親月陸橋の高架橋に沿って歩き、佃大橋を目指します。現在緑が歩いてる場所はかつて運河だった場所であり、月島地区と佃地区の境界線だったのです。現在運河は埋め立てられて佃大橋通りの道路となっています。上の写真の「頭上注意」と書かれた地点に「佃橋」という名前の橋が運河に架橋されていたそうです。
江戸前の下町である佃地区を散策していくと、かつての船溜まりであった運河が見えてきました。運河の河岸には児童公園が整備されていて、ひっそりとした雰囲気に包まれていました。
運河の船溜まりの奥には佃一丁目の街並みと「大川端リバーシティ」の高層タワーマンション群が密集して立ち並んでいる光景を見渡すことができます。15年以上前にこの光景を初めて見たときは驚いたものですが、今では佃の街並みにうまく溶け込んでいると思います。
いつの間にか新しいタワーマンションが一棟増えていました。1999年に竣工した「センチュリーパークタワー」、高さは180メートルと大川端リバーシティのエリア内では一番高いタワーマンションです。
新月陸橋の歩行者用階段を上ると「佃大橋」の上に出ることができます。佃大橋を歩いて隅田川を渡り、地下鉄新富町駅へ向かいたいと思います。佃大橋は船の航行が多数ある隅田川に架橋されているので、かなり高い位置に架けられています。そのため橋の上からの眺望が素晴らしいです。
佃大橋の右岸側では隅田川の手前100メートルほどの位置から高架が始まり、左岸では佃・月島全幅にわたって高架(新月陸橋)のまま、朝潮運河に架かる朝潮大橋へと繋がっています。このため佃大橋周辺の道路は高低差が激しく、東京マラソンのルートにも指定されていますが難所であると言われています。
「佃」という地名の由来は、徳川家康が関東へ下降する折の1590年(天正18年)に摂津国佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移り、1645年に元々あった名前のない砂州に百間四方の土砂を埋め立てて拡張し、築島して定住することとなり、この島を故郷にちなんで「佃嶋」と命名したとされています。
佃大橋の右岸側をズームで撮影してみると、中低層マンションが密集して立ち並んでいます。中央区の中でも人口が多いエリアとなっているのです。
水戸藩により創設された石川島造船所が1876年(明治9年)に民間に払い下げられ、それが1979(昭和54)年に操業停止するまで、旧来の佃島の部分を除いて佃の多くの部分はその敷地だったのです。その後は1986年(昭和61年)から、都心回帰の促進を図る目的で大規模住宅群「大川端リバーシティ21」の整備が開始されました。
佃大橋の上から隅田川の上流側を撮影してみると、日本橋川の支流である「亀島川」の合流点の水門が見えました。江戸時代の初期の頃はこの辺りまで東京湾だったと言われています。
ズームで撮影してみると、中央大橋の奥には東京スカイツリーがくっきりと写っていました。この日は本当に快晴の天気だった上に、空気も非常に綺麗だったので地上デジタル放送アンテナを搭載しているタワー頭頂部のゲイン塔の細部までくっきりと撮影することができました。
現在佃大橋が架橋されている場所には「佃の渡し」という名前の船の渡しが江戸時代に存在していました。はじめは佃島の漁民たちと湊町(湊)とを結ぶ私的な渡しでありました。佃島は漁村の他に藤の花の名所でもあったため、江戸期には不定期に渡船が運行されていたが、日常的に運行されることはなかったそうです。
戦後の高度経済成長期、佃地区の上流に平行している永代橋、下流の勝鬨橋の交通量の増加、および東京オリンピック開催に備えた関連道路の一部として、戦後初めて隅田川に架橋された橋として佃大橋は建設されました。
1961年(昭和36年)12月に着工し、1964年(昭和39年)8月27日に竣工した佃大橋は ブロック別に当時日本最大の海上クレーン船にて一括で組み上げるという、大ブロック工法の先駆けともなる画期的な橋でもあったのです。戦前に完成した勝どき橋や永代橋と比較するとデザイン的にもあまり話題にならないのですが意外と「凄い橋」でもあるのですね。
佃大橋の歩道部分は橋の両側でなくなっていて、階段を下りなければなりません。
佃大橋の先は「中央区の入船・湊地区」の中低層マンションやオフィス街の密集地の中を散策していきます。