小雨の降る中、奈良県北部の大和高田から国道168号線で一路南へ向
かいました。五條市から十津川村を通り紀伊半島を縦断して太平洋岸の
新宮に抜けるこの道は、国道とは言え日本のチベットなどとも呼ばれる
山中を行く細く曲がりくねった山道です。こんなところに明治維新に至る
大きなうねりの一つが起ったとはとても思えない山深い土地です。
天誅組の変というのは、1863年に尊王攘夷の一派が公家の中山忠光
を主将に、十津川村の郷士らをかき集めて起こした騒乱ですが、また
たく間に幕府軍に討伐され、中山は長州藩へのがれ、郷士たちはいわ
ば見殺しになった悲惨な蜂起だったようです。
その本陣跡と言っても、山深い村の、さらに入り組んだ丘の上の狭い所で、
車のない往時,一体なぜこんな辺鄙な場所でと思わないではいられません。
その答えは歴史にあるのかもしれません。五條市の大塔町(旧大塔村)
から十津川村にかけては、その昔後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王が
かくまわれていた所で、尊王の気風が濃かったのでしょうか。大塔の道の
駅には親王の立派な騎馬像があります。親王にせよ、天誅組の郷士たち
にせよ、時代のうねりに飲み込まれた敗者たちです。篠突く雨の中、小
暗い山中で、しばしメランコリックな気分に陥りました。
そこから南へ20キロほど行くと、日本で一番長い吊り橋「谷瀬の吊り橋」
があります。これがない頃は、対岸との行き来が本当に大変だったとの
こと。この辺は山深く、何と言って産業もなく、その上明治時代に大水害
があり、村民の多くが北海道へ開拓移住、新十津川村をつくりました。
雨が降っていた上に風が強く、吊り橋が揺れ、その上、下の板が隙間だら
けで、はるか下の川が透けて見え、へっぴり腰で途中までひやひやしなが
ら歩き引き返しました。8月には橋の上に大太鼓を並べてたたく「揺れ太鼓」
という行事があるそうですが、ぞっとしますね。でも、面白い!