認したり、加担するかもしれないからです。

韓国問題だけでなく、自身の言動につながる正しい知識を児童生徒が身につけることは、学校教育の中で必要です。

とくに若手教員は教えるだけの知識と技能をもっていなければなりません。

過去は過去のこと

2022年02月11日 08時04分00秒 | 教育・子育てあれこれ


わたしは、何度か卒業する中学生に、

「過去がすべてである。卒業という節目では、よく未来や将来の夢に向かって、といいますが、みなさんは過去こそを大事にしてください」

と言ってきました。

その意図は、過去にこそ意味があるという考えに基づいています。

未来は今からはじまる、まだゼロの状態である。

中学3年間で学習や学校行事、部活動などにいそしんできた、友だちとのたわいもない会話に胸が弾んだ。悩んだ日もあった、

学校に来にくい日があった。苦しんだ日もあった、でもその3年間をくぐってきて、いま卒業の機会を迎えている。それらすべてのこと(過去)に意味がある。

その体験は人生の宝です。

このような根拠により、過去にこそ意味があると教えてきたのです。

その考えは、今でも変わりません。もし卒業する中学生がいるなら、同じことを語るでしょう。

ただし、過去を大事にすることと、過去に執着することはちがいます。

たとえば、結果にこだわり、
「あのときに、ああすればよかった」
「あの子に『好きだ』と言えばよかった」
「あのときに決勝のゴールをきめていたら」
などこだわりをもって過ごすと、それは自分で悩みを背負うことになります。

そのような悩みからは、何も残りません。

やるだけやったなら、過去を捨てて、それこそ未来に向かって羽ばたくことができます。

これから飛び立とうとするハトが、「いや、地面にまだ餌が落ちているかも」と思っていたら、大空で羽ばたくことはできません。

人はやるだけのことをやっていないから、いまに満足できず、過去に執着してしまうのです。

感覚過敏の子

2022年02月10日 08時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ


五感とは視覚・触覚・聴覚・嗅覚・味覚をいいます。

体は外からのそれぞれの刺激を受け取り、その情報を脳に伝え、脳がその情報を理解するしくみになっています。

この経路のどこかで、過剰に反応するのが感覚過敏です。

とはいっても、この五感の受信のしかたは人によって大いに個人差があります。

音楽家と言われる人は聴覚が敏感かもしれません。
シェフは味覚が鋭いかもしれません。

つまり、感覚の過敏さには個人差があるのですが、学校生活や日常生活に支障が出るような程度になると、感覚過敏の子となります。

・学校の騒がしさが苦手で頭痛を感じる(聴覚過敏)
・蛍光灯の光がまぶしいと感じる(視覚過敏)
・学校の給食を食べにくい(味覚過敏)
・ズボンをはく肌触りを気持ち悪いと感じる(蝕覚過敏)
・柔軟剤を使って洗濯した服の香りで気分が悪くなる(嗅覚過敏)

などがその一例です。

学校はたくさんの児童生徒が集う場であるので、なかには感覚過敏の子がいる場合があります。

まわりの人の無理解で、「気にしすぎだろ」とか「給食食べないと大きくなれないよ」と言われても、本人にとってはがまんできるレベルではないのです。

感覚というものは人の目に見えないので、子どもがどんな感覚で困っているかを理解するのは難しいのです。

理解しようとする教職員と出会えた子はさいわいです。

心得た知識のある教職員なら、デジタル耳栓をしてみることをアドバイスしたり、給食をやめてその子にお弁当をもってこさせるような対応ができます。

さらに他の児童生徒との関係を考慮し、必要な説明をしてくれます。

「みなさんの中には、学習がちょっと苦手な人、運動が得意でない人もいます。
同じように○○さんは、食べることが苦手です。
お医者さんと話し合って相談して、今日からお弁当をもってきて食べます。
〇〇さんの食べる様子は先生が見ます。だからみんなは気にしなくてもいいからね」

このような言葉で本人は気が楽になります。これで学校が楽しくなることもあるのです。

考えてみれば、一つのクラスを担任するとなると、通常は30名以上の児童生徒がいます。

その子たち一人ひとりに目を行き届かせ、必要な子には必要なかかわりをもち、どの子も大事にする。

どの子も自分が大事にされていると感じていれば、「○○さんだけ先生から特別扱いされている」というような不公平感はクラスメートから生まれにくいのです。

読書が開く「人生の意味」

2022年02月09日 08時08分00秒 | 教育・子育てあれこれ

「国境のトンネルを抜けると雪国だった」

この一節は川端康成著の『雪国』のあまりにも有名な小説の書き出しです。

なんとなく、この本を手に取った人の心をひきつける効果をもっています。

2021年は10月27日(水)~11月9日(火)までが「読書週間」でした。

それにちなみ、ある書店は「店員おすすめの100冊フェア」を開催していました。

新刊書をはじめ、歴史のある「名作」やコミック本など、ジャンルにこだわらない本が並んでいました。

これは人びとがふだんあまり手に取らない本に出会う機会として展開されたものです。

日本では、ずっと活字離れが進んでいます。

「1週間に何冊本を読みますか」という質問(全国学力学習状況調査)に答えた大阪府箕面市の小中学生の傾向では、中3に近づくにつれ「0冊」と答える子が増えています。

全国の出版業マーケートでは1990年代の中頃をピークに本の販売が縮小しています。本屋(書店)も私たちの町からなくなってきています。

いまや16歳以上の50%近くの人びとが「1ヶ月に1冊も読まない」(文化庁調査)と答えています。

ところが、直近では出版マーケットは2020年には前年と比較して5%近く増えました。そのなかでも電子書籍は30%近く増えたのでした。

これは、コロナ災禍で自宅にいる、いわゆる「巣ごもり」の効果でないかと思われます。

とはいえ、小中学生・高校生の「本離れ」は依然として課題です。

まして、文科省の示す学習指導要領(高校編)では、新設の科目「現代の国語」の教科書から小説を載せないという方針が示されました。

これからを生きる若い人たちには論理的・実用的な文章を読まなければ、世界の動きについていけない。

その考えから、小説が外されてきたのです。

小説って価値のないものでしょうか。

わたしはけっしてそのようには考えません。

中1のとき、国語の教科書に載っていた(今も載っています)『トロッコ』(芥川龍之介)に、わたしはとても感銘を受けました。

良平の体験と私自身の体験が重なり、すがるように1ページずつを読んだのを思い出します。

じつは文学の魅力を知るのは、教科書がきっかけになることも多いのではないでしょうか。

そのように『トロッコ』は自分の体験の意味を知るのに役立ちました。

続いて、同じく中2の国語教科書に載っていた『走れメロス』(太宰治)からは、友だちとの関係と葛藤という、当時の私にとっての未知の世界に触れることになりました。

さらに、中3の国語の教科書に載っている定番の小説・魯迅の『故郷』では、自己と社会の関係を扱っています。

教科書に限らず、図書館で手に取った本がその人に「人生とはなにか」を考える大きな示唆を与えてくれるのが小説です。

小説を読むことで、読者は心が揺さぶられるのです。

それは、大人であっても同じだと思います。

小説や本を読み、みずからの内面世界を耕すことができます。

いくつになっても本に親しみたいと思います。

どちらが「日常」なん? 

2022年02月08日 08時21分00秒 | 教育・子育てあれこれ


少し前まで、休みの日は誰かと会う、おすすめのスイーツを食べる、はやっている映画を見る・・・・。

このような過ごし方で、「リア充」を求める生き方をしてきた人もいると思います。

しかし、コロナ災禍はそのような過ごし方を覆しました。

コロナ災禍で社会や生活は停滞し、「お預け」になったのでした。

2020年の感染が始まった1月、2月頃には「1年ほど続くのかな」と考えた人も多かったのではないでしょうか。

わたしもそう思っていました。

いまはがまんして終息したら、前のような生活が取り戻せる。

しかし、アフターコロナの時代になっても、コロナ以前の社会や生活にまったく同じように戻ることは、もうないのではないかと思います。

出社して仕事をするのも、職種によりますが、必ずしも必要でなくなりました。

外国の人と交流するのには留学するというスタイルが、オンラインでできるようになりました。その便利さを覚えました。

オンラインで相手の顔や声をリアルタイムで見たり、聞いたりする便利さを覚えました。

マスクをするのが当たり前になり、初対面で人と出会うときは相手がどんな顔をしているのかは半分しか見えません。

親しくなってから、やっと顔の全貌や表情を見ることになります。

大阪では、2020年の最初から数えると、およそ半分以上の日数が緊急事態宣言またはまん延防止重点措置がとられていたことになります。

制限された生活が非日常とは思えないようになりつつあります。もはやどちらが日常でどちらが非日常かわからないほどです。

私たちは、爆発する感染者数の知らせを聞きながら、その状況に合わせ、なんとか適応していく術を学んでいます。

コロナとの「戦い」が長期戦になるほど、人は、その人なりの軸をもつ必要はあります。

軸とは、いろいろと変化に合わせていさなければならないけど、「これだけはゆずれない」というものや価値を、それぞれの人が大切にしていくことす。


いのちは効率化になじまない

2022年02月07日 07時18分00秒 | 教育・子育てあれこれ


いま、コスト重視、合理化、効率化とムダを省くという考えが日本の経済界や企業経営を席巻(せっけん)しています。

そのため、リストラや人件費削減を多くの企業が行ってきました。
雇用形態も正規雇用を減らし、非正規雇用を増やしてきています。

労働者の側からみれば、所得の減や賃金を減らされるということは、人びとの多くが生活の余裕がなくなることを意味します。

税金の支払いや社会保障費の支払いも庶民にとっては、大きな負担になります。

また、合理化や効率化の波は企業だけでなく、行政にも押し寄せてきました。
また、「官から民へ」という流れで、行財政改革や行政の一部を民営化する動きも増えました。

そのあおりを受け、保健所も数を減らしてきたという経過があります。

たとえば大阪市の場合、2000年頃に24区にそれぞれあった保健所を統合し、1保健所に統合しました。事務職員や保健師の数も減らされました。

全国的にも保健所は減り、コロナは第6波を迎えていますが、その波が押し寄せるたびに、保健所は悲痛な声をあげています。

コロナで陽性者が出ると、保健所は陽性者に電話をして聞きとり調査をします。

しかし、その電話はこう患者数が増えてくると当日でなく、翌日以降になることも多く、対応不全となりました。

限られた人員で、勤務時間は無限にあるのではないので、仕方のないことです。

効率重視で平時は回っていても、有事には手が回りません。

これでは感染症への対応だけでなく、もし大規模な集団食中毒が起きたとしても、保健所業務はすぐにパンクしてしまいます。

効率化や合理化の改革は、有事のときにでもまわせる余力を平時に蓄えておく必要があると思うのです。

効率化・合理化を進めるのは時代の流れかもしれませんが、いのちをおろそかにすることになってしまえば、元も子もありません。

うまい話には裏がある

2022年02月06日 06時56分00秒 | 教育・子育てあれこれ


There's no free lunch.

Sweet talk always has some catch.

そのような英語のことわざがあります。


2010年代に地元の箕面観光ホテル(現、大江戸温泉ホテル)に仕事で立ち寄ったときのことです。

エレベーターに乗ると、浴衣姿のある宿泊客数人が途中から乗り込んできました。

すると、みんながワーワーと中国語を話していました。その一群はある階で降りるとロビーにいた人たちと合流しました。

そこでも話す言葉はみんなが中国語でした。

箕面市は関西では少しは名前の知られた観光都市で、紅葉や箕面の滝で有名です。

「ここにも外国人観光客が来ている」と思ったのを思い出します。

大阪市内で地下鉄に乗ると、心斎橋駅からは大きなスーツケースを引っ張る外国人観光客が乗ってくる。手には「爆買い」した商品を詰めた紙袋。

これらがつい最近まで日常的に目にした光景でした。

当時のあるビジネス誌上には、「これからの日本で成長が見込める産業は観光業である」と書かれていたのを思い出します。

事実、外国人インバウンドをあてにした宿泊施設が乱立するようになりました。

国内旅行にしても、星野リゾートは、泊まり心地のいいハイレベルなホテルを各地に広げていきました。

そのような国内の状況を目にして、わたしは、内心、一抹の不安を感じていました。

こんなに訪日外国人観光客をあてにして、爆買いをあてにして商品を並べて、このような異常とも思える状況がいつまで続くのか。

もし、この人たちが来なくなったらどうなるのか・・・。

こう言った漠然とした不安を感じていたのを思い出します。

果たして、誰もが予想しなかった(研究者や科学者は予想していたでしょうが)、突然降って湧いたような新型コロナウイルス感染症に世界は見舞われました。


観光庁が1月19日に発表した数字では、2019年には過去最多の3183万人を記録していましたが、2021年には99.2%減の24万5900人にまで激減しました。

コロナ災禍により、日本の「水際対策」や各国の渡航制限が続いているためです。

「もうかる」という話が出れば、多くの人がそれに飛びつきます。しかし、それには大きなリスクが伴う。

この危うさをあらためて感じます。

「ものごとには理由がある」と教えてくれた先生

2022年02月05日 08時16分00秒 | 教育・子育てあれこれ
成人してから、自分の思春期時代を思い出し、客観的に見た自分をふりかえる人も多いのではないでしょうか。

わたしもよくふりかえりますが、中学生の途中からさまざまななことで、自信をなくしたのを覚えています。

とはいいながらも、一方で自己肯定感は高く、この相矛盾する気持ちを抱え、悶々としていました。

中学の途中まで、授業中よく手をあげて発言する生徒でしたが、あるとき「自分がわかっていればいい。わざわざ発表しなくても」と感じるようになりました。

わたしはこの考えを先生に相談しようとは、思いませんでした。

こころのどこかで、「話してもわかってくれない」と思っていました。


高校に入ると、授業中に指名されあてられることにビクビクしていました。

あてられて答えると、ドキドキして、心臓はバクバク、真っ赤に赤面していました。

これを脱することができたのは、大学生になってからでした。


思春期のこころは、おとなから見れば矛盾する二項対立を抱えていることも多いものです。

さて、新聞に次のような体験談が載っていました。


〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️

中学校の生徒会の一員として、私は学校から模範的であることを求められていました。

でも、締め付けられるのが嫌でスカートを短くし、カバンにシールをたくさん貼り付けて通学していました。

大人は「ルールだからダメ」と決めつけがちですが、先生はちがいました。


「そうしたいなら、全員に説明できる理由をちゃんと示しなさい」

じっくり考えて返事を書いたら、「カバンにシールを貼るのがあなたの個性だとしたら、すごく小さい。

文化祭で出し物をやるとか、生徒会通信で面白いことをやるとかして個性を出したらどうだ」と返ってきました。

ならばと文化祭で一人演劇をしたり、大量に油絵を描いて展示したりしました。

先生はそれぞれに合った解決策を提案してくれた。

先生からは、物事には必ず理由があるということを学びました。

わたしは小学生の頃から映像や絵や音楽など、何かを表現したいと夢見てきましたが、先生と出会い、作品に心を動かされる理由や作者が表現に込めた意味について思いをめぐらせるようになりました。

このようにして、「考えること」のきっかけをもらった。

中学生は何かしら照れくささを感じたり、自分を大きく見せたりすることが往々にしてあります。

大勢でわいわいガヤガヤやることもありますが、人と人が一対一で行うコミュニケーションは、生身で向き合うことができます。

そんな相手がたくさんはいなくても、誰か一人でもいれば、思春期の風景はまたちがって見える。
             (映像ディレクター 大森 歩)
〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️〰️


だれもが公平に入試を受けることができるために

2022年02月04日 16時36分00秒 | 教育・子育てあれこれ
大阪の公立高校を障害のある生徒が受験する道は、学校現場と大阪府教育委員会の努力により、受験上の配慮事項を設けることで、以下のように一定程度開かれた制度になっています。

*学力検査時間の延長
*代筆解答
*介助者の配置
*問題用紙等の変更(点字や拡大等)
*英語リスニングテストの筆答テストによる代替
*別室受験
*物品の持込み
*個人面接
*座席の変更
*補聴器等の使用

などです。

配慮を希望する場合は、在籍している中学校に保護者が相談します。

そして必要な手続きは、中学校から大阪府に申請することになり、協議をして府が認めた受験上の配慮を得て、当該受験生が受験するしくみになっています。

関西の私立高校の受験でも、最近はかなり間口が広くなってきています。


ここで障害のある生徒の受験上の課題を焦点化するため、視覚障害者に絞ってみていきます。

かなり以前は、高校側から「本校では視覚障害のある生徒が学ぶことができる環境が整っていません」と、なかば公然と受験拒否がまかり通っていました。

しかし、最近では多くの高校が、たとえば英語のリスニングテストは筆頭問題にかえるなどの措置をしてくれます。

点字受験の場合は、別問題になることが多いです。


では、大学入試はどうなっているのでしょうか。

共通テストの点字受験の場合、漢字の出題は言葉の意味を問う問題にかわりました。

重度の聴覚障害の場合は、受験時間が1.5倍に延長されることが多いようです。

この場合、試験終了時刻がかわるので、別室受験がセットになります。リスニングテストは免除となります。

ここまでをお読みくださった方のなかには、「視覚障害者は優遇されている。特別あつかいか。平等でない」と感じられる人もいるでしょう。

しかし、次の画像をごらんくだい。



(図はカウンセリング 大阪のフルフィルメント
「夫婦における【平等】と【公平】」より引用)

equalityは「平等」で、equityは「公平」で、この絵は平等と公平の違いを説明するのによく使われます。

ゲームを見るのに、踏み台を誰にとっても同じ高さにするのが平等です。

それに対して、それではおとなはゲームを見ることができるが、真ん中の子どもはなんとか見ることができ、右端の子どもはまったく見ることができないです。

そこで誰もがゲームを見て楽しめる工夫が必要になります。

つまり背の高さに合わせて、踏み台の高さを調節します。これが公平です。

ここから言えるように、入試制度における障害のある生徒への配慮は、だれもが公平に入試にチャレンジできるために設けられているのです。

なお、小中高の学校教育のなかで児童生徒が学ぶ人権学習は、このような知識を身につける大切な機会として行われています。








思春期の娘と父親

2022年02月04日 08時11分00秒 | 教育・子育てあれこれ


思春期の娘が、父親を敬遠するようになる。

このことは、家族や子どもにもよりますが、さいきん「仲よし親子」が増えたとは言え、とくに珍しいことではありません。


わたしも、中学生を娘に持つ母親から、何度か相談を受けたことがあります。

娘が父親と口をきかなくなった。

娘が父親と一緒の食事を避けるようになった。

お父さんの洗濯物を触らないようになった。

家で、身体が接触しないよう、体をそらすようになった。

ついこの前まで、「お父さん、お父さん」とまとわりついてきたのに・・・。

父親はさみしそうに振りかえります。


しかし、思春期の娘というものは、親の「所有物」から次第に抜けだそうとするものです。

思春期の娘が自分を親から切り離すために、素っ気ない態度をとるのは、ある意味でとても健全なことです。

家の外では、親の知らない自分をつくり、親が管理できない世界を築き、家の世界と行ったり来たりしながら、親とはちがう自分をつくっていきます。

それは、いままで親の庇護やしばりが強い親子だったほど、また、親が娘の行動を把握しようとすればするほど、外れようとする度合いは強くなります。

娘が親離れをしようとしているのに、無頓着に父親が話かけ、娘の行動を把握しようとすればするほど、娘は巧妙に嘘をつくようになります。

思春期の娘の親離れしようとするのを認めず、コミュニケーションをとろうとしたり、一緒にいる時間をつくろうとすると、かえって心理的距離は遠くなります。娘の反発も強くなります。

そんなときは、父親離れを受け入れ、娘が客観的に父親が見れるようになったときまで待つのがいいと思います。

親としてではなく、社会人として娘が父親を見ることができるようになるまで待つのです。

父親が社会人として、大人としてもっている力量は、娘が社会人に近づくほど認めるようになるものです。

やがてそんな時期が来る。そう思い、親離れを受け入れることです。

ICT活用は毎日使ってこそ

2022年02月03日 07時49分00秒 | 教育・子育てあれこれ

国が進める「GIGAスクール構想」は、新型コロナウイルス感染防止のためのオンライン授業の要請と重なって、児童生徒一人1台の端末整備が全国的に飛躍的に進みました。

ただし、その活用については大きく進んだ地域となかなか進まない地域に分かれ、自治体によるちがいが顕著に表れました。

活用状況の自治体によるちがいは、教育委員会の舵取りが大きく影響したようです。

そもそも、行政は端末の整備を進めましたが、その活用や運用は学校に任せたところが多かったのです。

そこで、学校は試行錯誤しながら活用を手探りで進めたという事情があります。

そのとき、現場の教員の念頭にあるのは、「授業での活用」です。

学校が休校や分散登校になった場合、授業をどう保障するかが真っ先の懸案になるからです。

ICT機器への教員の慣れ不慣れがあります。また、児童生徒のICTスキルがまちまちで、取扱いに差が出ます。

そうなると、教員は「授業でICT端末を使うのは、ちょっとやめておこうか」になります。

そこで、せっかく揃えた端末を活用する一つの方法として、授業以外で使う道もとった方がいいのです。

たとえば学校からは、ほぼ毎日学校からの文書や案内文,プリントが児童生徒の家庭に向けて配られます。

また、小学校なら連絡帳の持ち帰りもあります。

それら紙で行っていたものを電子化すれば、毎日ICTを使うようになります。また紙の節約にもなります。

大阪府の箕面市の小中学校では、ICTを授業でも使いますが、学校と家庭の間のコミュニケーションを助けるwebサービスを使います。

これにより、学校からの連絡や配布物、連絡物、宿題、明日の時間割などは電子化して送ります。(来月からは原則的に,学校からのすべての紙媒体は電子化します。)

また、家庭から学校への子どもの欠席連絡や教員への連絡も原則、文書や電話以外で行います。

このように毎日、子どもが端末を使うようになれば,子どもや保護者はすぐに機器の扱いに慣れます。

こうなれば、端末を授業で使っても操作について、差が出にくくなります。

つまり、日常的にICTを使うことが、GIGAスクール構想を実現する「基礎体力」になるということです。

さらに一方で、学校としては、児童生徒に一人1台の端末を使い、スマホのSNSでやりとりするインフォーマルなコミュニケーションでなく、立場のちがう人(教員)、公的機関(学校)とフォーマルなやりとりををする経験を積ませる啓発をするべきです。

教員が研修を受ける意味とは

2022年02月02日 08時35分00秒 | 教育・子育てあれこれ

教員も市役所の職員も同じ地方公務員です。

そして公務員には研修を受ける機会が与えられています。

◀️(地方公務員法第39条:「職員には、その勤務能率の発揮及び増進のために、研修を受ける機会が与えられなければならない」)



ただし、一般公務員の研修は勤務能率を発揮して増進のための義務的なものとして位置づけられます。

しかし、教員の研修は,教員の専門職性を支える「屋台骨」のようなもので、自らが計画し、運営する自主的な研修が法で位置づけられているという違いがあります。

◀️(教育公務員特例法第21条の1:「教育公務員はその職責を遂行するために絶えず研究と修養に努めなかればならない」第22条:「教育公務員には、研修を受ける機会が与えられなければならない」)



その一方で、高度な専門職である教師には、任命権者(多くは都道府県)はその機会を用意するため、研修計画をたて、実施に努めることになっています。

◀️(教育公務員特例法第21条の2:「教育公務員の任命権者は、教育公務員の研修について、それに要する施設、研修を奨励するための方途その他研修に関する計画を樹立し、その実施に努めなければならない」)





さて、教員の免許更新制度が平成21年から導入されていますが、今回その更新制度が廃止されることになっています、。

そもそも、免許更新で10年に1度の講習受講を義務づけたのは、教員としての最低限の資質を保つためだったものです。

その免許更新制度と教職の専門職性を磨くために常にアップデートを図るため実施する本来の教員研修とは切り分ける必要があったのです。

結果、いま教員不足が起きています。


2021年度4月の始業式開始時で臨時の常勤講師の教員は、全国で約2560人が足りないまま1学期をスタートさせました。

5月になっても2065人が足りない状態でした。

もちろん各自治体の教育委員会の教職員人事関係の部署は、必死になって臨時講師を探しますが、なかなか見つからないのです。いないのです。

これは教員免許を取得したが他業種に就き、一度も教壇に立っていない人、いわゆる「ペーパーティチャー」を免許更新制度から外したために、教員免許が無効になった潜在的有資格者が減ったしまったことも臨時講師が足りない理由の一つになります。

他の職種に従事していたが、一度教員をやってみようと思い立つ人の門戸を、免許更新制度が締め出してしまったのです。




法がそもそも規定する教員の研修制度は、生涯学び続ける教師を支えるものであり、教員の自発性と最新の知識・スキルを身につけたいという意欲をサポートし、専門職性をより高めるためのものです。

免許更新のしくみを教員の研修に持ち込んだのは、趣旨が違うのです。

わたしは常々考えていますが、教員としていちばん必要な資質は、常に学び続け、授業を研究し、実践を重ねていく探究力です。

これほど社会の変化、価値観の多様化が進行する中で、授業の内容やスキルは常にアップデートされないと、児童生徒の学びを支えることはできないからです。

教員の研修は、この考え方の延長上にあるものです。

中学生がもつエネルギー

2022年02月01日 07時58分00秒 | 教育・子育てあれこれ
2月に入り、日本で最初の感染が報告されてからおよそ2年がたちました。

この2年間のコロナ渦への対応は、子どもを振り回してきました。

2020年の臨時休校に始まり、暴論とも言える秋期入学の降って湧いたような議論、度重なる緊急事態宣言、まん延防止重点措置など。

これらはすべて、子どもからすれば「おとなの事情」によるものです。

思えば2020年4月に中学に入学した生徒は今年の3月で2年生を終えます。それだけでも中学3年間の3分の2は,コロナ対策での制限ある学校生活を送ってきた「ウイズ・コロナ学年」になります。

おそらく4月からも感染防止を気にしながら学校生活を送ることになるでしょう。

思いきり友だちと自由に好きなことを話し、クラスメートと机を並べて学習にいそしみ、学校行事にクラスで盛り上がり、部活動などの課外活動に存分に打ち込む。

このような「ふつう」の中学校生活が送れなかった生徒たちの心情を思うと、胸が痛みます。


国のコロナ対策のための施策を議論するときの観点は、いつも経済か感染拡大防止かの二元論です。教育は後回しにされます。

教育を議論の観点に入れて検討すべきだと思います。

というのは、教育は日本の未来への「先行投資」であるからです。

いつも、子どもにとってどうであるかという視点を国策に盛り込む必要があると、わたしは思うのです。


また、校長も全校生徒を集めて朝礼や始業式・終業式、学校行事などで話ができないことが続いています。

生徒はずっとオンラインにより教室で校長の講話や話を聞くようになったからです。

それを「こんなご時世だからしかたない」と納得している校長ならそれでいいかもしれません。

しかし、500人以上の全校生徒が一堂に集まり、校長に視線を向ける。その時のダイナミックな雰囲気は経験しないとわからないかもしれません。

10代前半の若い子からエネルギーをもらい、校長自身がそのパワーをうけ、活気が沸き起こるのが肌でわかるのです。

「校長の話はおもしろくない」と世間から言われることもあります。

でも、じっとうなずいて聴いてくれる子、目をキラキラと輝かせて笑顔で聞いてくれる子、話のあとで感想を伝えてくれる子がいます。

これが校長が話す醍醐味です。

学校は、子どものパワーがみなぎる場所です。

全校生徒による全体合唱などを聞くとき、生徒たちのパワーが増幅され、校長にとっても、教職員にとっても教職のやりがいを強く感じるときなのです。